後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

静かに時が流れる武蔵国の國分尼寺と鎌倉街道

2015年01月23日 | 写真
冬の午後の陽が斜めに射しています。このような時は武蔵国の国分尼寺跡を散歩したくなります。冬の日の鎌倉街道の様子も見たいと思い、先程家内と行ってきました。
国分寺と國分尼寺は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の律令国家の全てに建立を命じた寺院です。二つ並んでいることが多く、国分僧寺と国分尼寺とも呼ばれます。
冬の國分尼寺の跡の礎石の並んでいる風景を眺めていると天平の世からの時の流れがしみじみと想いやられます。
そして国分尼寺の横を通っている鎌倉街道の切りどうしの道を見上げると、昔の人々の影が見えるような気分になります。この鎌倉街道は東山道武蔵野路だった道です。
近所の畑に菜の花が咲いていましたのでついでに写真を撮ってきました。
菜の花の写真2枚と國分尼寺跡の写真2枚と鎌倉街道の写真1枚を順々に示します。
こうして今日も静かに流れ行きます。もう一週間もすると1月も終わりです。早いものです。









八丈島、縄文時代からの歴史(2)6000年前の縄文土器と石器多数が出土

2015年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
八丈島から6000年前の縄文土器や石器が多数発見されているのです。それらの貴重な資料は八丈島歴史民俗資料館に展示してあるのです。縄文時代の人々は丸木舟で大洋を漕ぎ渡ったのです。
歴史民俗資料館では地域歴史専門家の細谷昇司氏と知り合い、その後いろいろ教えて頂きました。
彼の説明を聞きながら資料館の各室を詳しく順々に見て行きました。
そうしたら、ある部屋に、約6000年前の縄文時代に島のあちこちに住んでいた人々の遺骨や石器・土器が多数展示してあったのです。
石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来た島には有る筈がありません。従って縄文人は土器を丸木舟に積んで太平洋を渡って本州から来たのです。
下の3枚の写真に歴史民俗資料館に展示してある土器と石器の写真を示します。

上下の写真は2009年1月29日に撮りました。

下の寫眞の出典は、http://manham.in.coocan.jp/trip/hjj12B.htm です。

八丈島は本土から約300キロ南の太平洋上に浮かぶ孤島で、また黒潮本流の外側に位置する亜熱帯の島です。
現在から6000年も前の縄文人が丸木舟で海を渡るのは危険な冒険です。古代人の体力と勇気に感動します。そこで八丈島の考古学的研究を調べてみました。
そうしたら国学院大学の小田静夫先生の「八丈島の先史文化」という題目の研究論文を見つけました。以下はこの研究論文の抜粋です。全文は、http://www.ao.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/ に出ています。
まず考古学の調査の経緯以下にを示します。
(1)1962年(昭和37) 夏、地元中学生が一点の「大形磨製石斧」を採集(八丈島誌1973, 1993)。
(2)1964年(昭和39) 1月、地元都立八丈高等学校による試掘調査(八丈島誌1973,1993)。
  同じく3月、明治大学考古学研究室による八丈島最初の正式発掘調査(杉原・戸沢1967)
(3)1973年(昭和48) 3月、湯浜遺跡緊急発掘調査団の発掘調査
  (永峯・小田ほか編1976)。
(4)1978年(昭和58) 2月~ 3月、八丈町湯浜遺跡範囲確認調査団の発掘調査(永峯ほか1984)。
以上のような発掘によって判明したことを整理して、まとめると以下のようになります。
現在までに4ヵ所(湯浜・倉輪・八重根・火の潟遺跡)の考古学遺跡が発掘調査され、その成果から八丈島の有史以前の歴史が判明したのです。
その成果によると、この南海の孤島には「八丈島先史時代」と呼称できるほどの特徴的な島嶼文化が形成されていたのです。
1 八丈島先史時代第一期
 湯浜遺跡(7,000~5,000年前)で代表されます。厚手無文土器と特徴的な撥形の小型打製石器類と刃部磨製石斧、磨石、石皿などが出て来ました。現在までのところ、その故郷は特定されていないが、本土の縄文時代早期の様相も否定できないそうです。
2 八丈島先史時代第二期
 倉輪遺跡(5,500~5,000年前)で代表されます。本土の縄文土器と石鏃、磨製・打製石斧、砥石、各種装身具、骨角器など豊富な遺物が出て来ました。その故郷は土器型式から、南関東地方と近畿・中部地方北半分の縄文人の渡島文化と推定されます。
3 八丈島先史時代第三期
 供養橋、孫兵衛遺跡(年代不詳)で代表されます。円筒片刃石斧に特徴があり、その形態から琉球列島(黒潮の道)や、マリアナ地域(太平洋の道)からの渡島文化の可能性が高いと言れています。
4 八丈島先史時代第四期
 八重根遺跡(1,700~1,200年前)で代表されます。最下層文化に厚手無文平底の鉢形土器と本土の弥生土器、土師器が伴い、若干の石器、紡錘車が存在する。その故郷は、伊豆地方や神奈川県南部の弥生・古墳時代人の渡島文化なのです。
以上は、国學院大學考古学資料館紀要 第21輯(「加藤有次博士追悼」特集号)2005.3.31 所収(pp.55-84)「八丈島の先史文化」からの抜粋です。詳細は、http://www.ao.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/ に出ています。
ところで八丈島歴史民俗資料館には縄文時代の土器や石器だけでなく島の歴史が分かるいろいろな資料が展示してあります。そこで下にその建物の寫眞を示します。

さて、八丈島に丸木舟で渡るには伊豆半島から最短距離の下田附近から大島へまず渡ると想像出来ます。その間は40Km位です。そしてそこから目に見える利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島と順々に島ずたいに丸木舟を漕いで行ったと考えられます。
そのように人力で漕ぎ渡る実験をした人がいます。あまり長くなるのでそれは続編でご紹介いたします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

