世なおし倶楽部

①ことば遊びから哲学へ②安全な国産の農産物等の生産、流通③人に健康社会に平和④地球環境とエネルギー⑤矛盾の活用

無限と哲学070814

2007-08-14 07:43:17 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済
昨日の写真カットは「∞」を工作したものでした。今日のはそれを角度を変えて撮影したもの。

このもの自体は「有限の存在物」です。空気中に物体(紙粘土)として、大きさ、重さ等限りある存在です。が、形で表そうとしたのは「無限」の概念である「繰り返し」のことです。

「繰り返し」というのも実はインチキです。錯覚でした。同じことが何度も現象することを「繰り返し」と云うのですがそもそも純粋に「同じこと・もの」はありえません。同じもの・ことが有り得ないなら、繰り返しもありえません。

「無限」とは繰り返しの回数の無制限のことでしたが、繰り返しが成り立たないのであれば、無限の存立も危ういことになります・・・矛盾することをいかに言い訳けするか・・・

そうなんです。

哲学とは、そもそも「あいまいなことの、とりあえずの言い訳」なのでしょう。

「無限」とは「終わらないこと」「限度の無いこと」というのが、純粋な定義でしょう(広辞苑:限界のないこと) 
ところで、「限界」のないことに「初めとか、終わり」の概念を押し付けるのは無責任ではないでしょうか。・・・

論理的には「同じもの・こと」は有り得ません。しかし、現実には有り得ます。
そっくり、うりふたつのものの存在はが、場所が違えば可能です!時刻が違っていればそれも可能です! まったく同じものが存在可能なのは、場所あるいは時刻が「違う」ということで許されるのです。

「同じ」というより「限りなく良く似ている」と表現するほうが哲学的です。

ただ、面倒なので日常的には、いい加減に「同じ」を使っているのです。
哲学的思考の場合は、微細な意味の違いを使い分けないとダメということです。

そもそも「無い」という表現自体が、軽はずみな表現なのです。「何」が「無い」のでしょうか。「何」かがあるからこそそれを「無い」と否定できる「矛盾」になります。

「限界のないこと」という広辞苑的表現に疑問をもたないようでは、人間としてもったいないことです。宇宙・自然の諸現象で「限界」とは一体どんなことでしょう。「限界」を「境目」と言い換えて考えて見ましょう。宇宙に「境目」が無いと想定することは非現実的です。今日と明日の境目は「厳然として有ります」物と空間(空気)の間に「境界・境目」があればこそ、物の認識が出来ているわけです。
ただ、現在の哲学、科学界の「境目」の定義がいい加減なのが問題です。

世なおし倶楽部・披露聡秘は「境目」を明確に定義しています。

結局「無限」は「繰り返しの回数の無制限であること」に落ち着きます。
限界のないこと、ではダメです。

哲学の究極の結論は「宇宙は存在し続ける」です。
真の哲学に「無い」で終わるセンテンスはタブーなのです。

「存在」とは「時存・空在」でしょう。

つづく

youtube

今風活動写真