はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

石原慎太郎著『三島由紀夫の日蝕』①

2020年04月20日 | 三島由紀夫

2020/04/20

 

3月に、三島vs東大全共闘討論の映画が公開されました。その映画を見たいと書いたのは4月7日。

翌日から映画館は自粛で閉まってしまいました。

そのときのブログ記事↓

 https://blog.goo.ne.jp/yoshieri/e/be5c92242088f21ea8cc4cd4799f3126

 

その頃にAmazonで注文した中古本『三島由紀夫の日蝕』(1991年発行)が9日に届いたのです。

届いた本を見たら、すご~く汚い本だったんです(笑)

この写真でわかるかしら?

封を開けてこの本を見た時、こんなに汚れた本を見たのは初めてといっていいくらい。

触るのもためらわれた・・・

肝心の内容はどうなのかということですが、買ってよかった、読んでよかった!です。

長年自分が持ち続けていた疑問が氷解した部分はありますし、もっと早く読みたかったなあという感想です。

(1956年の写真 ネットからお借りしました)

石原慎太郎氏は三島由紀夫と親しく、自決事件前後のこともよく知っているので、これを書いてくれて感謝です。都知事時代の最後のほうはあまり好きではなかったけどね。

自決から20年経って、やっとこれを書けたと石原氏が言っているように、時間の経過とともに衝撃の大きさも薄らぎ、見えてきたものがあったと思います。

石原氏は三島より7歳年下で、一橋大学在学中の1956年に『太陽の季節』で芥川賞を受賞。その頃三島はもう文壇での人気作家の地位を得ていました。

三島から相手として望まれ別冊文春のグラビア撮影に出かけていったのが最初の出会いらしいのです。

そのとき、三島のことを「この人はなんだか、何に向かってか無理しているなあという気がしてならなかった。」と書いています。

「ぽっと出の若造で、それだけに、三島氏は出来の悪い学生に精一杯つきあって合格点を出してやろうという教授のような苦労をいろいろしてくれた」とも書いています。それ以後、亡くなる前までずっと交流があったのです。

 

『日蝕』の文中から引用します。

「日本の自然主義文学は描かれたものと作者のオーバーラップを容易に想起させる 三島はそれを逆手にとって自分の作品を粉飾しつづけた」(p.6)「作家は自分を表現すると揚言していても、実は自分を隠蔽するためにものを書いている場合もある」(p.7)

「深沢七郎氏の『いくら頭が良くても、あんなに無理して生きていればそりゃあ若死にしますよね』といったのが印象的だった。 三島が意図して行っていたすべての社会的プレゼンスはただの無理にしか見えなかったのだろう。」(p.7)

 

1956年の出会いの時に感じた「無理をしている」、それは事件に結びついていく核心のようなものだと感じました。

 

『三島由紀夫の日蝕』は石原氏の回想と、あとは三島との3つの対談が収録されています。

今は最初の回想部分120頁を読み終えたところです。それだけで十分な濃い内容です。この内容は一言では書けないので、これからも折に触れて書いていこうと思います。

 

 

 

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