後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

クリマスイブ、こんな素晴らしいメールを頂きました!

2011年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝の私が掲載した記事、キリスト教と仏教の楽しい交流と融和・・・対立より愛を へ感動的なコメントを頂きましたので、皆様へも是非ご紹介したいとと思います。

日本民族は今回の東日本大震災と同様に太平洋戦争の悲劇を子々孫々伝え続くべきと思います。その太平洋戦争の中でもインパール作戦の愚かさと悲劇の大きさを忘れるべきではないのです。そのインパール作戦の後に示された日本人の良識をご覧下さい。

以下のVCさんからのメールは私にとって最高のクリスマスプレゼントです。

有難うございました。後藤和弘

なお、このVCさんのことは、恥ずかしいこの私の迷いと悩み という記事でもご紹介してあります。あわせてご覧下さい。世の中には立派な人が沢山いるものですね。

====VCさんからのメール==========

後藤和弘(藤山杜人)様

寒さが厳しい折柄、いかがお過ごしですか。
本日のブログの記事を拝見し、以前からお伝えしたかったことを思い出しましたので画像を添付するためメールをします。
私の家内はインド、ナガランド州の州都コヒマの出身です。
インパール作戦の激戦地であり、人口の約90%がキリスト教(バプテスト)の州です。
新しい出来事ではありませんが、日本の戦友会の有志のみなさんによって1989年にカトリック記念堂が建設されました。本来であれば慰霊碑を建立したかったのですが、数年に及ぶ政府間の交渉では埒があかなかったと聞いております。
2009年に里帰りをした際に、記念堂を訪れました。門の傍らにひっそりと日本語のプレートがありました。
政治・宗教の壁を越えて実際に建てられた悲願の記念堂であることが読み取れました。

後藤さんにぜひご覧いただきたく、送ります。
よいクリスマスをお迎えください。     VC
より
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白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(4)ベルリンオリンピックへの参加と戦前の外洋レース

2011年12月24日 | インポート

今までの掲載記事:

白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆

白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(2)明治時代、横濱に在住した外人のヨット

白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(3)明治20年代の横濱にあったヨットの写真集の発見

渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(4)我が国での外洋ヨットレースを確立する

日本へヨットというスポーツがどのように入って来たかという歴史を文献を調べ、数多くの関係者を訪問し、昔のヨット事情を聞き、出来あがった本が白崎謙太郎著の「日本ヨット史」という本です。

それによると明治20年頃から大正12年の関東大震災まで横浜港では在住外国人が盛んにヨットレースを繰り広げていました。外国人在住者の多かった神戸港や長崎でも同じような光景があったと想像できます。しかし日本人は富国強兵に忙しく、何の役にも立たないようなヨットには殆ど関心がありませんでした。2、3人の日本人が横浜港の外人ヨットクラブに会員として参加していた程度でした。

そして関東大震災で横濱も壊滅的な被害を受けると外国人の多くが帰国してしまい、ヨットレースも途絶えてしまったのです。

日本人自身がヨットを所有し、小型ヨットのディンギーでレースを始めたのは昭和の初期からです。そして昭和11年のベルリンオリンピックへ初めて参加したのです。監督は日本ヨット協会生みの親の吉本祐一、コーチとして艇および帆走規則に詳しい理論化の小澤吉太郎が加わり、主将、財部実を含めて総数7名の日本代表団が参加したのです。

はるばるシベリア鉄道でベルリンへ行ったのです。結果は惨敗でした。4年後の東京オリンピックまでにレースに使うヨットの建造も見通うしが立たず、各国のヨット関係者からはオリンピックを東京で開催することに反対意見が出たそうです。コーチの小澤吉太郎氏が帰国後に報告しています。