心がシーンと静まるような冬のヨット・ハーバーの風景写真

2015年01月22日 | 写真
数年前のある冬の日に東京湾レインボーブリッジを越えて夢の島マリーナへヨットを見に行きました。
この東京のヨット・ハーバーは都立夢の島公園の一部として都民に開放されています。冬の強い西風で、ヨット達のハリヤードがマストを打つ音がカンカンと澄んだ音を響かせていました。青い海面、白い船体、そしてハリヤードの音を聞いているとすっかり寛ぎます。
このハーバーの西隣の高台は都立夢の島公園になっていて大きな熱帯植物園の温室もあります。
そしてハーバーの北側にはビキニ環礁の水爆実験の死の灰を浴びた第五福竜丸が整備、保存されています。展示館は立派な建物です。戦後の歴史の遺物です。そんな所をゆっくり見て回るのも良いかも知れません。ヨットの写真をお送りします。(終わり)







なお追加として熱帯植物園の写真と第五福竜丸の展示館の写真を下に示します。



日本人人質殺害予告の衝撃的な事件をどのように理解するか?

2015年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
数日前にイスラム国が非常に衝撃的な事件を起こしました。日本人2人を人質にとり日本政府が約240億円の身代金を72時間以内に支払わなければ2人を殺すと宣言したのです。しかもその宣言の場面を、衝撃的な映像を使って世界中に公開したのです。
多くの日本人は大きな衝撃を受けたと思います。私も頭が混乱してどのように理解してよいのか戸惑ってしまいました。2、3日考えてからこの事件が何を物語っているかを整理してみました。
結論的なことは書けませんが以下のような3つのことを考えました。
(1)難民の人道支援はイスラム国にとって敵対行為と判断された。
(2)安倍総理はこの時期に中東諸国を訪問したのは必然性に欠ける。
(3)日本人はイスラム国の脅威を軽視し過ぎている。

以上の3点に関して私自身の説明を少しつけ加えます。
(1)難民の人道支援はイスラム国にとって敵対行為と判断された。イスラム国の考え方を想像して、以下に書きます。
イスラム国による占領を歓迎しないで、その統治へ反対し、クルド自治地域やトルコやヨルダンへ逃げて行った人々はイスラム国の敵です。その敵を支援する日本はイスラム国に敵対行為をしていると彼等は解釈します。
安倍総理は人道支援はあくまでも中立的な立場であってイスラム国に敵対するものではないと繰り返し言明しています。しかし死闘を続行しているイスラム国にとっては、そんな甘い考え方は通用する筈がありません。安倍総理が人道支援を繰り返すたびに虚しさを感じます。
これでは話し合いが出来ません。
(2)安倍総理はこの時期に中東諸国を訪問したのは必然性に欠ける。
安倍総理は就任以来、外国訪問を繰り返し外交上の成果をあげてきました。その外交成果は歴代の総理大臣に比較しても立派なものでした。私はそのような活躍を称賛し、この欄の記事にも書いてきました。
しかし複雑怪奇な内戦の起きている中東諸国を訪問する危険性を充分研究したのでしょうか。いささか軽率と言えば言い過ぎになりますがどうもそんな感じが少しします。
それよりも中国と韓国との正常な外交関係を作るほうが急務の仕事だったと思います。中東で人道支援と称してお金を出すという行為は敵対行為だと理解する勢力が必ず存在します。中立だとか人道支援は日本人が好きな言葉ですが、それが通用しない国々があるのです。
(3)日本人はイスラム国の脅威を軽視し過ぎている。
イスラム国の構想と現在の統治の実態については放送大学の高橋和夫教授が詳しい解説をネット上に幾つか発表しています。それによると、イスラム国は広い「領土」で住民サービスも提供しているのです
 イスラム国の特殊性は、余りに国らしい点にあります。つまり「テロ組織」の域を超えているわけです。それは、既にイラクとシリアの2つの国にまたがってイギリス本土と同じくらい広い「領土」と数百万の人口を支配しています。
しかも、徴税や電気や水道の供給など国家としてのサービスも住民に提供しています。一定の領土と人口を一定期間以上にわたって有効に統治しているわけです。アルカーイダのような、これまでの「テロ組織」とは全く違うのです。
この高橋和夫教授のような研究をもっと行いイスラム国の脅威を深く理解すべきだと思います。その上で人質解放の交渉をしなければうまく行かないではないかと危惧されます。実に困った事態です。以上、現時点における私の感想を書いてみました。多くの人の心の混乱と衝撃を和らげるために先日撮って来た蝋梅の花の写真をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





真冬でも熱帯のような花が咲き、緑濃い植物が繁茂している八丈島

2015年01月21日 | 写真
八丈島で感動したことは大きな島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることでした。
始めの3枚の写真は人間の手の入っていない文字通り自然の植物の様子です。
続く残りの3枚の写真は大賀卿町の中心にある公園の風景です。
この公園は、真中にドライブウエイがあって車で楽しみながら通り抜けられるようになっています。ところどころの林の中に駐車場があり、散歩することも出来ます。素晴らしい所ですが、近所の人が2、3人だけ散歩している、淋しいくらい静かな公園です。
人間の手の入った公園と、漁港の回りの自然の山々の植物は佇まいが異なります。公園の林は剪定もしてあり、整然としています。自然林は一見荒れたような印象を受けますがよく見ると種々の草木が仲良く繁っています。どちらも美しいと思います。(写真は2009年1月28日から31日の間に撮影しました)
八丈島の植物の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。













