世なおし倶楽部

①ことば遊びから哲学へ②安全な国産の農産物等の生産、流通③人に健康社会に平和④地球環境とエネルギー⑤矛盾の活用

七夕祭り

2007-08-04 22:22:36 | 自然・環境・生活
旧暦の七月七日が七夕の日です。昔は2月の節分の日あたりが一年の始まりだったのでしょう。その始まりから数えると七月七日は現在の八月何日かになるのでしょう。七日に拘るのはなぜでしょうかね。七月七日と云う風にぞろ目になるところにそれなりのこだわりの意味が合ったのでしょうから、八月になるのだったら八月八日のほうがしっくりします。

ちなみに、一月一日 三月三日 五月五日・・・と云う具合に、奇数のぞろ目の日は特別の思い入れがあったようです。九月、十一月のぞろ目日については後日調べておきましょうか・・・

ところで、七夕のいわれについて、諸説あるようですが、私のお気に入りの説をご紹介致しましょう。

その昔、中国の庶民の智慧で、女の子が一生暮らしに困らないようにと、手芸に巧になるように乞い、祈る「乞功デン」という行事と、日本古来いの「たなばたつめの信仰 棚機織りつ姫」とが合体した行事が「七夕祭り」ということでした。
七夕をなぜ「たなばた」と読ませるのか?なぞは広辞苑が解いてくれました。詳しくは広辞苑でということで。
機織の機械を「棚機」ともあらわすようで、その読みの「たなはた」から、七日の夕べのお祭りの呼び名が「たなばた」になったようです。

イラストは「デン」と云う旧字体です。乞功デンのデンです。意味は、「天の元にお酒のつぼをお供えする」です。





めだかが減った!

2007-08-04 01:26:08 | 自然・環境・生活
8月3日は「蜂蜜の日」とか。ミツバチが減ったなと多少心配気に云うが、それでおしまい。対策を真剣に考え胃潰瘍になる庶民はいない。私もそんな庶民の一人でした。そんな今日の午後NHKラジオから聞こえてきたのが「めだかの学校」が減っている、と云う話。減った主原因は「田んぼの周りの水路のコンクリート化」だそうです。農薬は大した原因ではないらしい。めだかにとって、泥のむき出た「水辺、水溜り、流れの緩やかな水路」が生息には一番大事な要素なのだそうだ。それもそうかなと思う。自然界では住環境は即食環境でもあるわけです。食なきところに生命現象無し、が第一原則とすれば、農薬以前の食の供給源「住みか」つまり縄張りの問題のほうが、自然生物にとってはとりあえずの死活問題なのかも知れない。

とりあえずと言えば、庶民にとっても目先の、「とりあえずの経済」が死活問題であることに、めだかとの共通点を感じます。

日々の生業、おまんまをないがしろにしては、庶民の生活は成り立たない。食無きところに生命現象無し、も究極の原理です。しかし目先の人参を追っかけるような馬・鹿に成り下がっては人間の尊厳を失ってしまう。

ミツバチもめだかも「目の前」からその姿を隠しつつあるのは事実でしょう。他にも絶滅に瀕している生物もたくさんあるのが現状です。いわゆる自然野生環境も急速に人工的に激変させられています。

急速にしろゆっくりにしろ、自然は変化するものです。その変化が「善か悪か」の判定基準は「関係者、当事者の都合」と考えると、不思議に納得してしまう今日この頃。

変化して困る人(者)は、「現状がとりあえず幸せ」な人たちです。現状が苦しい者にとっては「一刻も速く変わって欲しい」のです。今、健康で経済的に豊かな状態の者は病気になりたくないし、貧乏にもなりたくないのです。程度の差はあるにしても、嫌な状態が永遠に続いて幸せを感じる人はいないでしょう。

どの程度の「汚い変化、破壊」なら許されるのか、我慢できるのかは、「関係者、当事者」の都合であり、「芸術性、感受性のヒダ」の豊かさによるのでしょう。

「世界残酷物語」と云う映画がありました。世界はきれいごとだけで成り立っているのではない、と云う当たり前を再認識させられる、ショッキングな傑作でした。
自然現象を、美しいと見るか、汚いと感じるかは人間の勝手です。自然野生はあるがままです。

そして、勝手な人間はめだかの減少の話を聞いて今更ながら、しみじみ思うのです。

「苦しんで死にたくないものだ。眠るように大往生したい。ハゲワシや野犬やねずみなどに食われて死にたくない、痛そうだから。どうせ食われるなら美女に食われたい! まして、火葬場で焼かれるのは火傷してヒリヒリするようで・・・」

環境破壊も程ほどに、ということでしょうが、意外と、野生生物はしたたかですよ。バクテリアのレベルで考えるなら、人間のレベルでの環境破壊など、心地よい変化刺激くらいに感じているはずです。その刺激のおかげで、色々な多様な姿に変身、変形して多様性を謳歌できるのです。


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