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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

キリスト教と仏教の楽しい交流と融和・・・対立より愛を

2011年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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この記事をお読み頂く前に、まず上の写真にある樹木の悠々としたたたずまいをご覧下さい。そうしてお気持を広くして、のんびりと下の文章をお読み下さい。

私はカトリックの信者です。しかしお寺にある先祖や親類、恩人のお墓参りをかなり丁寧にします。カトリック墓地にも行って、お世話になった神父さんのお墓にもお参りします。家内と一緒に行きます。

神社やお寺の仏像の前では手を合わせ、頭を下げます。

それが正しいキリスト教徒というものだろうと思っているからです。

イエス様は「隣人を愛せ」と教えました。私の隣人の大部分は無宗教だったり、仏教徒です。その方々を愛することは簡単なことです。自分の親類、友人、知人など全ての人々を大切に思えば良いのです。全ての人々を尊敬すれば良いのです。

隣人が厭がることをしないことが原則です。もし神社や仏像の前でソッポを向いていたら、それを見た隣人は厭な気分になります。傷つくでしょう。

私はイエス様の教えを信仰の対象としています。しかしお釈迦様を尊敬しています。偉大な哲学者として尊敬しています。インドへ仏典を求めて17年も滞在した唐の玄奘三蔵法師を尊敬しています。同行二人の弘法大師も大好きです。

上の写真にある樹木のようにおおらかな気持ちになると「汝の隣人を愛せ」という意味が広がります。その言葉が人生をより豊かにします。

日本にはキリスト教のいろいろな宗派が運営している学校が沢山あります。

日本へキリスト教をはじめて伝えたザビエルの創ったイエズス会の大学は上智大学です。英国の聖公会の大学は立教大学です。プロテスタントの大学に青山学院、東京女子大などがあります。

しかしそれらの学校の卒業生の極く少数しか洗礼を受けていません。

洗礼を受けると親類付き合いが出来なくなる。先祖の墓参りも出来なくなる。会社に就職するといろいろな目に見えないいじわるや迫害を受けて出世出来ない。

こんな雰囲気が少しでもあれば、無理してまで洗礼を受けないのは当たり前ではないでしょうか?

しかしこのような考え方は根本的に間違っています。親類付き合いをしないのはあなたの心が狭いからなのです。出世出来ないのは会社の求めている才能をあなたが持っていないからなのです。誰もいじわるや迫害をしていないのに、それを受けていると考えるのはあなたの考え方が排他的だからなのです。

そのような人々は真のキリスト教徒でしょうか?「迫害」は自分の心が作る場合が多いものです。

キリスト教の宗派には排他的で、他の宗教へ対して非常に攻撃的な宗派もあります。一時有名だったオウム教ほど犯罪的ではありませんが世の顰蹙を買うような宗派が存在するのも事実です。

それと普通のキリスト教を一緒にしないで、自分の心で感じ、考えて見れはもっと広い心で楽しく人生を過ごせます。

今日はクリスマスの前夜です。キリスト教徒も、仏教徒も神道の人も、そして無宗教の人々も心を豊かにしてクリスマスの夕食やケーキを楽しみましょう。

私はそのようになるようにと祈っています。

今日は特に、この世に対立より融和を、争いより愛が広まり、一層平和で楽しいクリスマスになるようにお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


大震災と原発事故の心の受け止め方・・・年末にあたって冷静に考える

2011年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真の出典:東北地方太平洋大地震画像集http://matome.naver.jp/odai/2129992391446744701/2129996962447084803

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(写真の出典:  http://imgcc.naver.jp/kaze/mission/USER/1/0/19010/7880/990x639x7f30e78174d2d121468f4231.jpg )

2011年「東日本大震災」東北地方太平洋沖地震 津波到達時の各地映像http://youtube-shocking.sblo.jp/article/43900370.html

第二次大戦の敗戦を第一の国難と言えば、今回の地震・大津波災害は日本の第二の国難と考えられます。そして大津波災害が原因で福島原子力発電所の爆発と放射性物質の空中放散と海水汚染も起きました。重ね重ねの災難です。

大震災の起きた3月11日から早くも10ケ月ちかくの月日が流れました。

直接、大震災の被害にあった人々は現在でも不自由な仮設住宅や避難先の住宅でこの寒い冬の日々を送っています。深い同情の気持ちが湧いてきます。

そして不幸にも大震災の犠牲になり2万余人の人々が亡くなったのです。私はその方々の冥福を何度も、何度もお祈りしました。

そして10ケ月ちかくが過ぎやっと少し冷静に考えられるようになりました。年末にあたり今回の大震災のことを冷静に考えなおしてみました。

まず何が起きたかもう一度、写真や動画を見て、絶対に忘れないようにしようと思います。どうぞ冒頭に示したURLをクリックしてご覧下さい。

これらの写真や動画は瞬時に世界中へ送られました。それを見た全ての国の人々が大きな衝撃を受けたのです。

大震災の直後に、東北地方には18ケ国からの救援隊が展開しました。アメリカ(軍隊を除く)は100人以上、ロシアは155人、南アフリカは46人、その他100人以上の救援隊が展開しているのは、韓国、シンガポール、ドイツ、オランダ、中国、英国、メキシコ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、台湾、モンゴル、トルコ、イタリア、インドネシアなどです。皆が瓦礫整理と遺体収容に働きました。そして112体以上の遺体収容をしてたのです。