八丈島、縄文時代からの歴史(1)八丈小島からの集団離島、廃村

2015年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の地方、地方はそれぞれ独自の歴史と文化を有しています。
そこで「日本各地の豊かなローカル文化を考える」という題目で以下の6編の記事を掲載してきました。
(1)甲府盆地の仏教にまつわるローカル文化 2015-01-04
(2)甲府盆地の30基の巨大古墳 2015-01-05
(3)青森ねぶたを見た時の驚きと興奮 2015-01-06
(4)風の盆などの盆踊りは豊かなローカル文化 2015-01-07
(5) 奈良井宿、大内宿、妻籠宿、馬籠宿の保存文化 2015-01-09
(6) 個性的で魅力ある地方の美術館 2015-01-13
今度は趣を変え、八丈島という一つの島の歴史と独自の文化をいろいろな視点から連載記事でご報告したいと思います。
八丈島は東京都庁から約300Kmの海を隔てた太平洋上の東京都八丈町です。300Kmもの海を隔てているので上記の(1)から(6)でご紹介した地方とは大変違う歴史と文化を有しています。むしろ「八丈島民族」と仮想したほうが分かりやすいかも知れません。
海路300Kmは明治以後の蒸気船やジーゼル機関のある船なら行き来出来ますが、それ以前の帆船では非常に困難な場所です。「鳥もかよわぬ八丈島」と言われていたのです。
従って島民は東京都23区内ほどの広さの島で農産物と魚貝類だけで自給自足の歴史を築きあげてきたのです。本州と隔離しているので独特の信仰と島特有の方言を持っていたのです。
そして約5000年以上前の縄文時代の石器や土器も多数出土しているのです。
この八丈島の厳しい生活条件を象徴しているのが1969年の八丈小島の全島民91人の離島、移住です。八丈小島は八丈島の西にある小島で、江戸時代から島の北西部に鳥打村、南東部に宇津木村の2村が置かれていたのです。この二つの村が1969年(昭和44年に完全に廃村になったのです。島にあった小・中学校も廃止されたのです。
それでは八丈小島の写真を示します。2009年1月28日に八丈島を車で回りながら自分で撮った写真です。



下の写真では八丈富士の左手の海上に八丈小島が写っています。八丈富士の手前の平野は農業地帯で人が多く住んでいます。八丈富士の左手前には羽田と航空路がつながっている飛行場も見えています。

さてそれでは何故、1969年に全島民91人が離島するという歴史的大事件が起きたのでしょうか?
その理由は以下のように言われています。
1.急激な人口流出による過疎化
2.生活条件の厳しさ(電話、医療、水道施設がない)
3.経済成長と近代化のためにより経済的に豊かな生活を手に入れるため
4.子弟の教育に対する不安
以上のような条件は昔の日本では、多くの離れ島にあったのです。しかし八丈小島の場合は特別な廃村への経緯をとったのです。
島民全員が話し合って離島を決心し、八丈島への移住を決めたのです。そして本島の八丈島の町議会へ移住への支援を頼んだのです。そこで八丈島町議会は東京都に小島の住民の土地を買って貰い、移住資金にする運動をしたのです。その運動は3年ほどかかりましたが東京都も買い上げを決定し、1969年に八丈島への移住が完了したのです。
全国に過疎化した集落が沢山ありますが地方自治体が移住の支援を八丈小島ほと丁寧にした例は珍しいと言われています。日本の地方の歴史にして珍しい経過をとったのです。
現在、八丈子小島は無人島で、鳥打村と宇津木村は廃村になって荒れ果てています。時々廃村マニアが写真を撮りに訪れています。そして釣りやダイビングの愛好家も訪れているそうです。
数日前の読売新聞には八丈小島の小・中学校で学んだ後、移住してしまった人の回顧談が掲載してありました。とても楽しい思い出をいきいきと話しています。「故郷は遠きにありて想うもの」という言葉をしみじみ考えながらその記事を読みました。
八丈小島の全員移住は八丈島の歴史と文化においては重要な事件と思いご紹介した次第です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料====================
(1)八丈島とは:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E5%B3%B6
東京の南方海上287キロメートル、御蔵島の南南東方約75キロメートルにあり、東山(別名:三原山・標高701メートル)と西山(別名:八丈富士・標高854メートル)のふたつの火山が接合した北西-南東14キロメートル、北東-南西7.5キロメートルのひょうたん型をした島。面積は山手線の内側とほぼ同じ。(面積の比較)
富士火山帯に属する火山島で、東山は約10万年前から約3700年前まで活動し、カルデラを形成したと考えられている。最終噴火は有史以前であり歴史記録上の噴火はない。西山は数千年前から活動を始めた新しい火山で、山頂に直径約500メートルの火口がある。1487年12月、1518年2月、1522年 - 1523年、1605年10月、1606年1月に噴火が記録されており、特に1606年の記録には、海底噴火によって火山島ができたとされる。
(2)八丈町とは、
人口は平成22年に8,231人住んでいました。詳しくは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E5%B3%B6 に出ています。
八丈島とは:
八丈島は、東京の南方海上287キロメートルに位置し、面積69.52平方キロメートルのひょうたん型をした島です。地形的には富士火山帯に属する火山島であり、南東部を占める三原山(700.9メートル)と北西部を占める八丈富士(854.3メートル)から成り立っています。
5つの集落
集落は、島の南東部に位置する三原山を中心とする樫立・中之郷・末吉で形成される坂上地域と、島の経済活動の中心地である大賀郷・三根で形成される坂下地域があります。
八丈小島:
八丈小島は、八丈島の北西7.5キロメートルの海上にあり、島のほぼ中央にあたる太平山(616.8メートル)から成る面積3.1平方キロメートルの火山島ですが、昭和44年6 月に全員離島し、現在は無人島です。
(3)八丈小島の歴史:http://www.ne.jp/asahi/goto/home/shikido/kojima.html
  と それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)伊豆諸島伝説のヒーロー“鎮西八郎”源為朝(1139-1170?)は、 保元の乱(1156年)で崇徳上皇側について勇敢に戦ったものの、ついには捕虜となり、伊豆大島へと配流となりました。為朝の活躍を描いた『保元物語』では、「伊豆諸島の島々を開拓して自分の所領としながらも、朝廷側からの追討軍に追い詰められ、とうとう伊豆大島で自害した」と綴られています
室町時代には既に住民が定住していたと考えられている。なお、平安時代末期の武将、源為朝が、八丈小島で自害したとの伝説が残っている。八丈本島同様流刑地とされた時代もあった。本島との間に海流があるため、いかだや小舟では脱出不能とも言われ、特に重い刑を受けた者が流されていた。
江戸時代から島の北西部に鳥打、南東部に宇津木の2村が置かれていた。1908年(明治41年)、八丈島の各村に島嶼町村制が施行されたが、八丈小島には施行されず、そのまま 1947年(昭和22年)の地方自治法施行により鳥打村および宇津木村が置かれるまで名主制が存続したという、極めて珍しい歴史を持つ。なお、両村の名は明治期以後も存続したが、上記のとおり島嶼町村制に基づく法的な正式名称ではなく、あくまで通称だった。
(4)八丈小島の現状:http://www.ne.jp/asahi/goto/home/shikido/kojima.html
いざ上陸!鳥打を歩いてみると…
今回3度目の挑戦にして渡船に乗り込むことができました、が! 小さな船なのでかなり揺れるわ、急にスコールが降り始めるわ、すぐ隣の島だというのに、その“隔離”感は相当なものでした。
およそ一時間ほど揺られて、ついに鳥打の小さな船着場に到着。
藻でツルツルになった護岸の上を慎重に歩を進めて、ついに上陸! 見上げれば太平山がそびえ立ち、目前には寥々と無人の荒野が…
ガイドさんに従って鳥打村住居跡、そして鳥打小学校跡を見学。
全島民の引き揚げから既に40年近く経過しているわけですから、もはやごくごく僅かな痕跡しか残っていません。しかしながら、 集められた酒瓶(水入れ容器は貴重なものだったのでしょう)や、 学校の門柱、竃など、確かな人の生活の記憶がそこにありました。下にその風景の写真を示します。

