世なおし倶楽部

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無限の正しい概念定義・初公開070813

2007-08-13 04:51:14 | 哲学/ヨガ/芸術/宗教/政治経済
哲学は「珍奇」であってはならないそうです。それで、珍奇っぽいものは「披露聡秘」のカテゴリーに差別しております。

今日の「無限」の定義は結構珍奇に受け取られると思いますが、まじめな考察の結論と自負してますので「哲学」のカテゴリーに分類しました。

さて、「無限」の定義ですが、「宇宙・自然界における繰り返しの回数の制限はない。その繰り返しの回数について、説明する概念を無限」という。(ところで繰り返しの定義も問題ありなのですが、そのことについては改めて語ります)


ちなみに、空間、と時間は「有限」です。であるからこそ限と限の「間」があり得るのです。無限とは限りが無いのです。

ところで、宇宙は「時間・空間」で出来ている、と考えている学者がほとんどであり、世の常識になっています。であるなら、宇宙の無限性をどのように考えたらよいのでしょう。

宇宙はなくなりそうもないので、「無限だろう」という適当な、無責任な学者、庶民感情もバカには出来ません。特に「わからないこと、確認のしようの無いこと」は研究のしようのない科学者に「無限」について考えろと云うのは無理ではあります。

わからないことが気になって、寝ても覚めても考えるセンスが「人間の条件・哲学」だとすれば、科学者が人間の自覚を失わず、哲学者でもあればよいことになります。実際、偉大な発見をするような科学者は、学業の成績の良し悪しはともかくとして「夢を追いかける」哲学性を失っていない人だったように思います。

わからないことを考える時に「常識のしがらみ」に縛られすぎると、ひらめきが出にくくなるようです。

「無限」を考えるセンスは、いわゆる理性、形式のしっかりした有限思考の学者や、俗な目先の現物・有限物や世間のしがらみ付き合いに律儀な庶民には、ありえないのでしょうか。

しかし、人間なら、「無限」が気にならない人はいないと思うので、世間体は気にするが根がいい加減な庶民のセンスに期待したいと思います。同じ人間でも、特に頭が固くなりがちな学者に「無限」の考察を期待するのは酷なことなのかもしれません。

難問中の難問「無限」をかんがえるには、スーパー柔軟な頭が必要です。初めに持っている「無限」のイメージに囚われずに考えなければなりません。

問題が与えられたとき、その問題の主旨と、その問題の問いかけ方の正しさを「判別」する作業を先にやることの大切さにまず気づくことから始めます。ここが最大のポイントです。世なおし倶楽部のポリシーはこのセンスです。

つづく

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