一方アメリカ軍も大規模な「トモダチ作戦」を実行したのです。

アメリカの航空母艦から飛び立ったヘリが孤立した避難所を丁寧に探し回り、危険な所でも着陸して救援物資を届けている光景をテレビで見ました。ヘリの機長が降りて行って、老人一人一人の手を両手で握ってあげているのです。雲を突くような大男を、老人達が感謝と安堵の顔で見上げています。涙を溢れさせている人もいます。

さてこのような大地震と大津波と原発の事故をどの様に心で受け止めれば良いのでしょうか?

まず、大地震と大津波は天災です。原発事故は人災です。当然、心の受け止め方は違います。

天災は何故起きたかとその原因を考えないことが重要です。どんなに科学が発達しても天災は起きる時には起きるものなのです。それは宇宙の中の一つの自然現象なのです。原因を考えるよりも、次回に天災が起きた時には災害の被害が最小になるように高台に家をつくったり、海岸に高い防潮堤を作ることに努力する方が良いのです。そして津波が来るまえに高台へ逃げる練習を重ねる事です。

天災は人間へ与えた神の罰と考えてはいけません。単なる自然現象なのです。そのように心に刻み込んで置きます。すると余計な事を考えないで復興や復旧にだけ努力できるのです。

天災の犠牲になって家族を失った人はとかく自分の行動がいけなかったからと自分を傷つけがちです。家族をうしなった原因を考えると自分を傷つけます。周りの人々も傷つけます。

悲劇は悲劇として悲しみますが、運命なのだと、それ以上考えないのが良いのです。それよりも犠牲になった人々の冥福を神やお釈迦様へ毎日お祈りした方が良いのです。

私は全ての犠牲者が天国に居て、残された家族を温かく見守っていると信じています。固く信じています。それで家族を失った空虚感が癒せるわけではありあせん。しかしほんの少し冷静になれます。そして復興に向けて心が前向きになります。この事が大事だと信じています。

さて福島原発事故は人災ですから事故の原因を作った人々が存在します。当然、責任を追及すべきです。この場合、自分自身の責任も必ず少しはあるという仮定の上で考えることが大切です。

過剰に東京電力の人々だけが極悪人だと追求してはいけません。そうすると先方も感情的なります。自分も感情的になります。

現在いろいろな事故原因を研究する委員会やグループが検討中です。いずれどのような間違いがあったのか判明すると思います。

検討結果は現有の50基の原発のより安全運転へ寄与する筈です。

そして原発の数を次第に減らして行くことが重要です。数が少なければ爆発事故の可能性がそれだけ減少します。

幸いに最近は感情的な議論が少なくなりました。建設的な議論で、より前向きの提案がなされています。

大地震と大津波、そして原発の爆発事故で大きな衝撃を受けました。被害にあった人々の心の傷は簡単には癒されません。

しかし事実は冷静に受け止め、そしてそれを忘れない事が重要です。天災は忘れた頃にまたやって来るからです。

心では冷静に何が起きたかを受け止めましょう。天災を忘れないようにします。

そして犠牲者の冥福の為に祈ります。亡くなった方々は天国から我々を温かく見守っています。そのように確信して下さい。

そして一日でも平常な生活に戻れるように考えましょう。心を前向きにしましょう。

年末にあたって大震災の犠牲になった2万余の方々のご冥福を祈ります。強く、強くお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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国木田独歩の「武蔵野」の世界・・・ツルゲーネフが教えた雑木林の美しさとその詩趣

2011年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

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この写真は武蔵野の雑木林です。

国木田独歩の「武蔵野」の世界を偲びながら、所沢の農村地他を散策し、昨日、撮って来ました。

雑木林は美しいものです。詩的なムードが流れています。

しかし雑木林が文学作品の対象になったのは明治維新後なのです。明治4年生まれ、41年、36歳で亡くなった国木田独歩の「武蔵野」が初めてです。江戸時代以前は松の木や美しい竹林などは文学作品に登場しますが、いろいろな雑木の混じった広葉樹の混生林は美の対象になりませんでした。

明治維新は日本の政治体制や社会構造を変革しただけではありませんでした。

日本人の自然の風景の好みや美意識が変革したのです。

この広葉樹の林の美しさを国木田独歩へ教えたのはロシア人のツルゲーネフでした。そのことは末尾に紹介したURLを開けてみると、国木田独歩自身が書いていることがお分かりになります。

