後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

小金井、三光院の紅葉と精進料理

2011年12月02日 | 写真

小金井市に三光院という尼寺があります。

精進料理が有名です。先日、境内の紅葉の写真を撮りましたのでお送り致します。

なお精進料理については、「小金井、三光院」で検索すると美しいホーム・ページが出てきます。

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原子力研究者、技術者への国民的信頼の喪失と、信頼の復旧

2011年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

Boilingwaterreactor1

上の図は沸騰水型軽水型の原発の見取り図です。炉心で核反応によって発生した熱が高温高圧の水蒸気をつくり、それが発電機を回転させ電気を作ります。図面の動いている部分が水蒸気の循環と水蒸気を冷やす水の循環を示しています。

この原発が水素爆発したのです。

ところで、私の親しい友人に、もと日本原子力研究所の東海研究所の副所長をしていた近藤達男さんという方がいます。

原発事故発生直後の4月にこのブログに実名で見解を発表して下さいました。

原発推進者の深慮と責任感(4)「素人の目線」は失敗する」 と題する記事です。

その趣旨は原発関係者にもいろいろ分野が別れていてその全員に事故の責任があるわけでは無い。技術や日本の安全保障などの奥深い問題を浅薄な素人考えで議論しても意味が無いというような意見でした。

私はその素人軽視、専門家重視の姿勢に反対でしたが、何度も書くようにこのブログには対立する意見も掲載する編集方針なのです。寄稿に感謝しながら掲載致しました。

その彼から最近、もと日本原子力研究所に勤めていていて所長や理事長になって停年を迎えた偉い方々数人のパネル討論会の発言要旨集が送られてきました。

その発言要旨集はそれぞれの深い思索が簡潔に纏めてあり、優れた文書になっています。ある雑誌の原稿なので、ここに転載は出来ませんのが、その内容の一端を紹介しながら私の感想を書いてみたいと思います。

まず原発事故から8ケ月が経過してこれら原子力関係の研究者が冷静に考えるようになったと大変嬉しく思いました。

原子力に関する基礎研究をしてきた科学者達ですから今回の原発事故の責任が直接的にはありません。しかし全員の発言要旨を読むとその行間に自分の責任を真摯に考えている様子が伺えて好感がもてます。

国民全体からみると基礎研究者も東京電力の現場技術者もみな同じ責任があると誤解するのは当然です。その誤解を率直に受け止めて、反論していません。誤解は時の流れでいずれ正しく理解されるのです。

特に重大な討論がありました。あるパネリストが弱い放射能のある土地は除染などしない方が良い。大体、放射能の安全基準はひどく安全サイドにかたよって決めてあるので、一般に放射能の健康への影響は無い。それを神経質に考えないで現実的に対応すべきだという発言がありました。科学的に考えればそれも一つの正しい姿勢です。私自身も以前は同じような意見をこのブログでも書きました。

ところがパネリストの発言の後に続いた会場との質疑応答のあとで原研側の司会者が素人も納得するようなまとめ方をしました。

科学の問題と国民の恐怖心は別問題です。しかし科学者も国民の恐怖心を解きほごすような根気の良い努力が一番重要なのです。科学だけでは問題の解決にはなりません。という趣旨の結論を言って討論を終えました。そうです。社会心理上の問題に背を向けず真摯に考えてみようという姿勢に変わったのです。

このような態度こそ失った信頼をもう一度取り戻す鍵なのです。

その上、喜ばしいことにこれらの原子力研究者の中から地方自治体の議員選挙へ立候補者を擁立し、その後援の担当者に近藤達男さんがなると決心したそうです。近藤さんのような専門家は素人さんから学ぶ事が沢山あるでしょう。素人さん達は近藤さん達専門家から学ぶことが沢山あるでしょう。

そして原子力研究者や技術者の視野が広がり、より優秀な若者も原子力の道に入って貰いたいと期待しています。なにせ日本には50基の原発装置が今後、20年、30年と存続するのですから、その安全を守る優秀な技術者が必要なのです。

原発事故を忘れようとするのではなく、全てを建設的に考えて災いを転じて福となす根気良い努力が絶対に必要なのです。今回、近藤さんから送られてきたパネル討論会の資料はその方向の大変健全で、建設的な内容でした。(終り)


