世なおし倶楽部

①ことば遊びから哲学へ②安全な国産の農産物等の生産、流通③人に健康社会に平和④地球環境とエネルギー⑤矛盾の活用

マッチポンプ商法氷山の一角

2009-11-11 09:54:15 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済
PJニュースから、無断転載

新型インフルエンザをめぐる疑惑の数々
2009年11月11日07時17分 / 提供:PJ

このところ、新型インフルエンザとそのワクチンの話題が大手のマスコミ各社で流され続けている。

しかし、今回のインフルエンザは「A型」と呼ばれる、毎年流行する「あたりまえ」のインフルエンザに過ぎない。実際PJもインフルエンザにかかって検査をしにいくと「たいしたことはありません。水分をきちんととって、2~3日、寝ていれば治ります」と言われる。普通はあまり激越な症状はないものなのだ。

一方で「今年新型インフルエンザの死者は50人にも達した」などの報道が多くなっているが、毎年、流行性のインフルエンザでの国内での死者数は数百人~一千人ほどになっていることは、関係者の間では知られた事実だ。また、インフルエンザ・ワクチンの副作用で死ぬ人も、毎年数十人はいる、ということがよく知られている。つまり、「新型で死者50人」はまだ少ないと言ってよい。今年は特別でもなんでもない。

ところで「ワクチン」は製薬会社が作っているが、普通の薬ではない。ワクチンというのは、病原体のウィルスを弱めてから体内に入れ、軽い病気を起こさせ、体の中に病原体に対抗してこれを殺す「免疫」を獲得するために用いる。つまり、ワクチンを接種するということは、軽い病気に一度かかる、ということだ。しかし、人間には個人差があり、幼児や老人など、免疫の機能が健常者よりも低い場合は、ワクチンで本当に大病になってしまうこともある。

そのため「免疫不全」で有名な、いわゆるエイズの患者など、免疫が正常に働かない疾患にかかっている人には、ワクチンの接種はしないように厚生労働省からも指針が出ている。幼児はまだ健康管理が行き届いていることもあり、幼児用のより弱めたワクチンもあるものの、老人の健康管理は管理されていない場合も多く、心もとない。実際、インフルエンザやワクチンの副作用(今は副反応と言う)で毎年亡くなる方のほとんどが老人である。また、当然のことだが、若い人間でも多大なストレスや過労などで免疫機能が低下することもよく知られている。副作用が死に至るかどうか、というのもかなり個人差のあることなのだ。

ところで、ワクチンのはしりともいえる成功例は150年前の天然痘のワクチンであることはよく知られている。ところが、それ以降はワクチンで地球上から病気が根絶した、という事例は見当たらない。

ところで、ここに「前橋レポート」というワクチンの業界では有名なレポートがある。このレポートによって、1990年代前半に、インフルエンザの集団接種が中止された、という経緯がある。

このレポートは、群馬県の前橋市の医師会が5年間にわたりインフルエンザのワクチンについての実効を詳細に調査したものだ。その結論は実質的に「ワクチンは意味がない」という、当時としては衝撃的なものだった。結果として、多くの国内の学校や企業がインフルエンザの予防接種をやめた、という経緯がある。

誤解の無いように添えておくと、このレポートの結論は、インフルエンザワクチンは「効くこともある」が、その持続性に疑問があり、自然感染での免疫獲得のほうがより良いということ。また、インフルエンザ感染を防ぐ決定的な要因は、過去の自然感染歴であって、ワクチンの効果は一過性のものにすぎないと考えるべきだ、と言う結論だ。また「症状軽減を目的として予防接種を行うと、感染力を持ったまま出席する児童が多くなる結果、逆にインフルエンザ流行を拡大させる要因になるかもしれない」とも書いてある。

私たちが子供のころBCGの接種が義務付けられていたことを覚えているだろう。いまは任意で受けることができる。その後、結核はほとんどなくなった。そして結核はどうなったか? 実は日本は先進国でいちばん結核患者が多い国になっている。

しかし、かかったところでほとんどの人にはたいした症状が出ず、毎年の死亡者数が減らない、ということではこの「ワクチン」とはいったいなんなのか? という疑問が湧(わ)いてくる。

一方で、世界有数のワクチンメーカーがこのインフルエンザの流行を予想して、今回の新型インフルエンザで最初に発症例と死亡例が多かったメキシコに大工場を設立している、というニュースもある。

私の父は正直一途、と言っていい古いタイプの医者だったが、こう言っていたのを思い出す。

「風邪は治す薬はない。熱、咳などの症状を抑える薬はある」
「風邪になったら、水分を十分にとって寝ること。それ以外には治らない」
「子供のころから、病気になればなるほど、大人になって病気の耐性ができて強くなる」「基礎体力をちゃんとつけておくことが一番」