ロシアの大地にある白樺やダケカンバなどの樺の木の林の美しさをツルゲーネフは活き活きと描いています。

国木田独歩は東京市の西の郊外に広がる田園地帯を広く歩きまわり、そこにあるコナラ、クヌギ、カシ、エゴノキなどなどの雑木林の詩的なたたずまいを文章で表現したのです。四季折々の美しさ、朝や夕方の林の輝きを描いたのです。

それ以来、多くの日本人は雑木林は美しいと認識するようになったのです。勿論、昔の日本人も美しいと思ったに違いありません。しかし文学作品にはほとんど現れませんでした。

私も若い頃、国木田独歩の「武蔵野」という本を読んで、すっかり雑木林の魅力にとりつかれました。以来、茫々50年、60年、今でも雑木林が好きで武蔵野を広く散策して写真を撮っています。

何十年か前に山梨県の山の雑木林の中に小屋を作って、通っているのも「武蔵野」という本を読んだお陰です。

昨日、撮った写真をもう少しご紹介したいと思います。

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畑を歩いて行って雑木林に近づきます。この林の中に分け入る道を探しました。

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林の中の小道が奥へ、奥へと続いています。どんどん歩いて行くと次第に暗い林になって行きます。

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暗い小道を歩きながら36歳で夭折した国木田独歩の生涯を想います。

小説を沢山書きました。しかし現在世に知られているのは「武蔵野」だけです。残念です。本人も、もっともっと文学作品を書きたかったことでしょう。心残りだったに違いありません。

皆様も国木田独歩のことを想いながら、近所の雑木林の美しさをお楽しみ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

「武蔵野」の詳細な内容は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html にございます。

そして国木田度独歩の経歴を下にご参考までに掲載して置きます。

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国木田 独歩(くにきだ どっぽ、18718月30明治47月15 - 1908(明治41年)6月23)は、日本小説家詩人ジャーナリスト編集者千葉県銚子生まれ、広島県広島市山口県育ち。幼名を亀吉、のちに哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。 田山花袋柳田国男らと知り合い「独歩吟」を発表。詩、小説を書いたが、次第に小説に専心。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編『巡査』を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた。ロシア語などへの翻訳があるが、海外では、夏目漱石や三島由紀夫のような知名度は得ていない。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9C%A8%E7%94%B0%E7%8B%AC%E6%AD%A9


私の鎌倉物語(2)幼少時の楽しさが人生の苦しさを解消する

2011年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム

鎌倉はいろいろな意味で確かに魅力ある町です。観光客が絶えません。

しかし私にとって鎌倉は特別な意味があります。家内が生まれ、そこで終戦の年まで育った場所でした。終戦時は国民学校2年生でした。

家内は結婚以来何度も、何度も鎌倉での楽しい思い出を話します。

私共の生活はかなり厳しいものでした。何度も辛い思いをした筈ですが、何時も天真爛漫として明るく暮らしています。そのうち、私は一つの結論に至りました。「幼少時の楽しさが人生の苦しさを解消する」という結論です。

このように書くと自分の子供の頃は悲しい思い出だけですと言う人がいます。私もそう思っていました。しかしそれは大変大きな間違いです。悲しい事を忘れて、楽しい事だけを覚えていれば解決するのです。

それはそれとして、家内が鎌倉での楽しかった聖母園幼稚園や御成国民学校の話をします。住まいは長谷寺に近く、裏には加賀藩主だった前田さんの別荘がありました。加賀様山と呼んで、その山や草原で毎日のように遊んでいたそうです。

自宅から路地を抜けて、江の電の線路を渡ると由比ヶ浜です。夏になると親類の若者や子供達が海水浴に来て、何日も泊っていきます。

父親は横須賀の海軍の学校で栄養学を教えていました。一応佐官待遇だったようですが自由な思想の持ち主で陸上競技や野球が好きでした。

終戦まで大規模な空襲が無かったので鎌倉は戦前の余裕のある楽しい生活が続けられたのです。

家内が鎌倉の思い出を話すので、何度も遊びに行きました。

昔住んでいた家の近所に行ったり、現在は鎌倉文学館になっている加賀様の別荘を訪ねたりします。御成小学校は海蔵寺や寿福寺に行く途中にあるので何度も行きました。戦前の校門と講堂が残っています。

鎌倉に行く度に家内が元気はつらつになるので、何度も行くことになりました。そのうち私自身も第二の故郷のように思うようになります。

そして私の第一の故郷の仙台市も懐かしくなります。楽しい思い出だけが強くなります。末尾に示したように、「私の追憶の中の仙台」という連載記事を4回書きました。そうして私は確信したのです。「幼少時の楽しさが人生の苦しさを解消する」という確信です。

どうぞ皆様、もし人生の苦しさや悲しみに現在、遭遇しているなら、「幼少時の楽しさが人生の苦しさを解消する」と確信して下さい。もし幼少の頃に楽しい思い出が無いと思っていたら、それは大変大きな間違いなのです。幼少時は大人の苦しみや悲しみが理解出来ない時期なのです。普通の家庭に育っていれば苦しみや悲しみが無い筈です。