(5)八丈小島、全島民集団離島までの経緯:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%B8%88%E5%B0%8F%E5%B3%B6
1954年(昭和29年)10月1日、町村合併促進法により、鳥打村と八丈島の三根・樫立・中之郷・末吉の各村が合併して八丈村となる。1955年(昭和30年)4月1日には宇津木村と八丈島の八丈・大賀郷各村が合併して八丈町となった。しかし、その後も過疎化が止まらず、ついには 1965年(昭和40年)頃から八丈島への全島民移住案が出はじめた。その理由は、1966年(昭和41年)の請願によると、
1.急激な人口流出による過疎化
2.生活条件の厳しさ(電話、医療、水道施設がない)
3.経済成長と近代化のためにより経済的に豊かな生活を手に入れるため
4.子弟の教育に対する不安
が挙げられた。離島までの経緯は、1966年(昭和41年)3月小島の住民から八丈町議会に「移住促進、助成に関する請願書」を提出。6月に八丈町議会は実情調査を行い、その結果を受けて、請願を採択。
1967年(昭和42年)9月、八丈町から東京都に対し「八丈小島の全員離島の実施に伴う八丈町に対する援助」の陳情が行われる。1968年(昭和43年)10月に土地買収に関する住民との協議が成立し、1969年(昭和44年)1月より離島開始。「全国初の全島民完全移住」として注目された。6月には鳥打小・中学校および宇津木小・中学校が廃校、全島民の移住が完了。それ以降、現在に至るまで無人島である。

ローマ法王がフィリピンで野外ミサ、歴代最多の600万人集る

2015年01月19日 | 写真

-革命直後レーニン時代の迫害-
http://www2.odn.ne.jp/~caq10260/c14.htm
一連の宗教抑圧政策は、しばしば聖職者の処刑や教会の強制的閉鎖といった直接的な宗教弾圧をも伴い、その結果、宗教界の抵抗を招いて各地で流血の衝突が頻発するにいたった。

ロシア正教会の場合、1918年から1920年までの間に少なくとも28人の主教が殺害され、数千人の聖職者が殺されるか、あるいは投獄された。

またほぼ1万2000人の信徒が宗教活動を行なったかどで処刑され、数千人が逮捕の後、労働キャンプに送られるか、流刑処分を受けたといわれている。

1919年2月にロンドンで公刊された、ロシア正教会オムスク大主教から英国聖公会カンタベリー大僧正に宛てた書簡は、当時の教会迫害の様子を生々しく伝えている。

 

過激派が1917年のロシアで政治権力を掌握すると、彼らは社会の教養階級だけでなく、宗教そのもの、教会の指導者たち、そしてあらゆる人々から尊ばれた宗教的記念碑を一掃しはじめました。