一方、日本の大型ヨットによる外洋レースは昭和12年に三浦半島の鐙摺港を出発して大島を回ってくるというコースで開催されました。

日本人が乗り組んだ4艇が参加して、26時間で帰って来たアオイ号が優勝しました。その後、鐙摺港から熱海沖の初島を回る外洋レースも開催されます。

しかし外洋レースに必要なハンディキャップの計算方法が分からず、大らか過ぎるレースでした。

こうしてやっと日本人自身によるヨットが始まったのですが、昭和12年からの中国との戦争、そして第二次世界大戦の勃発で日本のヨットも中断してしまうのです。

ここまでの歴史は白崎謙太郎著の「日本ヨット史」に詳しく書いてあります。

そして戦後のヨットの歴史は、渡辺修治著の「どんがめ物語」に書いてあります。

簡潔に要約すれば以下の通りです。

戦後すぐに、進駐軍の将校が横濱などで本格的な外洋向けのクルーザーの建造を指導したのです。そして外洋レースに必要なハンディキャップの計算方法を日本人へ教えたのです。初めは進駐軍の将校が中心になって大島周りの外洋レースが盛んに行われたのです。昭和26年に日本が独立するとアメリカ軍人も本国に帰る人が多くなります。大型ヨットは日本人へ引き継がれ、外洋レースは日本人が主体になって組織した日本オーシャンレーシングクラブが主催して毎年行われるようになったのです。

そうして日本の経済の高度成長に従って小型ヨットのディンギーも大型のクルーザーヨットも一気に盛んになります。

結論的に言えば現在の日本のヨットは戦後、アメリカの進駐軍のお陰で本格的になったと言っても過言ではありません。

下に現在、葉山港と称している鐙摺港に立っている記念碑と鐙摺港の風景の写真を示します。昭和の初期から日本人のヨットが係留されていた所です。

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キリスト教と仏教の楽しい交流と融和・・・対立より愛を

2011年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

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この記事をお読み頂く前に、まず上の写真にある樹木の悠々としたたたずまいをご覧下さい。そうしてお気持を広くして、のんびりと下の文章をお読み下さい。

私はカトリックの信者です。しかしお寺にある先祖や親類、恩人のお墓参りをかなり丁寧にします。カトリック墓地にも行って、お世話になった神父さんのお墓にもお参りします。家内と一緒に行きます。

神社やお寺の仏像の前では手を合わせ、頭を下げます。

それが正しいキリスト教徒というものだろうと思っているからです。

イエス様は「隣人を愛せ」と教えました。私の隣人の大部分は無宗教だったり、仏教徒です。その方々を愛することは簡単なことです。自分の親類、友人、知人など全ての人々を大切に思えば良いのです。全ての人々を尊敬すれば良いのです。

隣人が厭がることをしないことが原則です。もし神社や仏像の前でソッポを向いていたら、それを見た隣人は厭な気分になります。傷つくでしょう。

私はイエス様の教えを信仰の対象としています。しかしお釈迦様を尊敬しています。偉大な哲学者として尊敬しています。インドへ仏典を求めて17年も滞在した唐の玄奘三蔵法師を尊敬しています。同行二人の弘法大師も大好きです。

上の写真にある樹木のようにおおらかな気持ちになると「汝の隣人を愛せ」という意味が広がります。その言葉が人生をより豊かにします。

日本にはキリスト教のいろいろな宗派が運営している学校が沢山あります。

日本へキリスト教をはじめて伝えたザビエルの創ったイエズス会の大学は上智大学です。英国の聖公会の大学は立教大学です。プロテスタントの大学に青山学院、東京女子大などがあります。

しかしそれらの学校の卒業生の極く少数しか洗礼を受けていません。

洗礼を受けると親類付き合いが出来なくなる。先祖の墓参りも出来なくなる。会社に就職するといろいろな目に見えないいじわるや迫害を受けて出世出来ない。

こんな雰囲気が少しでもあれば、無理してまで洗礼を受けないのは当たり前ではないでしょうか?

しかしこのような考え方は根本的に間違っています。親類付き合いをしないのはあなたの心が狭いからなのです。出世出来ないのは会社の求めている才能をあなたが持っていないからなのです。誰もいじわるや迫害をしていないのに、それを受けていると考えるのはあなたの考え方が排他的だからなのです。

そのような人々は真のキリスト教徒でしょうか?「迫害」は自分の心が作る場合が多いものです。

キリスト教の宗派には排他的で、他の宗教へ対して非常に攻撃的な宗派もあります。一時有名だったオウム教ほど犯罪的ではありませんが世の顰蹙を買うような宗派が存在するのも事実です。

それと普通のキリスト教を一緒にしないで、自分の心で感じ、考えて見れはもっと広い心で楽しく人生を過ごせます。

今日はクリスマスの前夜です。キリスト教徒も、仏教徒も神道の人も、そして無宗教の人々も心を豊かにしてクリスマスの夕食やケーキを楽しみましょう。

私はそのようになるようにと祈っています。

今日は特に、この世に対立より融和を、争いより愛が広まり、一層平和で楽しいクリスマスになるようにお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)