後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

秘境、秋山郷の紅葉・・・飢饉で部落全員が何度も死に絶えた山奥の秘境

2013年10月17日 | 写真

日本は山国と言いますが、こんな山奥に何故人間が住むのでしょうか?

飢饉で全部が死に絶えたという歴史を繰り返しても、山奥に連綿と人が住むのは何故でしょうか?

新潟県と長野県の県境にまたがる秘境の秋山郷はあまりにも山深いのでそこに人が住んでいるとは誰も知りませんでした。

それが江戸時代に「北越雪譜」を書いて有名になった鈴木牧之が秋山郷に入り、「秋山紀行」を書き、人が飢饉にもめげず住み着いていることを報告しました。

そして隔絶したの独特な風習を書いています。

「北越雪譜」の中にある秋山郷の冬季の部分は凄惨です。食糧難で家族が一人、二人と息を引き取ってゆく極限状態を描いています。その文章の行間には静かな祈りが満ちています。

バスの旅でしたが、その悲しみをどうしても忘れられません。悲しい山奥の道行きでした。

秘境の旅とはそういうものなのです。

現在、秋山郷は舗装道路がついていますが大型バスは通行出来ません。津南町まで大型バスで行って、そこで小型バスや乗合タクシーに乗り換えて、山並み深く分け入ります。紅葉の山並みが幾重にも折り重なり、深い谷が小型バスを飲み込みそうで怖い道行きでした。悲しみに満ちた道行きでした。

昨年の10月28日の午後にこの小型バスで訪ねた秋山郷の紅葉の写真をお送りいたします。曇り日でしたので鮮明な写真が撮れませんでした。

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つでに少し付け足しておくと、秋山郷は現在、13の山間集落の総称です。新潟県の8つの集落と長野県の5つの集落があります。すべて深い深い山奥にあり現在でも交通が不便で都会とは隔絶した文化を有している所です。

以下にWikipedea「秋山郷」の説明文をご紹介いたします。

出典はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E9%83%B7 です。

=========秋山郷とは==============

秋山郷(あきやまごう)は、新潟県中魚沼郡津南町と長野県下水内郡栄村とにまたがる中津川沿いの地域の名称。東を苗場山、西を鳥甲山に挟まれた山間地域で、日本の秘境100選の1つである。新潟県側に8つ、長野県側に5つの集落がある。

平家の落人伝説が残る(平家一門である平勝秀が落ち延びたとされる)。狩猟(特にクマ狩り)や焼畑を行っていたことでも知られる。また、交通・通信が不便で、豪雪地帯でもあったことから、独特の生活習慣が残されてきた。 江戸時代には、塩沢出身の文人鈴木牧之の著書『秋山記行]や『北越雪譜』、また昭和になってからは、地理学者の市川健夫によってこれらの自然や歴史、風俗習慣が紹介された。

交通の便が悪く、近年まで冬季には隔絶されるケースが多く何度も飢饉、飢餓が発生し、時に村全体が全滅した。 現在は国道405号線が津南町大割野から切明まで通っている。また、長野県側からは奥志賀林道から雑魚川林道に分岐し、切明まで繋がる林道が整備されており、飢饉、飢餓の危険はなくなったが、依然秘境の面影を止めている。 また、秋山郷は、湯量豊富な温泉郷としても有名である。各集落には、それぞれ独自の源泉があり、温泉施設や温泉宿が存在する。

また長野県側では、長野県の民放テレビが全く映らない地域や、映っても信越放送と長野放送のみという地域も存在した。これら地域では、2010年秋にケーブルテレビ(栄村ケーブルテレビ)が整備され、長野県の民放テレビ全局が視聴可能となった。

歴史

現在の長野県・新潟県の境は、近代以前の信濃国と越後国の境を引き継いだものである。 近世には、越後側は8集落で結東村という一村を形成していた。信濃側は、現在の栄村役場付近の、いわば麓の村ともいうべき箕作村の枝村とされていた。 秋山郷の名の由来と考えられている大秋山という集落が信濃側にあったが、1783年(天明3年)の飢饉によって一村8軒が全滅したと『北越雪譜』に記されている。