モスクワのクレムリン大聖堂、ヤロスラーヴリやシンフェローポリといった諸都市の聖堂は略奪され、多くの教会が汚されました。

由緒ある至聖所も、モスクワとペトログラードの有名な総主教書庫も略奪を受けました。

キエフ府主教ウラジーミル、20名の主教そして数百人の聖職者たちが暗殺されました。


一番目と二番目の写真はマニラでの野外ミサの様子です。写真と説明文は、http://news.livedoor.com/article/image_detail/9688495/… から転載しました。
(2015年1月18日撮影)。(c)AFP=時事/AFPBB News
三番目の写真は、18日、フィリピン・マニラの大学を訪れ、子どもたちと交流するローマ法王フランシスコの様子です。(AP=共同)
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以下は、http://news.livedoor.com/article/detail/9688495/ からです。
【AFP=時事】フィリピンを訪問中のローマ・カトリック教会のフランシスコ(Francis)法王(78)は18日、首都マニラ(Manila)で大規模な野外ミサを主宰した。雨の降りしきる中、歴代法王が開いたミサとしては過去最多の600万人が集まり、貧しい人々の救済を掲げた法王のアジア歴訪のフィナーレを飾った。
 法王は、フィリピン名物の派手なミニバス「ジープニー」風に仕立てた専用車「パパモビル」に乗って、マニラ湾沿いにあるリザル公園(Rizal Park)のミサ会場に登場した。
 フィリピンはアジア最大のカトリック国で、国民の80%がカトリック信者。だが、さすがの法王も群衆の数に驚いたようで、付添のマニラ大司教によると、「純真な人々の信仰の深さは私にも測り知れない」と語ったという。
 マニラ市当局によると、沿道と公園には法王を一目見ようと警察推定で600万人が集まり、1995年に当時のローマ法王、故ヨハネ・パウロ2世(John Paul II)が同じ場所で行ったミサに集まった500万人という記録を超えた。
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そして、この動画も是非ご覧下さい。
ローマ法王を好きすぎる男の子が乱入した時の様子の動画です。
ローマ法王フランシスコが座るステージに上がってきた1人の男のが法王のいすに座ってみたり足に抱きついたり、やりたい放題です。「ローマ法王を好きすぎる男の子が乱入」を検索して下さい。面白いから是非ご覧下さい。http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/news_business/p8471f0f4fce756c8cb5535eff1186302 です。





死が訪れるまで情熱的に生きる方法(3)四季の移ろいと自然の花々を大切に思う

2015年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム
この連載の第一回目は温室の中に繁茂する熱帯の樹木や花から情熱を貰うことを書きました。
しかしそれだけでは充分ではありません。日本の四季の微妙なうつろいや季節ごとに自然に咲く花の静かな美しさを見ることも大切です。そして日本の静かな情熱を学び取るのです。
私はここ10年以上、関東地方の花々のある山野や公園を何度も、何度も見て来ました。幸い車のドライブが大好きなので、自宅から半径200Km位で日帰り出来る範囲はかなり詳しく知るようになりました。
今日は「府中郷土の森博物館公園」で、真冬に毎年一番早く咲き出す蝋梅(ロウバイ)の満開の様子をしげしげと眺めて来ました。ここは1月に毎年行く所です。甘く清らかな香りが一帯に漂っています。そしてロウバイの花園の向う側には多摩川の光る川面が見えるのです。
数十本、いや数百本のローバイが一斉に咲いている景観は感動的です。末尾にこの公園への詳しい紹介をつけましたが、東京の西半分に住んで居る方々へは是非行って下さいと心からお薦めします。新宿駅から京王線で特急に乗ると下車駅の分倍河原駅まで30分余で行けます。広大な無料駐車場もあります。
それではさっそく昨日撮ってきた写真を示します。









下の写真の白っぽいコートを着た後姿の女性が家人です。後向きなら年齢不詳です。

この府中郷土の森博物館公園は東京都の府中市が運営している大規模な公園です。園内には充実した博物館やプラネタリュウムもあります。
江戸時代や明治期の府中市の古い建物を移築、展示している一画もあります。茶室もあり抹茶も楽しめます。
そしてなんと言っても広大な梅林とロウバイ園とアジサイ園のあることです。
武蔵野の雑木林を再現した場所も池も小川もあります。子供の走り回れる広場もあります。
子供連の家族なら一日遊べる公園なのです。
何故かここに来ると情熱的に遊びたくなるのです。全国には似たような広い公園が沢山あると思います。四季折々の自然の花々を楽しめると存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料=================
「府中郷土の森博物館公園」のHPは、http://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/ です。
下に園内の地図と茶室の写真を示します。