しかし幼少時に母を失った人の事を考えるとそんなに気楽には書けません。その子は神様が守ってくれと思います。そのように信じ、深い同情を感じています。

ですから今日、上に書いた原理原則は普通の家庭に育った人にしか通用しないかも知れません。残念です。

下に関連の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

参考記事:

私の鎌倉物語(1)静かで質素なお寺巡り

追憶の中の我が仙台(4)思い出のなかの故郷を探す旅

追憶の中の我が仙台(3)仙臺味噌と四代目八木久兵衛とのかかわり

追憶の中の我が仙台(2)ベーブ・ルースが来て2本のホームランを打つ

追憶の中の我が仙台()東洋館、いかり亭、観月亭、黒門下の湯など

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・戦前から変わらない御成小学校の正門です。

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・現在は鎌倉文学館になっている加賀様の別荘の門

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・経済の高度成長以前はここに戦前の白い壁の木造2階建ての昔住んでいた家が残っていました。長谷原の台という番地です。現在は新しい家々が立ち並んでいます。

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・路地を抜けると由比ヶ浜が昔もこのように広がっていました。


クリスマスにはお近くの教会へ気軽におでかけ下さい

2011年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

何処の町にもキリスト教の教会があると思います。いろいろな宗派がありますが、どの教会でもクリスマスの礼拝式は信者でない方々も大歓迎しています。近所の教会へお子様連でお気軽に行ってみて下さい。イエス様誕生の劇や楽しいクリスマスの聖歌・讃美歌があります。

24日の夕方と夜の2回と25日の午前中に礼拝式があります。開始時間は教会によってまちまちですので、あらかじめお確かめ下さい。

私の住んでいる小金井市では宗派の違う11の教会が礼拝式の開始時間や場所のお知らせを、以下のように合同案内ポスターにしました。

宗派を超えてイエス様の誕生日をお祝いしようという趣旨で毎年、合同案内ポスターを市内のあちこちに掲示しています。是非一度、礼拝式をご覧になって下さいますようにお祈りしています。(終り)

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失意のときは樹木を見に行く・・・明るい気分になれる

2011年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

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人間は生きているかぎり楽しみや悲しみを感じます。考え通りにことが運ばず失意に落ち込みます。不幸感に襲われます。ふさぎ込みます。

原因は千差万別いくつもあります。

天災や大事故。家や財産の流失。家族や親しい人の死。このような大きな悲劇もあります。

そして、その他にも、恋愛のつまずき。受験の失敗。職場での人間関係の難しさ。夫婦の不和。子供や孫との会話の途絶。病気や怪我。老衰と身体の不自由。金銭問題。衣食住の心配。

失意や不幸感の原因は渚の波のように次からつぎへと襲ってきます。生きている限り襲ってきます。

私も引退して悠々自適の身ですが、時々訳も無く暗い気分になります。急に不幸感が襲ってきます。

そんな時は不孝の原因は絶対に考えません。頓着しないで忘れるのです。忘れるために樹木を見に行きます。何も感情の動きもないような樹木のたたずまいを眺めるのです。樹木は何でも良いのです。雑木林の広がりでも良いし、この写真のような巨木でも良いのです。

樹木は下らないことを考えないで静かに生きています。何十年も何百年もゆっくり蒼穹へ向かって梢を伸ばして行きます。何も迷っていません。悩みなどありません。そんな姿を見ていると次第に自分の考えが下らないと思えるようになります。

自分のこだわりが失意の原因なのです。忘れる事です。樹木が梢を蒼穹へ伸ばすように自然な人生を生きようという気分になります。心が明るくなります。

私は若い時も、老人になった現在も時々失意に陥ります。生に執着している限り陥ります。

しかし年老いたお陰で、現在は確信しています。失意や不幸感なんて樹木の姿を見ると一瞬にして消えて行く事を。

忙しくて見に行けない現役の人は通勤の電車の中では車窓を流れる樹木の姿を見るのです。そうして先日見た樹木の姿を思い出すのです。

不幸の原因は絶対に考えないで、不幸は、不幸としてあるがままに受け入れます。樹木のように静かに受け入れます。すると自然に忘れてしまうものなのです。

もっとも忘れようとしても絶対に忘れられない大きな悲しみもあります。しかし樹木を見ていると少し癒されます。少しでも心の救いになるのです。心が前向きになります。

下にもう2枚、昨日、野川公園でとった樹木の写真をお送りします。もし失意の方がいたら、ジッと見詰めて全てを忘れて下さい。明るい気分になれます。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。後藤和弘(藤山杜人)

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欧米文化と日本文化の異質性に悩む・・・76歳の老人になっても悩んでいます

2011年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新以来、約140年余になりますが、やっぱり欧米文化は深く日本に根を下ろしていないと思います。

