皇祖神は徳川を選ばなかった
明治天皇は一つの事を大切に思っていた。それは「戊辰戦争」で負けた側への配慮。配慮というのがおかしいなら「同情」というべきか。
常に弱者の味方である皇室において、同じ皇族が敵味方に分かれて戦った戊辰戦争は、忘れられない記憶だったのかもしれない。
後に西南戦争で敗れる西郷隆盛の事も好きだったようだし。
そのような明治天皇のお気持ちに沿うように、まず廸宮(昭和天皇)のお妃には久邇宮家の良子女王が選ばれた。久邇宮家は戊辰戦争で負けた側であり、経済的にも他の宮家より苦しかった。
淳宮(秩父宮)には松平勢津子。いわゆる会津藩松平容保の孫を妃とし、光宮(高松宮)には徳川喜久子、つまり徳川慶喜の孫を妃とした。
ちなみに末っ子の澄宮には高木百合子(子爵家で1万石の大名家)を妃に迎えた。
大正天皇と貞明皇后の間に4人の親王が生まれたおかげで、とりあえず皇位継承問題は解決したかに見えた。
しかし、1924年に結婚した昭和天皇と妃の間には1933年まで親王が誕生しなかった。
兄より先、1922年に勢津子妃を娶った秩父宮家にも子供が誕生しない。
1930年に結婚した高松宮にも子供がいない状態。
三笠宮はまだ子供で、結局の処、明治時代の「皇位継承の危機」が10年近く続き、その責任はもっぱら昭和天皇と香淳皇后に委ねられたのである。
昭和天皇は結婚にあたって
女官達を泊まり込みから通いに
独身の女官をおかないように
側室制廃止
を決め、この事がきっかけとなり貞明皇后との間があまりうまくいかなくなる。
姑からすれば「嫁の気持ちを大事にしすぎる。夫を取られたくなかったら自分で努力すべき」という考えだったのだろう。
しかし、昭和天皇も決めた以上は何があっても皇統を繋げようと努力し、2年おきに子供を授かり、そして9年目に継宮を、その3年後に義宮を授かった。
ここまで、では誰が皇嗣だったのかと言えば、秩父宮殿下である。
昭和天皇には親王を授かる可能性があったので、公に秩父宮が「皇嗣」を名乗った事はないし、秩父宮家にも親王がいなかったので、「皇位争い」どころではなかったと思う。
私が皇祖神は徳川家を好まないと書いたのは、かつて、徳川秀忠の娘、和子が後水尾天皇に入内した事がある。でも天皇と徳川の仲は最悪で投げやりに長女を天皇にすると譲位してしまう。
結局、親王は生まれたけど早世、明正天皇も独身のまま生涯を終える。もし、明正天皇が即位せずどこぞに嫁いでいたらその血筋は皇室の中に深く入ったかもしれない。
また、和宮と将軍家茂の結婚も子供を持つに至らなかった。
この時点で「皇祖神は徳川を好まない」と思った人はいなかったと思う。
しかし、結果的に秩父宮、高松宮に子女はなく、唯一、三笠宮家にのみ3人の親王が生まれた。
戦前生まれは継宮と義宮のみで、三笠宮家の男子は全て戦後生まれ。
皇統の危機に真の意味でほっとしたのは戦後になってからという事。
勿論、明治天皇のような布石も打った。
それは、長女照宮を東久邇宮家に嫁がせたこと。東久邇宮妃となった照宮は1945年3月10日、防空壕内で親王を出産。信彦王だ。彼は昭和天皇の初孫であり、男系男子でもあった。
(余談ですが、昭和天皇も成年式を誕生日からずらしていた事をしりました。また百合子妃の父君は昆虫学者として名を馳せたけど、華族制度の解体で標本など全てを失って自殺しました)
戦後の悲劇
昭和天皇と皇太子の間の微妙な空気は、その時代、つまり昭和の後半を生きた人にかわからないと思う。
妙によそよそしいというか、滅多に天皇に笑顔を向けずむしろ敵認定したかのような表情に、当時の私は「この人、天皇陛下が亡くなったら弔辞を読む事出来るのか」と思った。
