後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「修道院の内部をご紹介します」

2024年06月01日 | 日記・エッセイ・コラム

キリスト教の修道院は日本に沢山あります。しかし社会からかなり孤立した場所なので、その内部はあまり公には知られていません。
そこで今日はその訪問記をお送りします。そしてイエズス会のことや、その修道院の内部をご紹介したいと思います。

1番目の写真はイエズス会石神井修道院の若い修練者が小金井教会で聖なるパンを信者に与えている場面です。
この修道士は以前、日曜のミサのお手伝いに小金井教会へ来てくれていました。この方のご縁で修道院を訪問することになったのです。
それは2010年の7月のことでした。イエズス会石神井修道院を訪ねたのです。
お会いして下さった方はイエズス会士の塩谷恵策神父様でした。博識な方です。修道院の歴史を明快にご説明して下さいました。何も知らない小生へ分かり易くお話して下さったのです。
昔から東洋文庫から出版されていた本を数冊読んで、中国や日本でのイエズス会の会員の活躍は知っていました。しかしイエズス会士にお会いするのは初めてでした。
イエズス会士に会えるだけで嬉しかったのですが、お話の内容も感動的でした。
その話によるとイエズス会は1534年にイグナチオ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルなど7人のパリ大学の同窓生がモンマルトルの丘の上で、終生自分たちを神へ捧げる修道会を結成したのです。
私が考えるには、それは当時、マルチン・ルッターなどが始めた宗教改革の動きに刺激されカトリック宗派の刷新運動の一つとも考えられます。
その後、イエズス会はローマ教皇にも認められ、大きな修道会へと発展していったのです。
現在、イエズス会は世界中の112ケ国で2万人の会員が活動しています。
カトリックではローマ教皇が認可した男子修道や女子修道会が数多くあり、日本人が創設し、ローマ教皇に認可されたものも多数あります。
しかし2万人の会員を擁するイエズス会は現在カトリックでは最大の修道会です。
このイエズス会は全世界への宣教も活発で、1540年ころからインドへの宣教をはじめ、清国、李朝朝鮮、そして日本へも数多くのイエズス会員を送ったのです。

そして1549年には、イエズス会のザビエルが日本に来てカトリックを伝えたのです。
その他、清朝ではマッテオ・リッチ師のように清朝の高位高官になり中国に溶け込んだ人もいたのです。
日本では明治維新後、イエズス会は再び活動を再開し、上智大学や栄光学院などの高校を数々創設し、運営にあたっています。栄光学院の名前は、イグナチオの座右の銘「神のより大いなる栄光のために」にもとずいているのです。
広い意味ではイエズス会はヨーロッパ文化をアジアへ伝える役割を果たしたのです。
イエズス会の歴史、その使命などは検索するといろいろ出ています。末尾に参考資料として、その一部を添付しました。

下に私が石神井修道院を訪問した時に撮った4枚の写真をお送りいたします。

2番目の写真は石神井修道院の正面玄関です。

3番目の写真は船越保武氏作の和風姿のマリア様です。船越保武氏は長崎の公園にある26聖人像を造った芸術家です。
その26聖人像に対して、1962年に高村光太郎賞が与えられています。船越さんは敬虔なカトリック信者で東京芸大の教授も務めました。尚、その息子さん桂氏も彫刻家として活躍しました。

4番目の写真は石神井修道院の主聖堂です。

5番目の写真は塩谷恵策神父様のお写真です。
修道院の内部は何処へ入って行っても自由で開放的でした。
そこで若い修道士たちは規則通りの時間割りに従ってミサや教室での勉強や労働を行っているそうです。
訪問した日は修道士が外部の奉仕活動をする時間帯だったので誰もいませんでした。
そして塩谷恵策神父様によると修道院は社会から孤立すべきではなく奉仕活動が非常に重要なそうです。
修道院は原則として自給自足だそうです。そして修道士は一生独身をとうします。
かなり近づきがたい場所ですが、その内部はあらかじめ見学を申し込めば受け入れるそうです。
そういえば函館のトラピスト男子修道院もハガキで申し込めば男性に限って受け入れてくれます。
それでは修道院は何故必要なのでしょうか?
簡単に言ってしまえば本当に純粋な信仰を守るにはこの俗世間から離れ、独身を通す必要があるからです。俗世間から離れるためにも自給自足が必要なのです。
もう一つの重要なことは修道院の存在そのものが一般のカトリック信者へ勇気を与え、信仰を強めてくれる役割を担っているのです。
キリスト教の宗派で修道院を持っているのは旧教といわれるカトリックやロシア正教などやイギリスの聖公会だけです。
その詳細は「修道院」を検索するといろいろな情報が出ていますので、ここでは割愛いたします。
今日は簡単にイエズス会石神井修道院をご紹介いたしました。

それはそれとして、
今日も皆様ごの健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料===============
イエズス会とは?

イエズス会は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれた。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。現代では六大陸の112カ国で活動する2万人の会員がいる。これはカトリック教会の男子修道会としては最大のものである。イエズス会員の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっている。

イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「道の聖母 」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長はアドルフォ・ニコラス師である。会の総本部はローマにあり、かつて本部がおかれていたジェズ教会は歴史的建築物となっている。中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶冀であることから耶冀会(やそかい)とも呼ばれた。

イエズス会の創設
1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志(スペイン出身のフランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、ポルトガル出身のシモン・ロドリゲス、サヴォイア出身のピエール・ファーヴル)がパリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ聖堂(現在のサクレ・クール聖堂の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)に集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。この日がイエズス会の創立日とされている。彼らは清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てた。

1537年、一行はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとした。当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めた。ファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の6名が1537年6月24日にヴェネツィアで叙階を受けた。オスマン帝国と神聖ローマ帝国のカール5世の間で行われていた争いのために地中海を渡ってエルサレムに赴くことができなかったため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。

1538年の10月イグナチオはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可を願った。審査した枢機卿会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため、教皇パウルス3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス』でイエズス会に正式な認可を与えた。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにということであった。この制限も1543年5月14日の回勅『インユンクトゥム・ノビス』 で取り払われた。イグナチオは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣した。

会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した。

イグナチオが1554年に改定した会憲では、イエズス会が総長をトップとする組織であることが明記され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めた(イグナチオは「死人のごとき従順」 という言葉を用いている)。彼の座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。それは「神のより大いなる栄光のために」 である。これは「どんな活動でもよい意志をもって精力的におこなえばかならず神の国のためになる」という精神を表している。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。