これだけ欧米の芸術やスポーツなどが盛んに取り入れられていながら根本的な考え方は導入されていません。

その原因は、日本では欧米文化の中から、国が豊かになるのに役に立つ実用的な部分のみを取り入れるからなのです。文化には実利的な部分もありますし、何の役にも立たない部分もあります。そしてその両方は深い所で強固に結び付いているのです。

例えば日本の大学では哲学は文学部の一学科として教えています。しかし欧米では大学で教えている学問は大部分を哲学の一部と考えて教えています。科学も工学も生物学も全て「宇宙観の一部」として発展して来たので哲学の一部なのです。

昔、ギリシャの哲学者は全宇宙は土と火と風と水から出来ているという宇宙観を提唱しました。これが物質科学あるいは物理学の発端になったのです。科学は哲学の一部だったのです。

それが証拠にはアメリカの大学院で与える博士の称号は全て哲学博士と言います。例外は医学博士だけです。

日本の博士号は理学博士、工学博士、医学博士、法学博士、経済学博士、文学博士と細分化されています。したがってそれぞれの分野は独立した実用的な広い知識と権益と深く結びついています。しかし欧米ではすべて哲学博士として共通していることに重要な力点を置きます。知識の広さでは無く「独創的な考え方の出来る能力」へ対して授与される称号なのです。実用性は直接関係がありません。

明治時代に政府が欧米の大学を模倣して各地に帝国大学を作りました。しかし上に書いたように科学や工学や文学を哲学に包括されるという思想を導入しませんでした。この違いは現在でも欧米と日本の大学教育の思想的な相違として存在しています。

欧米の文化の導入が実用文化に偏重してしていて全体をバランス良く導入していません。

抽象的な書き方を止めて分かり易い実例を用いて説明します。

私は過去26年間、クルーザー・ヨットの趣味を持っていました。ヨットの趣味を持っていたお陰で素晴らしい世界を体験出来ましたが、常になんとなく肩身の狭い思いをして来ました。日本では古来から舟はお客や荷物を運ぶ便利なものとして用いられて来ました。そして漁師は舟は沖に出て魚を獲って食べたり売ったりする為に使ってきました。実用だけに用いたのです。ところがヨットは遊びだけで、何の役にも立ちません。そのような舟は差別して、追いやりたくなるのが自然の人情というものです。舟を遊びだけに使うのは贅沢であり、人間として不道徳な行為です。そのような感情が心の底に流れています。私の心の底にも時々流れます。

ところが欧米ではヨット遊びは実用になる全ての船の根本になるという思想があります。ですからヨット遊びを大切にします。全ての船乗りの訓練で重要視されます。原子力潜水艦や原子力空母に乗る海軍士官は士官学校でヨットの訓練を受けるということも聞きます。日本帝国海軍はヨットは実戦に無力だからと無視したのです。

しかし欧米では、ヨットは丁度全ての学問分野を包括する哲学のような存在なのです。

その思想はコロンブス達が活躍した大洋を渡る帆船の頃から生まれてきた欧米の思想なのかも知れません。

ですから欧米ではヨット遊びを奨励するようにいろいろな政策や支援があるようです。

日本でクルーザーヨットの普及を止めている原因は贅沢過ぎる遊びだという固定観念の他にもう一つの大きな原因があります。それは法外な係留料金にあると言われています。

下に示した写真は先週撮ってきた民間経営の葉山マリーナに陸置きされているヨットの光景です。現在の年間陸置料金は知りませんが、以前は26フィート長さのヨットで150万円位していました。ヨットは数百万円から数千万円ですから普通の人が個人で持てるようなものではありません。

ヨットは一つの実例に過ぎません。欧米の趣味の世界と日本の趣味の世界を比較すると同じような例がいくつもある事に気がつきます。それらはいずれ続編で明らかにして行きたいと思っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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人生の選択・・・そして幸せに暮らす方法

2011年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム

今年は大震災や原発の事故など不幸な事が起きました。被害に遭った人々の苦しみは簡単には癒されません。

その一方で、人々は不景気や就職難で苦しんでいます。日本の運命が急に下向きになり、社会全体が衰弱する方向に動いているようです。何か暗い雰囲気が漂っています。

しかしそのような世の中にもかかわらず明るく賢明な人生を送っている人もいます。

その方は50歳台に人生の舵を大きく切りました。都会での生活を一切捨て、山林の中に、自分で山荘を作り、そこへ移住してしまったのです。移住してから20年になります。

「北杜市・自然の中で」というブログを書いている鬼家雅雄さんです。

私の山の小屋に近いので時々訪問してみます。寂しい山林の中で、独身を通して住んでいるのですから、さぞ寂しいだろうと思います。しかし何時行っても楽しそうにしています。田舎暮らしにあこがれて都会から移住し、不幸になった人も居ます。生活の不便さに負けてしまったのです。しかし鬼家さんは人生がますます幸せになったようです。昨日、その理由をいろいろ聞いて来ました。