中東の今後と、「風刺画」へ対するフランシスコさんの常識的な批判

2015年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム
フランスの風刺画騒動でヨーロッパは揺れ動いています。
しかし中東ではイスラム国とクルド族の戦いが続行されていて、欧米軍と一部のアラブ諸国が連携し、イスラム国を空爆しています。
イスラム国はすでにイギリス本土と同じくらいの領土を確保し、国家としての統治体制を整えつつあります。
中東ではクルド国の独立宣言も予想され、ますます混迷を深めています。
今後の中東情勢はアメリカやヨーロッパ諸国の数々のテロ事件とも深くかかわり非常に重大な問題です。
イスラム国が提起してる新しい問題や、クルド国の独立の問題に関して国際政治学者の山内昌之教授が実に明快な解説記事を今朝の読売新聞一面に掲載しています。
イスラム国の新しい体制を説明した上で、クルド国の独立の可能性を示唆しているのです。
そうなると現在の中東にはイスラム国とクルド国が新しく加わり、現在の国境線も大幅に変わってしまうのです。それに対してアメリカやフランスは柔軟に対応できるでしょうか?
このような大きな問題に関して山内教授は明快な論旨で中東と欧米の将来について説明しています。
個々のテロ事件の残忍さに目を奪われ、大きな問題を忘れないようにという警鐘のような解説です。記事の題目は、対「イスラム国」・・・クルド国家の独立刺戟という題目です。実に明快な上、中東問題の核心を突いた素晴らしい記事です。ご一読をお薦めいたします。
さて一方「風刺画」の掲載は常識的に考えればやってはいけない事です。それに関してローマ法王のフランシスコさんがパンチを繰り出したくなると話して、「風刺画」掲載を批判しました。ネット版、http://irorio.jp/daikohkai/20150117/196413/ にある記事を以下に引用します。
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現在、アジアを歴訪中のローマ教皇フランシスが、フィリピンから第2の訪問国であるスリランカへ移動する機内の中で、「私だってパンチするだろう」というコメントをした。
これは先日起きた、パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃事件をきっかけに、世界中で巻き起こっている、「表現の自由はどこまで許されるか」という議論に対して語ったもの。
法王がパンチを繰り出すそぶり
機内にはこの歴訪を運営している友人のアルベルト・ガスパリ氏がいたが、彼に対してローマ教皇フランシスは、次のように語ったと言われている。
「(表現の自由に対して)暴力的に振る舞ってはいけないのは当然だ。しかし良い友人であったとしても、あなたがもし、私の母親に対して呪われた言葉を言ったとしたら、あなたにはパンチが飛んでくるかもしれない」
そういうとローマ教皇は茶目っ気たっぷりに、ガスパリ氏の方へ、軽くパンチを繰り出すそぶりをした。
「表現の自由には限度がある」
ローマ教皇は、パリにおけるイスラム過激派の襲撃事件について、「表現の自由」を擁護している。しかし同時に、彼はそのような自由にも制限はあると、公の場で指摘した。
「私は宗教の自由と、表現の自由は両方とも人間の基本的な権利だと考えています。全ての人が自由と権利を持っているだけでなく、多くの人に有益なことをいう義務がある」
また教皇は次のように発言もしている。
「(特定の宗教を)挑発したり、他の人の信仰を侮辱したり、また他の人の信仰をからかうことはできない。表現の自由には、限度がある」
さらにカトリック教会が公認した十字軍のイスラム諸国への遠征のような、過去の宗教的な戦争を引き合いに出して、次のように語った。
「私たちの歴史を考えましょう。どのくらい多くの宗教戦争を人類は経験したのか。たとえ犯罪者であっても、神の名の下に人を殺してはいけない。これは正道を外れている
このローマ法王は気楽な伯父さんのような感じです。親近感が湧いてきます。絶対に偉そうにしません。実に人間的です。楽しいです。
これでこの記事終わりとします。
下の写真はフィリピンのタクロバン空港におけるフランシスコさんの写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=======================
(CNN) フィリピン訪問中のローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は17日午前、同国中部レイテ島のタクロバンを訪れ、空港近くで野外ミサを執り行った。参加者は数十万人とされる。
ただ、この日は台風1号の接近で風雨などが強まり、法王の現地到着から約30分後に始まったミサの時間が短縮された。それでもタクロバンの空港には多数の信者が集まり、法王の到着を出迎えた。
台風1号の風速は約36メートルにも達し、レインコート姿でミサに臨んだ法王のフードが風で揺らぐ姿も見られた。法王のミサでの言葉の内容は伝えられていない。
タクロバンは2013年11月に台風30号の直撃を受け、甚大な被害を受けていた。フィリピン全体での死者は6300人に達していた。・・・・以下省略

明治8年に出来た日本で一番古い温室の可憐な花々です

2015年01月17日 | 写真
新宿御苑には明治8年に西洋式の温室が出来ました。日本の温室のさきがけとして文明開化のシンボル的存在でした。
戦災で壊滅し、昭和33年(1958年)に大温室が復活しました。それから54年後の2012年に大改修がなされ全く新しい構造が出来上がりました。
この温室は明治時代からランの花の新品種を作ることに努力し、数多くのシンジュクという名前が語尾についたランの品種を栽培して来ました。
その伝統で温室の中には小さなランの花々が幾種類も咲いています。花は小さく、可憐なのですが、精神を集中して眺めてると絢爛と見えるから不思議です。
なお今回の大改修の機会に絶滅危惧種の熱帯植物の保護、栽培もしています。
写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。2013年1月23日の撮りました。













今朝の国際ニュースで重要な3件のニュース

2015年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
地球上にはいろいろな国々があり種々の宗教があります。世界中の争いや戦争を可能なかぎり合理的に理解しようとしている人は多いと信じています。
そのような観点から今朝の国際ニュースから重要な3件のニュースを選んでみました。文字通り浅学の私が勝手に選んだ3件ですから反対意見の方々も多いと思います。以下に簡明にご紹介いたします。
(1)ベルギーでテロ計画中の男性2人を捜査陣が射殺。
NHK Web版:http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150116/k10014728481000.html
フランスで17人が死亡した一連のテロ事件に続いて、隣国ベルギーでも警察署を狙った大規模なテロ計画が実行される直前で発覚し、ヨーロッパの各国でテロの脅威が高まっていることに衝撃が広がっています。
ベルギー東部の町ベルビエで15日、軍用の銃などで武装したグループと治安当局との間で銃撃戦となり、グループのメンバー2人が死亡し、1人が逮捕されました。
検察は15日夜、会見を開き、グループは警察署を狙った大規模なテロを実行する直前だったと明らかにし、計画を阻止するため首都ブリュッセルを含む国内のおよそ10か所を捜索していたということです。
また死亡した2人と逮捕した1人はいずれもベルギー国籍で、この中にはシリアへの渡航歴があった者もいたということです。

このニュースが重要な理由は殺された2人のテロリストはベルギー生まれのベルギー人だったことです。ヨーロッパ各国には旧植民地出身のイスラム教徒が多数住んでいます。ですからフランスの新聞社の襲撃テロと同様の事件が起きる可能性があるのです。このニュースはその可能性を証明しているので重要なニュースと私は判断しました。
(2)アメリカのケリー長官が遅ればせながらフランスを訪問し対テロ作戦へ連帯を表明した。以下は、http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150116/k10014745971000.html から転載しました。
フランスで17人が死亡した一連のテロ事件を受けて、アメリカのケリー国務長官がフランスを訪問してオランド大統領らと会談を行い、テロ対策を巡る協力の強化などについて協議しました。
ケリー国務長官は16日、パリを訪問し、オランド大統領やファビウス外相らと会談しました。
フランス大統領府によりますと、会談の中でオランド大統領はテロ事件の対応でアメリカ政府が協力してくれたことに対する感謝を伝えたうえで、テロ対策を巡る情報の共有をはじめとした協力の強化などについて意見を交わしたということです。
このあとケリー国務長官は、襲撃によって12人が死亡した新聞社の「シャルリ・エブド」の現場と、立てこもり事件で人質4人が死亡したパリ東部の食料品店を訪問し、それぞれファビウス外相と共に花輪を手向けて犠牲者を悼みました。以下省略。