渡辺修治著「どんがめ物語」の内容(1)造船技術者としての幅広い活動

2011年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、ヨットの専門雑誌の「舵」で渡辺修治著の「どんがめ物語」を読んで感動した記憶がありました。この10月にヨットを止めてしまったので急に暇が出来たので再度、ゆっくり読みなおそうと思い単行本「どんがめ物語」を中古本市場で買い、昨日手にすることが出来ました。

渡辺修治著「どんがめ物語」ー潜水艦とヨットーという本は1984年に舵社から出版された本で、現在では絶版になっています。入手が難しい本なので現在の若い方々へ内容の一部でも伝承したいと思い、連載でご紹介して行きたいと思います。

戦争に負けたので現在の若い人は日本の軍備が技術的にひどく遅れていたと理解しています。しかしこの本は日本人の戦艦や潜水艦の造船技術が欧米と同じレベルであったことが克明に書いてあります。

呉海軍工廠という広大な工場群に優秀な技術者(技術将校)が集められ、日本の帝国海軍の戦艦、潜水艦、駆逐艦なの全ての軍備がそこで製造されていたのです。

技術将校はいろいろな専門分野を担当します。造船、エンジン、飛行機、砲こう、水雷、製鋼、火薬、燃料などと担当専門が分化していたのです。

著者の渡辺修治さんは昭和17年(1942年)に東京大学の工学部造船学科を卒業し、技術中尉として呉海軍工廠に着任し、潜水艦、伊号第184潜水艦の造船を担当します。その潜水艦は昭和18年10月に完成し、実戦配備されたのです。しかし惜しくも翌年、アメリカ海軍によって沈められます。

話はいきなり飛びますが、私の恩師の東京大学の松下幸雄教授は渡辺さんと同じ昭和17年に冶金学科を卒業し、呉海軍工廠に技術中尉として着任し、終戦までの3年間、製鋼工場を担当し色々な軍艦の装甲板や大砲を作っていました。

小生は東北大学の出身なのに、東大に招んでくれて大変温かく指導してくれ、その後の就職口まで探してくれたのです。偶然、オハイオ州立大学の見学をご案内しただけの絆でした。

その松下先生から呉の海軍工廠の壮大さと技術レベルの高さをいろいろ聞いていました。渡辺修治さんと同期の着任なので松下先生とはお会いになっている筈です。渡辺修治さんが急に身近に感じられるようになりました。

話は本のことからそれ申し訳ありません。この本の構成をご説明します。

この本は3種類の内容に分けることが出来ます。(1)呉海軍工廠での潜水艦作りの部分、(2)シンガポールに着任してた時終戦になり、イギリス軍の捕虜になって居た間の経験談、(3)戦後、民間の船や外洋大型ヨットを設計し、自分も外洋レースに出ていたときの話。この3つの部分です。

この3つの部分は非常に違った話題ですが底の部分で繫がっていて、どれか一つを省略すると渡辺修治さんの全体像が見えなくなります。

3つの部分すべてに共通していることは記述のしかたが論理的にキチンとしているので非常に理解しやすくなっていることです。読みやすい本です。その上技術的な説明を省略していないので技術史的な価値のある本になっています。

そして技術者としての渡辺修治さんがとても独創性を大切にしていたことが随所に書いてあるのです。

潜水艦はあらゆる船の中で一番製造が難しい船です。瞬時に水中に潜り、水中では常に水平な姿勢を保っていなければ魚雷も発射出来ません。魚雷を発射すれば船首が軽くなって船体が斜めになります。すぐに姿勢を水平に直すため潜水艦の横腹や船首や船尾に装着したタンク内の水を移動させなければなりません。

潜水艦にはいろいろな弱点があるのです。

その弱点を知り尽くした渡辺修治さんだからこそ、荒れる外洋レースでも高速帆走の出来るヨットを設計できたのです。このように3つの部分はその根本部分で繫がっているのです。

それでは次回からゆっくりとこの本の内容をご紹介して行きたいと思います。下にこの本の表紙の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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