人生には選択肢が多いものです。間違って選んで不幸になる人もいるのです。

鬼家さんは人生の舵を大きく切る前に準備を丁寧にしたのです。物心両方の準備です。今日は山の中で幸せに暮らす方法を書いて見たいと思います。

まず暗い松林の写真をご覧下さい。

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鹿やイノシシや猿が棲んでいる森の奥にある松林です。彼の山荘を訪問する時にはこの写真の暗い林の中の道を歩いて行きます。私の車は入れません。

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青いウッドデッキの向こうに山荘が広がっています。左の2つの屋根の見える部分は鉄筋コンクリート製の建物で、右の方の建物は木造です。

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鉄筋製の建物と木造の家の2階が丈夫なコンクリートの橋で繋いであります。この橋を行ったり来たりすると気持ちが晴れ晴れするのです。

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昨年作ったウッドデッキです。夏の宵にビールを飲んだり、寝苦しい夜にはテントを張って眠る場所です。

鬼家さんが20年前に横濱の家を処分して、移住する前に準備した事は老後の一人暮らしを続けるための充分な貯金をしたことです。これは絶対に必要な準備です。自給自足の生活をしようとしてはいけません。山林の中は猿やイノシシが多すぎて農作物が作れないのです。その事を充分に考えて貯金をしたのです。

趣味として自分で家を作ればお金がかからないと考えては大間違いです。材料費とその運搬の費用が意外に大きいのです。

兎に角、お金の準備をします。

そして間もなく雪に埋まる山荘のことを考えて燃料の薪を2年分位作っておきます。

その上、昨日見せてもらったのですが、越冬のための食料品が多量に貯蔵してあるのです。種類別に分類し、キチンと収納箱や冷蔵庫にしまってあります。それを私に見せながら鬼家さんはニコニコしています。

山林の中で幸せに暮らすにためのもう一つ重要な条件は精神力です。何時も自分の気持ちを明るく保つ気力です。

彼は体の都合で昨年から車の運転は止めました。いろいろな自転車を3種類買ってその性能を調べています。登りの多い山道ではマウンテンバイクが良いが、舗装道路では普通の自転車が良いです。電動アシスト自転車は意外に電池がすぐ無くなり、使いにくいものです。こんな感想を言っていました。

車の運転が出来なくなるとガッカリして落ち込むものです。しかし彼は一向にめげません。気力が強いのです。すべてを前向きに考え、解決するのです。

彼は極寒の地に独り放り出されても生きて行けるのです。幸せそうに生きて行ける人間なのです。彼と話をしていると私まで元気になり、松林の中の道を帰ってきます。人生いろいろです。自分で選んだ道は自分で責任をとるのです。その心構えをすると幸せな人生になると思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


悠々自適の境地とはこういうものでしょうか?(1)山林の中で独りで数時間過ごす

2011年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

70歳で仕事を止めて毎日ボンヤリ過ごしています。すると何故か充実感と淋しさが入り混じった不思議な心境になります。そして、これが悠々自適の境地なのだと強く実感する日々があります。

その実例を幾つかご紹介したいと思います。

第一回は山林の中の小屋へ独りで行って、ボンヤリ小屋の庭を流れる小川を見ながら焚火をして時間を過ごすことをご紹介します。それが悠々時適な時間なのです。

何もありません。明るい陽の光と松林の梢をふく風の音しか聞こえるものがありません。時間がゆっくり流れます。陽の射し込む小屋の中は薪ストーブを燃やさなくてもポカポカ温かいのです。窓の外を見やりながら静かな時間が流れて行きます。独りです。小春日和です。

しかし夕日になると急に寒くなります。戸締りをして車に飛び乗って山道を降りてきます。これが悠々自適な時間の一例でず。

老人の方々はどのような悠々自適な時をお過ごしでしょうか?

下は今日、私が静かな時間を過ごした風景写真です。

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白く輝く今日の農鳥岳、間の岳、北岳、甲斐駒岳、八ヶ岳の姿をお楽しみ句下さい

2011年12月17日 | 写真

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・南アルプスの主峰です。左から農鳥岳、間の岳、北岳、です。

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・右端は富士山の次に高い北岳です。左は間の岳です。

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・甲斐駒岳です。小生の山小屋の傍から撮りました。

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・八ヶ岳です。同じく小生の山小屋の傍から撮りました。

今日は晴天に恵まれましたが気温は低かったです。雪の少ない地方なのですが霜柱で道が濡れていました。日帰りで山の小屋の年末の掃除をして来ました。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。


国破れて山河あり、城春にして草木深し・・・来年こそは大震災から立ちあがろう!