このニュースの重要性は今回のフランスでの事件に対してアメリカは慎重に行動をとっていることを示しているからです。テロ直後のフランスでの大規模なデモ行進にヨーロッパ各国の大統領や首相が参加したのにオバマ大統領もケリー長官も参加しなかったのです。ヨーロッパ人が少し冷静になったころ訪問したという事実が私は重要だと思いました。
(3)言論の自由にも限界があると言明したフランシスコさんがフィリッピンを訪問。
以下はヴァチカン放送Web版、
http://ja.radiovaticana.va/news/2015/01/16/フィリピン訪問:教皇、マニラで家族たちとの集い/1118602 から転載しました。
教皇フランシスコは、昨日の1月16日、滞在先のマニラで「家族たちとの集い」を持たれた。
この日の夕方、市内のモール・オブ・アジア・アリーナは、大人から子どもまでおよそ1万5千人の参加者の歓声で沸き返った。
この集いで教皇は、キリスト教の家庭は、家族制度を崩壊させようとするイデオロギーから、家庭の使命を守らなければならないと呼びかけられた。
教皇は家庭の保護者とされる聖ヨセフをテーマにした講話の中で、聖ヨセフが夢の中で主の天使からヘロデの迫害をのがれるために、幼きイエスとマリアを連れてエジプトに逃げるようにと、お告げを受けたエピソードを観想。
多忙な日常生活の中で立ち止まり、休んでいた時に、神の御旨を知ったヨセフのように、わたしたちもまた聖書を読んでいる時、祈りや沈黙の時に、神から話しかけられていると教皇は説かれた。以下省略。

このニュースが重要な理由は2つです。まず一つは言論の自由にも限界があると言明したフランシスコさんが誰も傷つけることなく人々の心に寄り添ったからです。この方法も世界から争いを無くす非常に有効な手段の一つと私は信じています。
もう一つの理由はカトリックの信仰は篤いが経済的成長の遅れている国を日本よりも優先的に訪問したからです。去年はカトリック信者の多い韓国を訪問し、今回はフィリッピン訪問です。フランシスコさんにとって重要なのは信仰の篤さであり、国々のGDPは問題でないのです。この事が世界の人々へ重要なメッセージを送っていると私は理解しています。
ついでに先のローマ法王、ヨハネ・パウロ2世がフィリッピンを1995年に訪問した時の盛大な野外ミサの様子を示す写真をお送りし終わりに致します。

(出展は、http://nemototravel.com/joomla/index.php?option=com_content&view=article&id=1286:2014-11-21-15-25-19&catid=98:area-news&Itemid=138 です。)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

石神井城跡と三宝池への歴史散策に行ってきました。

2015年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム
石神井城は1400年ごろ豊島氏によって築城され、1477年に太田道灌によって攻められ城主の豊島泰経は敗走し、石神井城は廃城になりました。たった70余年の間しか城として存続しなかった悲劇的な運命の城でした。城は現在の石神井公園の三宝池の南岸の高台にあり1956年以降の数回の発掘調査と文献調査により1400年頃から1477年まで豊島氏の本拠の城であったことが確認されています。詳しくは末尾の参考資料にあります。
それにしても室町時代は関東管領・上杉氏と地元の大田道灌や豊島氏のような武将との虚虚実実の争いが続いていたのです。特に大田道灌は川越城や江戸城を作ったことで有名です。
それが後に勢力を拡大した小田原の早川早雲(北条早雲)の一族によって攻められ関東平野の大部分は北条一族の軍門に下るのです。
しかしこの北条氏も1590年の天正18年に豊臣秀吉に敗れ、関東一円は豊臣の勢力に下ったのです。そのような歴史を思い出しながら三宝池の周りを散歩して来ました。
下に今日撮って来た三宝池の写真をお送り致します。