実際に毎日たくさんの患者を診る父親がそう言っていたこの言葉のどれもこれもが、前橋レポートの中の言葉と一致している。

もしもこれが人々の恐怖をわざと煽って金儲けをしている、という地球規模の詐欺のようなものだったとしたら?【了】

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パブリック・ジャーナリスト 三田 典玄

本屋さんの収支

2009-11-08 19:13:12 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済
クーリエジャポン11¥680(39ぺージより無断転載)
太陽光集光型コンロ(煮炊機 ニタッキ)
燃料、電気不要。約一時間で湯が沸くらしい。
いもなら、水無しで調理できる!




<本屋さん>

原価   70%
営業経費 19%
人件費   9% 店員一人平均¥400万/年
純利益   2%

一例です!

超いも理論

2009-11-08 13:46:02 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済
最近、なにを思ったのか焼き芋に凝っています。
土鍋(耐熱性)を空だきして20数分でできます。蒸したり、茹でたりしたのとは味に天地の差があります。

膜が焦げて香ばしく、もちろん膜ごと頂きます。

いもを、土鍋で空だき焼きし、皮(膜)ごと頂くと、すごい幸せ気分になりますが、なぜそうなるのか?
その原理を「超いも理論」といいます。
膜(皮・境界)の部分に「命 コントロール情報」があると知ったのは
披露聡秘のお陰です。

境界、膜、皮、地表(土)の部分は天地、陰陽のエネルギーの葛藤つまり、命の営みのあるところです。地球上の生物が現出したところは、地表の一番各種エネルギーの集まる所と推察します。そこはどこでしょうか?ヒフミの言霊が理解出来ればわかりますが・・・

超いも理論は、すぐ体得理解できますが、
超ひも理論は、ほとんど理解出来ないでいます。


大宇宙と小宇宙との共鳴

2009-11-08 13:19:54 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済
上の画像は、天然偶然の産物です。あるテクニックで処理しましたが。



世なおしの必須条件は、
①人口の60%の日和見庶民の賛同を得る
②エネルギー、食糧の安定的確保
③教育、医療、経済の「哲学」の掘り下げと、庶民への啓蒙周知徹底。

大宇宙を認識する方式は、
①「大宇宙の裏返し構造」によって大宇宙の情報をキャッチする。
②相似形による共振による情報キャッチ。(現在、電波による通信はこの方法によっている)
以上の両方が必要のようです。
①の方式では、パワーをキャッチする。
②の方式では、パターン、モード、型を得る。
 ①と②をあわせて、「実体、現物、形=エネルギー」となる。

一般常識ではエネルギーの定義があいまいです。改めて定義しますが、
エネルギーとは、①パターン、モード、型、波形、波長、質(圧、熱、位置、方向、順番・・)など、
        ②変化力、力、パワー、量など、
①は多様性であり混ざらない、②は単一性であり足し混ざり合う。 

形=型+力=パターン+パワー

宇宙が自動的に存在している、根源的メカニズムは
「質と量の交互循環」であろうと想像する。つまりエネルギーそのものでもある。
質と量の交互循環とは、垂直関係の連続、つまり「有限構造の無限な繰り返し」

繰り返しの概念は、一つのものが、同じものが複数あることですが、同じものが複数あることは論理的矛盾です。複数ありえるのは「違うから」ですから!
この矛盾を解決すると宇宙無限システムが解明され、無限エネルギーが使える様になると考えます。

ただし、無限エネルギー(とくにパワーの部分)を、皆が、民(無明の輩)が同時に消費すると、宇宙はフリーズしてしまうと思われます。大衆、庶民が一度に公平に贅沢生活をすると大変困ることになるのです。
さて、もっとも合理的な世なおしは、いかなる方式がベターなのか・・・

瞑想と冥想 09/11/6

2009-11-06 21:36:06 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済
    気になるあごですが・・着いていませんよ!


 難解なテーマにチャレンジして、つらつらと、徒然にブログっております。まじめに集中しすぎると瞑想にならなくなりそうなので、自分は自分のペースで瞑想しています。時に集中し、時にリラックスしながらという具合です。

アイデアがふっと浮かぶ状況の多くが、リラックスしているときのようですが、確かにそれは正しいと思います。自分の場合、風呂効果は大きいと思います。それと、眠っているとき。夢のお告げが結構あります。夢を見ているときは、疲れていて、熟睡していないと云われます。そうだと思います。熟睡してしまっては「瞑想状態」になりませんから、夢をみる状態というのは、眠っているようで起きている状態ですから、まさに瞑想状態そのものと云って良いと思います。
風呂での瞑想を「フロソフィ」といいます。ヒロソフィ=哲学よりも肉体柔らかめの、脳作業です。