2011年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム

第二次世界大戦で日本が負けた時、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という言葉を何度も聞きました。まだ少年だった私の心に焼き付いています。

今回の大地震・大津波、そして福島原発の爆発の後で、何故か敗戦の頃の日本を思い出しました。そして、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という言葉を何度も口ずさんでいます。敗戦と大震災が私にとって同じような感じがするのです。

この漢詩は、唐の長安が、安禄山の反乱で荒廃したありさまを見て杜甫が嘆いて作った詩です。

第二次大戦後にこの漢詩が多くの日本人の共感を得て、何度も読まれたのです。新聞が取り上げるし、学校ではこの漢詩を教えられたのです。

敗戦で打ちひしがれた人々を鼓舞したのです。アメリカ軍の徹底的な空襲で全国の都市が焼きつくされたのです。しかし山や河のような自然はそのまま残っているではないか!復興に努力し、この国をもう一度蘇らせよう!そのように国民を勇気づけたのです。私もこの漢詩に勇気づけられました。

そのように今回の大災害でも、日本の復興のために努力したいと思います。この詩は元来、大震災後の日本の復興を応援する意味など無いのです。しかし何故か勇気づけられます。

玄宗皇帝のころの華やかな長安が荒れて見る影もない。自身も年をとり衰えてしまった。その運命の暗転を見て嘆き、その気持ちを美しい詩としたのです。一個の芸術的な作品です。

「国破れて山河あり」という冒頭の言葉に戦後の日本人は共感し、この詩の美しさに慰められたことは事実です。慰められて、少し落ち着いて、今後の国のあり方を考えた人は多かったと思います。そしておもむろに立ち上がったのです。

中国大陸や南洋の島々で終戦を迎えた日本兵にとってこの漢詩は深い印象を与えたのです。やっとの思いで復員船に乗って故国の山を海の上から見たときの喜びの気持ちを表しています。国が破れてもあの緑豊かな山々は出征する前のままあるのです。自分達を温かく迎えてくれたのです。

「国破れて山河あり、城春にして草木深し」はそれ以来、私が不運や不幸に見舞われた時の、人生のキーワードになりました。

今回、大津波は街々を洗い流してしまいました。家族を失った人も多いのです。漁港も街もガレキで酷い状態です。

しかし目を遠方の山々に転ずると、以前と変わらぬ美しい山並みが碧く輝いています。なぜかホッとして復興への勇気が湧いてきます。

そんな事を想起させる漢詩です。東日本の一日でも早い復興をお祈りしています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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春 望 (五言律詩。長安の賊中にあって、春の眺めを述べる。)
 
  国破山河在   国破れて山河在り
  城春草木深   城春にして草木深し
  感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺ぎ
  恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
  烽火連三月   烽火 三月に連なり
  家書抵万金   家書 万金に抵る
  白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く
  渾欲不勝簪   渾て簪に勝えざらんと欲す

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渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(4)我が国での外洋ヨットレースを確立する

2011年12月16日 | 日記・エッセイ・コラム

これまでの記事:

渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(3)和船と欧米の船の決定的な違いを明快に書いている

渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(2)船を造る船大工の技を知りつくした天才的な船の設計者 

渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(1)造船技術者としての幅広い活動

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この本の特に驚嘆すべき部分は第10章の「オーシャンレース開始」から第16章の「外洋ヨットの設計」までの外洋ヨットレースに関する部分です。

昭和23年に渡辺さんは初めて大島までの外洋レースにアメリカ人船長のもとで参加したのです。「渡鳥」という49フィートのケッチでフォルスターさんというアメリカ人が注文し渡辺さん達が作った艇でした。葉山から初島を回り大島を回り、葉山に帰ってくる100海里のコースです。17艇が参加し、3艇が日本人の艇で残りはアメリカ人の艇でした。

しかし「渡鳥」はトップセールが壊れてしまい途中で棄権します。

その後、渡辺さんは自分で設計した外洋ヨットを次々に作り、外洋レースに参加したのです。この本の最も興味深いとことろはヨットの設計によって外洋での性能が明快に変わるという事です。設計の良し悪しがヨットのスピードと復元力や荒れる波へ対する強さが決まるのです。スピードを上げようとすれば船の底に固定する鋼鉄製のキールを小さくしなければなりません。スピードは上がりますが復元力が小さくなって船の安定が悪くなります。少しの荒天でも棄権してエンジンで帰港しなければなりません。レースのコースを完走しなければ負けです。

このように相反する船の要求を全て勘定に入れて、外洋レースに勝つヨットを設計しなければなりません。何日も夜を徹して走るので、非番のクルーがゆっくり眠れる快適なキャビンも重要になります。

渡辺さんは次々に外洋ヨットを設計、製作し、外洋ヨットレースに参加し、自作したヨットの性能を確認します。そして改良を重ね最良のヨットを作り上げのです。

その一例が天城という名前の有名な木造艇です。下にそれをレストアした木造艇「AMAGI]の写真を示します。

この設計の改良と、外洋での性能の因果関係が明快な話になっているので感動的なのです。以前の記事で、渡辺さんは「船の設計の天才」と書きましたが彼は努力する天才なのです。