1956年以降の数回の発掘で土塁や空堀も見つかり、館跡からは多数の陶磁器が出土しました。写真の石碑の上の台地に館があったことが判明しています。

上は三宝池の風景です。この写真の右手の台地の上に現在も三宝寺があります。

上は三宝池の中にある弁天さんです。写真の手前に水が湧き出している円筒形の泉の口が写っています。三宝池のあちこちから豊かな湧水がで出ているのです。

上は西端から見た三宝池です。

上は大きな規模の湧水の出口です。今日の散歩は風もなく快適でした。東京の練馬区にこの様な自然が残っているのが奇蹟のように感じます。
===参考資料=========================
現在の東京都の西部を領有していた豊島氏の歴史と石神井城の歴史
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E4%BA%95%E5%9F%8E より。
石神井城は平安時代から室町時代まで石神井川流域に勢力を張った豊島氏の後期に本拠としていた城であり、長尾景春の乱で没落するまで使われた城でした。
歴史・沿革
石神井城の築城時期は定かではないが、一般的には室町中期頃であったと考えられている。鎌倉期以降宇多氏・宮城氏らの館が構えられていた場所に、彼らと婚姻関係を結びながら石神井川流域の開発領主として勢力を伸ばした豊島氏が築いた城で、以後この地は豊島一族の本拠地にもなった。
豊島氏は貞和5(1349)年に石神井郷の一円支配を開始したものの、応安元(1368)年の「平一揆の乱」に敗れて関東管領・上杉氏に所領を没収されており、その後応永2(1395)年になってようやく同郷を還補(げんぽ=所領返却)されている。石神井城内に鎮守として祀られている氷川神社、城内に創建された三宝寺のいずれもが「応永年間の建立」と伝えられていることから、城もこの還補直後(応永年間)に築かれたとする説が有力である。
平安期以来、武蔵の名族として名を馳せていた豊島氏は室町時代中期、新興勢力の扇谷上杉氏家宰太田氏と対立を深め、長尾景春の乱において太田道灌に攻められ没落した。文明9(1477)年のこの戦いにおいて、豊島氏は当主の泰経とその弟泰明(ただし、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)はそれぞれ石神井城と練馬城に拠り太田道灌と対峙したが、同年4月13日練馬城を攻撃された後の江古田原の戦い(『鎌倉大草紙』では「江古田原・沼袋」)で惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に敗走している(なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫・齋藤秀夫らの支持により「練馬城」が新たな通説となっている)。
その後、4月14日に道灌は石神井城近くの愛宕山(現:早稲田高等学院付近)に陣を張り石神井城と対峙、18日になって一旦和平交渉が結ばれた。しかし、豊島氏側が条件であった「城の破却」を実行しなかったことから、21日に道灌は攻撃を再開、外城が攻め落とされたため、泰経はその夜城を捨て逃亡した。泰経は翌年1月平塚城で再起を図るが、再び道灌が攻撃に向かったため、またしても戦わずして足立方面に逃亡し、以後は行方不明となっている(以前の通説では「丸子城(神奈川県川崎市)から更に小机城(神奈川県横浜市)へと落ち延びた」とされていたが、現在は多数の史家によりほぼこれは否定されている)。なお、「落城の際には、城主の娘の『照姫』が三宝寺池に身を投げた」とも伝えられているが、これは明治29(1896)年に作家の遅塚麗水が著した小説『照日松』のストーリーが流布されたもので、「照姫」は全くの架空の人物である。以下省略。

穏やかで幸せな日本、そして揺れるヨーロッパ

2015年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム
イスラム教の教祖ムハンマドの風刺画に端を発した大規模なデモでヨーロッパ諸国は揺れ動いています。特にフランスは原子力空母、シャルル・ドゴールを中東沖に派遣しイスラム国の空爆を強化すると発表しました。
昨日、ローマ法王フランシスコさんは表現の自由は重要だが、他宗教を挑発すべきではないという見方を示しました。平和を愛するフランシスコさんにとっては当然な発言です。
フランスには主に旧植民地のアルジェリアからのイスラム教徒移民が500万人いるそうです。そしてドイツには第二次大戦中の同盟国だったトルコからのイスラム教徒移民が400万人いるとのことです。昨日、この移民の出身地の違いがドイツとフランスの国内事情の違いではないでしょうかという趣旨の記事を掲載しました。しかしその要因は問題の一部に違いありません。現在進行中のフランス社会やドイツ社会の混乱はもっと複雑な原因が重なりあっていて、その解決は容易ではないと考えられます。
遠方の日本から、今回の混乱の真相を理解する難しさを感じている今日この頃です。
それにつけても日本は穏やかで幸せな国だとしみじみ思います。
先日散歩に行った善福寺池と井草八幡宮の光景を思い出してそのように感じています。
そこで池のほとりに咲くロウバイの花と、コブシの花芽がふくらんでいる池の光景の写真を2枚下に示します。



この現在杉並区になっている善福寺池の周囲は上井草村と下井草村でした。この2つの村の鎮守様が現在でもある井草八幡宮です。その鎮守の宮ののどかな風景写真を下に示します。

上は立派な2階建ての門です。

写真を撮った日は成人の日だったので和服姿の成人もお参りに来ていました。お守りを頂く人も居ました。

初詣の人々が行列をつくっています。
そしてこの八幡宮の感動的なところは大きな木の茂った森に囲まれていることです。

この神社の敷地には数多くの縄文時代の住居跡があり土器も出て来ました。善福寺池の湧水が古代から人間の生活を支えてきたのです。そして神社の出来たのは鎌倉時代より以前と言われています。東北地方の藤原氏に匿われていた義経を討つために派兵した源頼朝が戦勝祈願をした神社という伝承があります。
それにしてもこのような池と鎮守の杜はおだやかで平和そのものです。この様な風景が全国の津々浦々にあるのです。
日本は本当に平穏で幸せな国です。そこに生まれた幸運に感謝せざるを得ません。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

そしてピカソ、ムーア、ザッキン、ロッソなどの作品は箱根彫刻の森美術館へどうぞ!

2015年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
オーギュスト・ロダン以外の近代彫刻とピカソの絵画のコレクションは箱根彫刻の森美術に数多く展示してあります。特にヘンリー・ムーアとメダルト・ロッソの彫刻は数が多く蒐集してあります。強羅のなだらかな斜面にゆったりと展示してあるので新鮮な山の空気を吸い散歩しながら彫刻群を楽しめるめるのです。箱根に行ったら必ず寄る所です。
そのHP、http://www.hakone-oam.or.jp/ から写真をお借りして彫刻の数々を示します。
一番目の写真はオシップ・ザッキン(1890年 - 1967年)の「住まい」です。
二番目の写真はヘンリー・ムーア(1898年- 1986年)の「横たわる像:アーチ状の足」1969-70年制作、 ブロンズ です。
三番目の写真は、アリスティド・マイヨール(フランス 1861-1944)
「とらわれのアクション」1906年制作、ブロンズ、213×104×95cmです。
四番目の写真は、後藤良二(日本1951-)「交叉する空間構造」1978年、強化プラスティック、鉄、塗料、530×943×275cm です。
五番目の写真は、カール・ミレス(スウェーデン-アメリカ 1875-1955)「人とペガサス」1949年、ブロンズ、250×336×140cm です。
六番目の写真はメダルト・ロッソの「病院の病める男」( 1889) です。1858年 トリノに生まれ、1928年に ミラノで死す。
イタリアの彫刻家。ミラノのブレラ美術学校で絵画を学び,のち彫刻に転じた。 1884年パリに出て J.ダルーのもとで制作。ロダンやドガと知合い,印象派風の代表的彫刻家の一人となり,思いに沈む婦人や病気の子供らの像を好んで制作した。