さて、瞑想状態とは、起きていながら半分眠っているような状態です。居眠り、夢見の状態が良く似ています。実際、居眠り状態のときに、色々な不思議なメッセージを受けることがあります。多くの人が体験されていることと思います。間違いなく、居眠り状態、夢見状態と瞑想状態とには深い関連と共通性があるでしょう。へたに、足を組んだりして苦痛の思いを我慢してする形ばかりのメイソウをしても、真の冥想にはなりにくいと認識すべきです。我慢メイソウするよりも、居眠り瞑想のほうが、脳波も変性意識状態になっていて、瞑想そのものなのと云えます。重ねて強調しておきましょう。

さて、その変性意識とは一体どんな状態なのか、居眠り状態でもあり、夢見状態の脳の状態ではあります。
中間意識状態ともいいます。我が推考の結果では、「矛盾」の克服意識状態も、それに近いものを感じます。
脳、特に大脳ですが、瞑想状態を認識する手助けとして、「大脳思考」あるいは「生きている実感」はいずれも「複数の平行、パラレル感覚の総合統一感覚」です。
 例えば、赤い絵の具の中に、同じ赤い絵の具を入れて、それぞれを識別するのは大変難しいことです。しかし、「生きている」という絶対的「ひとつ」の状態にいながら「生きている」ということを感じるのは、難しいことではありません。常に何気なく簡単に感じています。変ですねえ!
 同じ状態のの中にいて、違いが識別できているのは、すでにそれ自体が「瞑想状態」なのですが、並の常識的認識力では気づかないのです。難しいと言うことは「気づきづらい」というぐらいに考えるといいと思います。で、瞑想は、難しい、難行苦行ではないごく日常的、自然な感覚であるということなのです。
 なぜ、生きているという「一つ」のことを感じ取れているのかを、ちょっとゆっくりと考えればそのメカニズムが見えて来ます。風呂にでも入ってゆっくり思い巡らしたらいいのです。
生きていることを感じるのは「死」の反作用と考える方もいることでしょう。しかしそれは、すこし無理があります。今生きているという感覚は、連続的に今進行形で生きているということを感じているのに、1回のみのご臨終を引き合いに出すのは、論理的ではありません。現実的でもありませんね。
でも、やはり生と死は相反する対立する概念であり、お互いがそれぞれの存在感を際立たせていることは否定できないことでもあります。矛盾の匂いがします。そう、この矛盾の中に解答が潜んでいるのです。
矛盾を克服する大脳の思考は、瞑想状態訓練におおいに役立ちますので、ちょっと意識を集中して、このあたりの「雰囲気」の味わいをキープして見て下さい。

生きていながら、同一の生きていることを認識出来るという矛盾はなぜ生じるのか?人間が勝手に矛盾としているに過ぎないのですが、そもそも、生きているという同一の状態が「連続している」と思い込んでいることが矛盾の根源であることに気づくべきなのです。連続して生きているように感じるのは感知力が鈍いだけなのです。今日常的に、瞬間瞬間生きているということは、進行形ではあっても、連続なんかではないのです!そうです、実は瞬間瞬間生きたり死んだりしていたということなのです!だから、生きていながら、生きていることが認識出来るのです。単一のものが単一であることを認識出来るわけは絶対ないのです!論理的に無理です。つまり、単一と思っていることがそもそも錯覚なのであり、間違いの元なのでした。ボタンの掛け違いということです。はじめの間違いに気づかないと後々えらいことになるということです。

人間は言葉で外界のこと、自分の感覚などを認識理解しています。その言葉の本当の意味を知らないで、次々と思いを重ね、認識、感覚の織物を織っていく訳ですから、大人になったときに、相当へんてこな人間になってしまうのは当然です。

大脳思考をちょっと工夫して、矛盾を克服するような思考法をマスターできれば、いわゆる瞑想はそれほど難しく無くクリヤできるでしょう。他にも方法があるとは思いますが、自分はこの方法が一番簡略で実用的であると思います。冥想は自然や生の生き物がさりげなく本能的に実践しています。しかし人間が冥想状態になるためには、まず瞑想状態をクリヤしないとならないように思います。

呼吸の吸う吐くの繰り返しこそ、生死の繰り返しであり、生きていることを明確に認識する実践的なトレーニングになっています。そう、素直に思い込むことが瞑想修得のコツでしょう。

ヨガ、瞑想、冥想の極意をブログなんぞで公開してしまって、イインダベカ?!