そして私がもっと驚いた事があります。渡辺さんは昼間は東造船という造船会社で漁船や鋼鉄船などの実用船を忙しく作っているのです。

夜に帰宅してから、自宅の庭先で自分のヨットをコツコツ作っていったのです。10艇も作ったのです。そして子供も育て円満な家庭を持っていたのです。

ヨット製作は夜に行うロマンチックな趣味だったのです。

その上、もう一つの重要な事は渡辺さんが日本の外洋ヨットレースの日本オーシャンレ-シングクラブ(NORC)という組織を作ったことです。

そして外洋レースのハンディキャップの計算方法を確立したのです。

外洋ヨットレースには大小さまざまなヨットが参加します。大小の違いだけでなく復元力の違い、キールの有無、水密閉性のキャビンの有無、セール総面積の違いなどなどがあります。つまり性能の大きく異なる船が一緒にレースをするのですから公平なハンディキャップを計算してレースの結果を補正して順番をつけます。

例えて言えば、サラブレット馬も農耕馬も木曾駒も一緒くたに走ってレースをするようなものです。走る速度の差とスピードの持続時間を考慮に入れてハンディキャップを計算し到着順を補正するようなものです。

ヨットの場合のハンディキャップの計算は非常に複雑です。ヨットの設計能力の持ち主でなければその複雑な計算が出来ません。更に机上の計算の間違いを外洋レースに何度も参加して補正しなければなりません。

渡辺さんだからこの計算が出来たのです。そのお陰で日本に初めて外洋ヨットレースが公平な審判の出来るスポーツとして受け入れられたのです。

この功績は絶大です。渡辺修治さんの一生は感動的です。

さて「渡辺修治著「どんがめ物語」の内容」と題する連載記事はこれで一まず終りに致します。自分がヨットに26年余も乗っていながら外洋レースに参加したことがありません。その為、この本の魅力を充分お伝え出来なかったことを非常に残念に思っています。どうぞお許し下さい。最後にいろいろ補足的な情報をご親切に送って下さいました、息子の渡辺康夫さま、その奥様の直美さまへ深く感謝いたします。(終り)

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季節の風物詩・・・年末の大掃除の今昔

2011年12月16日 | 日記・エッセイ・コラム

あれは経済の高度成長の前の風物詩でした。

年末になると何処の家々も一斉にタタミを上げ、庭に出して竹でバタンバタンと叩いていました。タタミからは一年中吸い込んだ細かな土埃が煙のように出て来たものです。力が要るので男衆の仕事です。

家の中では主婦と女中と娘たちがタタミの下に敷いてあった古い新聞紙を新しいものに取り換えます。古い新聞を読んでいて、仕事の手が停まっている光景もありました。

女衆は拭き掃除。男衆はササ竹を纏めた速製の箒で天井のスス払いをします。蜘蛛の巣が出来ていてそれに煤や綿ゴミがまつわり付いています。

家中の大掃除が一通り終われば、男衆は庭の掃除、とくに縁の下の掃除も含めて綺麗に掃き清めます。女衆は障子の紙の張り替えにとりかかります。これがなかなのおお仕事です。うっかりすると手伝わされます。

そんな時は庭に残っていた落ち葉やゴミを集めて焚火をします。落ち葉の燃える良い匂いがします。兎に角、うっかり家の中に入るといろいろと手伝う羽目になります。

「大掃除をしないとお正月が来ないよ」と言いながらどの家々でも大掃除に励んでいたのです。それは何故か心が楽しくなる季節の風物詩でした。

それが次第に消えて行ったのは経済の成長で真空掃除機が普及したからです。タタミの目に入った細かな土埃を毎日吸い出してくれるのです。その上、道路が舗装され土埃が次第に無くなって行ったのです。

その上、エアコンが普及し、室内の綿埃を吸い取ってくれるのです。エアコンのフィルターに綿埃が沢山付くことを思い出して下さい。

タタミの敷いてある部屋も減りました。結果として年末にタタミを上げて竹で叩く必要が無くなったのです。同様に天井の蜘蛛の巣もなくなりました。煤竹で取ることもなくなりました。障子の数も減りました。庭の焚火も禁止です。

それでは年末の大掃除の習慣は無くなったのでしょうか?

それが現在でもあるのです。家や庭の大掃除は必ずします。本棚や食器棚の整理整頓をします。床の雑巾がけもします。数少ない障子の張り替えもします。

それらが終わらないとおせち料理にとりかかれないのです。お正月が来ないのです。昔のように男衆と女衆の大掃除の分担がはっきり別れていません。しかし何となく今だに分担が別れています。別れ方は家々によって異なりますが。

こんな年末の風物詩を思いついてのは下に示したような年末らしい琵琶湖の風景を見たからです。琵琶湖の周辺は京都に近く、いろいろな古い習慣が残っています。

きっと年末の大掃除も昔風に変わらずに、現在もしていると想像したくなります。いつも写真をお借りするちひろさんのブログから転載しました。心良く貸してくれて有難う御座いました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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出典:ちひろさんにブログ(紫さんのブログ):http://ameblo.jp/yumenosannpomiti77/