後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

異国の香り漂う横浜メリケン波止場、大桟橋の風景

2020年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、2月26日は「今日は日本の悲劇、2・26事件の日」という暗い話を書いたので気分が憂鬱です。そこで今日は気分が晴れ晴れするような記事にしたいと思います。
そこで異国文化の香り漂う横浜のメリケン波止場の風景をご紹介したいと思います。広々した港の風景です。

横浜港の客船が接岸できる桟橋を昔はメリケン波止場や鉄桟橋と言いました。そして現在は大桟橋と呼ばれています。
この客船が接岸できる鉄桟橋は明治22年、1889年に建設が始まりました。そして明治27年、1894年には現在の大桟橋の前身の「鉄桟橋」が完成します。その後、拡張工事が行われ1913年には幅43m、長さ738mの桟橋が完成します。
それ以来、横浜港は外国航路の拠点になり、日本郵船や大阪商船などの表玄関になります。そして外国の海運会社も欧州航路とアメリカ航路の定期便を運航していたのです。この期間が横浜港の一番はなやかな時代だったのです。

1番目の写真は昔の戦前のメリケン波止場です。
このメリケン波止場からは写真のように日本郵船の氷川丸などが北米などへ出航していたのです。
当時は外国に行く人をこのように盛大に見送ったのです。ひょっとするともう二度と会えないと考えている人も多かったのです。
氷川丸も旅客機の普及で1960年に就航を止め、現在は山下公園の港に係留され公開されています。
1960以後は旅客機の時代になり大桟橋は淋しい所になります。特に貨物船はコンテナ船になり大黒ふ頭のようなところへ去ってしまったのです。
ところが1990年代になると豪華客船が流行になり、メリケン波止場が大桟橋と呼ばれ、再び脚光を浴びるようになったのです。
そこで横浜市は斬新な桟橋の設計を公募することにして、世界中へ呼びかけました。それは2002年のことでした。
その公募には660件の応募があり、その中から最優秀作品としてイラン生まれのファッシド・ムサヴィさんという女性とスペイン生まれのアロハンドロ・ザエラ・ポロさんという男性の2人の合作による設計が優勝したのです。
彼等の履歴は、http://www.osanbashi.com/outline/designer.html あります。
彼等の設計図にしたがって建設されたのが現在の大桟橋です。
その桟橋は実に独創的な構造になっていて全て木造なのです。散歩していると自然に屋上に上がって行きます。そして青い海が見え、その向こうに横浜の美しい街々が見渡せるのです。
客船の岸壁という機能と市民の憩いの海上公園としての機能をあわせ持った楽しい場所です。
一階は広大な駐車場になっているので私も何度も散策に行きました。

2番目の写真が大桟橋の遠景です。(写真の出典は、http://shige-f.blog.so-net.ne.jp/2009-09-23です。)

3番目の写真は桟橋に客船が係留されている風景です。左の白い客船は横浜港一周の大きい観光船です。

4番目の写真は大桟橋が徹底的に木造になっていています。屋上部分に草が植えてある公園になっている様子を示しています

5番目の写真はこの桟橋の屋上から見た横浜の街の風景です。1と2番目の写真以外は私が撮った写真です。

このように昔の鉄桟橋は外国航路の貨客船における日本の主要拠点となり、当時の日本郵船、東洋汽船、大阪商船など日本海運業界の表玄関の一つとして利用され、外国海運業界の外国定期航路の拠点として活躍しました。
欧州航路では英国P&O、北ドイツ・ロイド、フランス郵船、北米航路では米国太平洋郵船、カナダ太平洋汽船、アメリカンプレジデントライン等が定期航路をしくようになったのです。
その上、鉄桟橋は外国籍船と日本郵船のシアトル航路が発着するようになります。
太平洋戦争後もシアトル航路に復帰した日本郵船の氷川丸が発着を続けたのです。
太平洋戦争終結により大桟橋は連合国に接収され、サウスピアと改称されます。
降伏調印の為に米国戦艦ミズーリ号に向かった重光外相も大桟橋から小型船に乗船しています。
連合国も当初GHQを置いたのも大桟橋に程近いホテルニューグランドであり、大桟橋が時代の節目で日本の歴史に深くかかわっていたのです。
大桟橋は1952年2月15日に接収解除となり、北米定期航路にはアメリカン・プレジデント・ラインの「プレジデント・ウィルソン」や「プレジデント・クリーブランド」、欧州航路にはP&Oの「チューサン」やオリエントラインの「オロンセイ」などが就航し、日本郵船の氷川丸がシアトル航路に復活するなどして賑わいます。
また移民船として「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」等が就航し、1960年代初頭までの第二の南米移民ブームを支えたのです。
またのちに、ナホトカ定期航路も開設され、その低価格による欧州渡航が人気を博した時代もありました。
この頃の氷川丸でフルブライト留学生として渡米した人々も少なくなく、また宝塚歌劇団の渡米にも利用されたそうです。

この大桟橋は1990年頃から又非常に賑やかな場所になります。その頃から日本の豪華客船のふじ丸やパシフィック・ビーナス、
日本丸、飛鳥2世号などが頻繁に接岸するようになったのです。その上、アメリカやヨーロッパの大型豪華客船も発着するようになり大桟橋は急に華やかな場所になったのです。日本人にも豪華客船に乗ってディナーやショウを楽しむ豊かさが定着して来たのです。
戦前、戦後の悲しい移民船や船内施設の貧弱な客船の頃と比較すると深い感慨を覚えます。
横浜の大桟橋は日本の歴史を背負っているのです。
なお余談ながらコロナ・ウイリスで大騒ぎになったダイヤモンド・プリンセス号は大桟橋ではなく大黒埠頭に接岸していました。船の高さが高すぎて横浜ベイブリッジがくぐれないのです。今後大型客船は大桟橋ではなく大黒埠頭に接岸するようになります。残念です。

現在、この大桟橋は入場無料の公園になっています。係留されている船に乗り込むのは禁止ですが、その他は自由に散歩できます。レストランもあります。
一階の広大な駐車場は有料です。とにかく素晴らしい場所なので一度お出かけになって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和(藤山杜人)

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