瞑想と冥想 09-11/5

2009-11-05 18:14:04 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済


 人間的な大脳の「我欲 エゴ」を止滅させて、本能的、野生的な感知力を曇り無く発現させる方法が瞑想でした。しかし、「止滅」させることの非合理、矛盾、非論理性を感じるようになって、瞑想そのものの意味、効果について疑問が湧いてきました。
 いっとき、大脳のエゴな作用をシャットアウトして本能的な感知力を発現させることはそれほど無理なことではないと思います。というか、当たり前のことでしょう。簡単な例えで云えば、大脳のストレスの影響による自律神経の乱れによって胃腸の働きは、簡単に乱れ、自律神経が整うと、胃腸の働きは即整ってきます。このときの、大脳のストレス制御を瞑想として捉えると瞑想になり、温泉でストレスが消えれば慰安ということになります。単なる言い方の違いで、メカニズムに大きな違いがあるわけではありません。
瞑想は格好よくて慰安ではダサイのでしょうか。そうなんです。人間は言葉のニュアンスに敏感に反応するものなんです。それはともかく、大脳の働きを一時的に止めることに問題はありませんが、「滅する」ところまで拘ることはないと思うのです。滅する必要はないでしょう。ちょっとした言葉遣いによって、イメージが変わります。極端なことが「すばらしいこと」のように思うのは人間の弱さでしょう。すばらしいことのように思ってもいいですが、「囚われない」ことが大事なのです。
徹底して考察しつつも、そのことに「囚われない」センスが「瞑想」のセンスということが云いたかったのですが、回りくどい表現でした。

つづく

瞑想と冥想

2009-11-04 16:48:57 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済
ヨガの言葉の意味が「結ぶ」でした。その意味からヨガの目的は、
こころと体を結ぶ・・・親と子、兄弟姉妹、友人同士、親族、恋人同士、向こう三軒両隣
師弟、官民、自然と人間、神と人、・・・・などなど
いずれも、人がらみです。人の営みですから当然です。

究極の目標は自然、神との結びということになりますか。
ヨガを行じた先達は、実際に自然と結ばれたのでしょうか?
結ばれたとするならば、どのようにしてヨガを実践して結ばれたのか
考察してみました。

ひとことでいうなら、瞑想行によって人は自然と一体化できた、ということでしょう。
瞑想とはどのようなことでしょうか
瞑想とは人間くささの排除と野生自然性の昂揚」です。
しかるに、冥想とは・・・ 

人間の究極の願望の一つに、自然との融合があると思います。野生生物なら、そのままで自然と一体だと思いますので、改めて融合したいという願望は生まれないでしょう。しかし人間は大脳を発達させて、本能的能力を弱くさせた分、改めて意識しないと自然との調和がとれにくくなってしまったのでしょう。そこで、瞑想、冥想ということになるわけです。
余計な大脳の動きが本能的な感覚を攪乱する。本来の、自然にはたらいている感知力を妨げずに機能させれば、人間といえども自然の一部にちがいないのですから、野生自然の感覚を実感できるはずです。
野生的自然性と共鳴させるのが瞑想であり、人間性を含めた自然性と共鳴させるのが冥想とします。
人間性を含めた大きな自然性と共鳴させるためには、大脳の制御が改めて問題になります。暴走しやすい大脳ではありますが、自然の一部には違いないので、その「クセ」を理解して扱えば制御は可能と考えます。

大脳の特性は「学習」ですから、不自然な学習を改めて、よくよく自然な学習に心がけるなら、本能的感知力への大脳の妨害作用は排除できるはずです。目には目をです。徹底した自然学習、真の哲学による「自然な言葉の定義とその習得」ができれば、人間くささを抹消せずに「人間のまま自然の感知力を大いに機能させる」ことができるのでしょう。

野生的自然感知力を作動させたほうが都合良い場合と、人間的人工的バーチャル的感覚や、人間世界に特有な生活感覚や、生活ルールに関係する場合とを分けて、対応することが必要でしょう。分けて、また総合することは云うまでもありません。

ヨガの目的と、その達成法を整理すると、

①野生的自然性を覚醒させる瞑想法
②人工的人間的自然性を覚醒させる冥想法
のそれぞれをマスターし、両方を調整する。

となるでしょう。
つづく

初雪 平年より遅い が、寒いに違いはない

2009-11-02 17:08:21 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済





雪の降るときには、足下から冷気が上がってくる。
それと、からだの芯から冷えてくる気配を感じる。
体温の低い者ほど感じるようです。



冬の到来を待つ農場。手稲山の反対側です。もちろん同じ時刻。


今回、選挙で大敗した○○党の幹部の、江別にある記念農場の庭。
早朝降った雪は、昼になっても融けずに白く残っている。

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今風活動写真