後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

欧米文化と日本文化の異質性に悩む・・・76歳の老人になっても悩んでいます

2011年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新以来、約140年余になりますが、やっぱり欧米文化は深く日本に根を下ろしていないと思います。

これだけ欧米の芸術やスポーツなどが盛んに取り入れられていながら根本的な考え方は導入されていません。

その原因は、日本では欧米文化の中から、国が豊かになるのに役に立つ実用的な部分のみを取り入れるからなのです。文化には実利的な部分もありますし、何の役にも立たない部分もあります。そしてその両方は深い所で強固に結び付いているのです。

例えば日本の大学では哲学は文学部の一学科として教えています。しかし欧米では大学で教えている学問は大部分を哲学の一部と考えて教えています。科学も工学も生物学も全て「宇宙観の一部」として発展して来たので哲学の一部なのです。

昔、ギリシャの哲学者は全宇宙は土と火と風と水から出来ているという宇宙観を提唱しました。これが物質科学あるいは物理学の発端になったのです。科学は哲学の一部だったのです。

それが証拠にはアメリカの大学院で与える博士の称号は全て哲学博士と言います。例外は医学博士だけです。

日本の博士号は理学博士、工学博士、医学博士、法学博士、経済学博士、文学博士と細分化されています。したがってそれぞれの分野は独立した実用的な広い知識と権益と深く結びついています。しかし欧米ではすべて哲学博士として共通していることに重要な力点を置きます。知識の広さでは無く「独創的な考え方の出来る能力」へ対して授与される称号なのです。実用性は直接関係がありません。

明治時代に政府が欧米の大学を模倣して各地に帝国大学を作りました。しかし上に書いたように科学や工学や文学を哲学に包括されるという思想を導入しませんでした。この違いは現在でも欧米と日本の大学教育の思想的な相違として存在しています。

欧米の文化の導入が実用文化に偏重してしていて全体をバランス良く導入していません。

抽象的な書き方を止めて分かり易い実例を用いて説明します。

私は過去26年間、クルーザー・ヨットの趣味を持っていました。ヨットの趣味を持っていたお陰で素晴らしい世界を体験出来ましたが、常になんとなく肩身の狭い思いをして来ました。日本では古来から舟はお客や荷物を運ぶ便利なものとして用いられて来ました。そして漁師は舟は沖に出て魚を獲って食べたり売ったりする為に使ってきました。実用だけに用いたのです。ところがヨットは遊びだけで、何の役にも立ちません。そのような舟は差別して、追いやりたくなるのが自然の人情というものです。舟を遊びだけに使うのは贅沢であり、人間として不道徳な行為です。そのような感情が心の底に流れています。私の心の底にも時々流れます。

ところが欧米ではヨット遊びは実用になる全ての船の根本になるという思想があります。ですからヨット遊びを大切にします。全ての船乗りの訓練で重要視されます。原子力潜水艦や原子力空母に乗る海軍士官は士官学校でヨットの訓練を受けるということも聞きます。日本帝国海軍はヨットは実戦に無力だからと無視したのです。

しかし欧米では、ヨットは丁度全ての学問分野を包括する哲学のような存在なのです。

その思想はコロンブス達が活躍した大洋を渡る帆船の頃から生まれてきた欧米の思想なのかも知れません。

ですから欧米ではヨット遊びを奨励するようにいろいろな政策や支援があるようです。

日本でクルーザーヨットの普及を止めている原因は贅沢過ぎる遊びだという固定観念の他にもう一つの大きな原因があります。それは法外な係留料金にあると言われています。

下に示した写真は先週撮ってきた民間経営の葉山マリーナに陸置きされているヨットの光景です。現在の年間陸置料金は知りませんが、以前は26フィート長さのヨットで150万円位していました。ヨットは数百万円から数千万円ですから普通の人が個人で持てるようなものではありません。

ヨットは一つの実例に過ぎません。欧米の趣味の世界と日本の趣味の世界を比較すると同じような例がいくつもある事に気がつきます。それらはいずれ続編で明らかにして行きたいと思っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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