望まれて望まれて漸く生まれた日嗣の皇子であり、戦前は親子別々に暮らしたけど戦後は普通の親子のように親しい関係になった筈。
それなのになぜと。
継宮が生まれてから日本は中国やアメリカと戦争が始まり、昭和天皇は「大元帥陛下」としての役目に負われていた。
元々戦争は避けるべきと思っていた天皇にとって、226事件以後の軍部の台頭に頭を痛め、睡眠不足が続き、身体が時々痙攣するような事もあったそう。
太平洋戦争に突入すると、海軍は3ヶ月で終わらせると言ったのに、全然戦争が終わる気配がない。負け続けても止めない。
昭和天皇は自分の無力さに心を痛めた事と思う。
当時の子育ての慣例として3歳くらいまでは親元で暮らし、その後は女子は呉竹寮に、男子は御殿に入る。週に一度は面会をして交流する。それが甘やかさずに帝王学を叩きこむための育て方だ。
大正天皇は身体が弱すぎてそうもいかなかったけれど、昭和天皇は川村伯爵邸に預けられ、乃木希典を師として勉学に励んだ。
しかし、戦争中は(どの家庭もそうだが)家族団らんというわけにいかず、東京では集団疎開も行われ、皇太子と義宮は日光へ疎開。
時々軍が戦況の説明に来るが、皇太子はどちらかというと批判的に見ていたようだ。
戦後、GHQが11宮家を臣籍降下させ、華族制度を廃止し、上流階級の人々は辛酸をなめた。
マッカーサーは昭和天皇とその家族、弟宮家だけは残した。
この時、皇太子も義宮も未成年。三笠宮家は長男寛仁親王が生まれたばかり。秩父宮は結核を患い、子供なし。高松宮家にも子供がいない。
結果的に「皇室解体」の根はここで張られたのだ。
宮家が臣籍降下しても、昭和天皇はいずれ復活すると信じていた。
つまり日本が独立を果たした時に宮家が復活すると思っていたのかもしれない。
しかし、それは果たせなかった。
昭和天皇はアメリカ人を理解する為に、皇后らにキリスト教を学んだり、聖書を読ませたりした事もあるが、極めつけはGHQの指令で皇太子にヴァイニング夫人という美しい家庭教師をつけたこと。
彼女は熱心なクエーカー教徒で、皇太子に「ジミー」とあだ名をつけて呼んだ。
いうまでもなく、キリスト教的価値観の元、人間宣言した昭和天皇は普通の人であり、人間はみな平等であると教わったのではないかと。
さらに、アメリカの立場から見た反戦意識も植え付けられたのではないかと思われる。
戦争に負けたことで、日本は完全な悪役にされて、原爆を落とされた事にさえ「日本が悪い」という自虐史観を学校で教わる。
「寅に翼」にあるように被爆者がアメリカではなく日本という国を相手取って訴訟を起こすというおかしな出来事が起こったりする。
生き残った兵士達は「戦争に加担した」と責められ、次第に口をつぐむ。
戦後わずか1年でマッカーサーは人気者となり、日本はアメリカ大好きな国民になっていく。
しかも、東京裁判が皇太子の心を病ませる。
A級戦犯の死刑執行日が、12月23日。つまり誕生日だったのである。
A級戦犯がなぜそうなったかという事を冷静に考える暇はなかったと思う。
とにかく父である昭和天皇は「戦争責任」を取らない。
子供時代は豊かなものではなかった・・という記憶も相まってその静かな怒りの矛先を父君に向けたのではないかと私は思っている。
アメリカ人からみれば、日本の皇族というのは「孤独」に見える。
一般の家庭というものしか知らない外国人に皇室独特のしきたりとか文化は、異様に見えたかもしれない。ヴァイニング夫人にもそう見えたと思う。
知らないうちに「自分は孤独なんだ」と思い始めた皇太子。