昭和の初めに秋山郷を測量隊が訪れたところ、村人から「源氏はまだ栄えているか?」と尋ねられたという逸話が残る。当地に平家の落人伝説があることと、里から隔絶された秘境であることから生まれた伝説であろうと思われる。(以下省略)


秋のバラと堀内武男さんの「信州 夢ばらの里」

2013年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム

地方へ旅をすると時々、本当に感動を受ける人に会います。

今回の北信濃の旅でお会いした堀内武男さんもそのような人でした。

まず静かに咲いている秋のバラの写真をお楽しみ下さい。春、夏のバラと違い

淡い優しい色合いです。

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上の写真のバラの花が下のような広いビニールハウスに咲いていました。

出荷後のバラ畑なので少し淋しい光景でした。

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右側が堀内武男さんで、「信州 ばらの里」の主です。

昭和11年生まれの77歳。バラの栽培を始めて50有余年。バラの花の出荷量が日本一だった時期もありました。

その堀内武男さんが我々へバラの栽培方法を明快に説明したくれました。

バラの品種は改良されていて誰でも栽培出来るそうです。しかし肝心なのは剪定と害虫の徹底した駆除と消毒だそうです。

花が咲いたら人間の腰の高さ以下に切り取って次の花のために剪定することが重要です。伸びすぎた枝は開花前でも剪定してしまいます。バラの木の高さは180cmと揃えます。

毎月、葉の裏から花の中まで農薬をたっぷり噴霧して消毒しなければいけないそうです。殺虫用の農薬は毒性が強いので頭から足の爪先まで完全防水のビニール合羽を着こみます。鼻、口は特に厳重にマスクして目にはは水中メガネをかけてバラの葉裏や花の中が見えるようにします。どんなに暑い日でもこの完全武装を欠かせたことは無いそうです。

そうするバラは一年間で4回花を咲かせるそうです。剪定を間違ったり消毒をしないと一年間に一回しか花が咲かないそうです。

世界のバラの研究熱心。辛い労働も逃げない。剪定と消毒への集中力。そして何十年にもわたる努力。こういう人が信州、上田市の郊外にいるのです。

そして辛い辛い消毒作業で日本一の出荷量を続けていたとき、ある農薬会社が無害の農薬を3年間無料で提供してくれたそうです。

それは驚異の有機殺虫剤、ニームでした。インドのある植物から抽出した有機殺虫剤です。人間に毒性がないので雨合羽と頭巾は不要です。半袖シャツ姿で殺虫作業が出来たそうです。堀内武男さんは余程嬉しかったらしく、このニームの良さを心底から情熱的に説明するのです。そして3年間も無料提供してくれた会社へ恩義を感じているのです。それは人間としてあるべき姿です。

帰宅後にこのニ-ムを調べてみたら厚生省も保障する完全有機殺虫剤で多くの市町村が使用していることが分かりました。

堀内武男さんの「信州 夢ばらの里」については、http://www.yumebara.co.jp/をご覧下さい。

完全有機殺虫剤ニームについては、http://www.madurawing.net/neem_what.htmlをご覧下さい。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====ニームとは?=================

ニームはセンダン科の常緑樹で、和名を「インドセンダン」と言う。生長が大変早く、半年で 1m 以上にも伸び、 3 年目から実を着け、毎年 50kg の実を着ける。木の寿命は 200 年以上に及ぶ。花は白く、実はオリーブに似る。赤道周辺の平均気温 23 ℃以上が最適地で、乾燥した不毛の土地でもよく生育するが、湿地には適さない。                     

インドではニームを民間伝承医療の万能薬として重宝しており、殺菌消毒作用、抗ウイルス作用、解熱作用、抗炎症作用、抗潰瘍作用、抗菌作用などの効用が証明されている。

農業資材としても国際有機農業運動連盟( IFOAM )をはじめ、有機農業での病害虫防除用資材として各国で承認されている。農林水産省でも現在ニームオイルを検討中である。

http://www.madurawing.net/neem_what.html より転載。