しかし、彼の姉達も弟も妹も屈託なくお育ちであったのだから、やっぱり皇太子のみがそう感じていたんだと思う。
その事が結婚にも大きな影響を及ぼすのだ。
彼女は明仁親王の英語教師として雇われただけで、任期が来たらすぐに故郷へ帰れると思っていたそうです。決して洗脳するためにGHQから明仁親王に押し付けられたわけではないと思われます。
明仁親王が高校進学の際に任期が延長されたとのこと。
クエーカーはイギリスのジョージフォックスが創始者のキリスト教プロテスタント系の一派ですが、穏やかな宗派で信仰箇条のない宗教、他の宗教を否定したり迫害する派ではありません。また、個人を尊重します。
皇室の神道を否定したりしません。
人は皆神のもとに平等である、という考えが特徴ではありますが、過激な思想ではありません。
日本では新渡戸稲造がクエーカーとして有名です。
子がクエーカースクールに通っていました。
信仰する主たる宗教ではありませんが、どんな状況でもそのときの最善を尽くすために考えを巡らすこと、そして困った人がいたら、そっと手を差し伸べられる、そんな人に育ちました。
明仁親王はヴァイニング夫人からの教えの解釈が違っていたのではないでしょうか。
また、小泉信三氏、正田美智子さんの思想に影響を受けたように私は感じます。
名代として長男を立たせ、最期まで天皇として生きたかったのでは?
しかし、そうすれば男系男子の皇統が禍々しい血筋の娘に移るかもしれない。
御自身が譲位すること以外に悠仁親王殿下まで繋げるにはその方法しかなかったのだろう。追い詰められていた…あれから5年何よりの証拠に上皇は譲位が必要だったのかという程だし、たまにその御姿も拝見できる。
古からの事を全て知っている訳では無いけど、秋篠宮皇嗣殿下、悠仁親王殿下に外見も性格もその血筋の濃さを感じるのです。
何で令和の天皇だけあんなに丸いのだ?顔も体も。学者肌だとも思えないし?
やっぱり小和田徳仁さんの方が似合いますね。響きも良いw
小和田愛子さんコチラもなかなか良いw
恒優雅礼節徳愛すんばらしいではないか(爆)ひとつ足りないのは【智】かな?
日本の特殊性はすべて近代化のおくれと歪みでしかなく、夫人の教育は、その歪みを正し、皇太子をよき市民たらしめることを根本に、皇太子を小公子、リトルフォンテルロイとすることだったと言っています。
また、ヴァイニングによる教育を「とりかえしのつかぬ誤り」としていました。
明仁皇太子はジミーという名前をつけられましたが、同級生も同様で、学習院の父兄からは犬のような名前をつけるなと苦情がきたようです。この一つとっても、日本人を見下して好き勝手やってたんじゃないかと想像します。
そして、小泉信三の娘によると、父親とヴァイニングがお妃をどうするかよく話し合っていたそうです。彼らの教育の路線に沿った相手が、旧華族ではない、もしかしたら純粋な日本人ですらない、日本人離れした上皇后だったのだと思います。
秩父宮のご成婚は1928年、昭和3年の9月です。
イギリス留学中だった宮さまが父である大正天皇のご容体悪化に伴い日本への帰国の途についた途中アメリカにお立ち寄りになり、日本大使館に宿泊された。
そこで初めて駐米大使のお嬢さんだった松平節子さんとお会いになった。
これがお2人の出会いの場でした。
と、妃殿下のご著書「銀のボンボニエール」に記されています。
1922年のご成婚なら、大正天皇ご存命のときになってしまいますね。
そのとき生まれて初めて着用したシルクの喪服の感触、そして妹さんと一緒に宮さまへお茶やお菓子の接待をご母堂から申し付かったときの緊張、私のすきな描写です。