現在のベトナム、カンボジア、ラオス地域には大きな戦争が2度ありました。1946年から1954年のベトナムとフランスの間のベトナム独立戦争と1964年から1973年の主にアメリカ軍と戦ったベトナム戦争です。
この2つの戦争でベトナムはインドシナ半島からフランスとアメリカを完全に駆逐したのです。
今日はベトナム独立戦争におけるホーチミンとベトナム独立軍と共にフランスと戦った残留日本兵にまつわる話を書きたいと思います。
ベトナムは戦後、終始一貫して日本を尊敬し友好的な国だったのです。現在も熱烈な友好国のベトナムには数多くの日本企業が展開しています。
この友好の原因は戦後、ベトナム独立のためのフランス軍との戦争のときに多くの残留日本兵がベトナム軍に義勇兵とした参加したからです。ベトナム独立運動はホーチミンが主導しました。そしてグエンザップ将軍が率いるベトナム軍がディエンビンフーでの戦いで勝利し、フランス軍が降伏したのです。ベトナム人は日本の義勇兵のことを忘れませんでした。
1945年の終戦時にインドシナに進駐、駐留していた日本軍の総数は約9万でした。その内の800名がベトナム独立軍に参加しました。最終的に仏軍との本格的な戦闘突入後は600名がベトナム全土で戦っていると思われます。そのうえ日本軍の航空機や戦車をはじめとした兵器がベトナム独立軍に渡ったのです。
私は1990年代のはじめにフランス軍と戦った残留日本兵の2人に直接会い、話を聞いたことがあります。そしてベトナムに残留して銀行制度を作ったもう一人の日本人の話も直接聞きました。その方はもと横浜銀行に勤めていて北ベトナムの銀行制度を作ったそうです。
以下は前者の2人の残留日本兵から聞いた話です。
◎ 温顔の将校ホーチミン
フランス軍との戦いです。作戦の最中、川を渡ることがしばしばあったそうです。川岸に来ると兵隊は下半身裸になり、服を着た将校を背負って渡る。軍隊では当たり前の習慣です。残留日本人は皆将校になっていたので、服を着たまま兵の肩に載って渡りました。
ところが、ふと前を見ると、将校服の老人がズボンをたくし上げて歩いて渡って行くのです。向こう岸にたどり着き、渡河した老将校の顔を見ると、それは温顔のホーチミンだったのです。兵隊へ「ご苦労さん」と言っているようにニコニコ顔で振り返っていたそうです。こんな場合、日本軍出の将校は無言で兵から飛び降りましたが、ベトナム人将校は「有難う」と言って兵に感謝するそうです。ホーチミンは将校たちへ「歩いて渡れ」と命令しません。自分は自分の考えで行動し他人へは絶対に命令しなかったそうですす。しかしホーチミンの行動は数日でベトナム全軍に広がって伝わったのです。ベトナム兵の士気が上がるのは当然です。元日本兵はホーチミンの部下として戦った6年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言ったのです。
@日本兵帰還の特別列車
1951年になり、朝鮮戦争が始まります。ホーチミンは郷愁の念にかられる残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返したそうです。
話を聞いたF氏とY氏になぜ残留したのですかと聞きました。
「ホーチミン軍に加われば、食料に困らないと聞いたからですよ。共産主義が正しいとか大東亜共栄圏が良いとか考えませんでした。食べ物の誘惑でしょうね」
もう一人の元横浜銀行の幹部社員だったH氏もホーチミンを尊敬していました。
ホーチミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作ったそうです。
H氏は「ホーチミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まり、その結果、一般人民が被害を受けることを憎んでいた。彼は一般民衆の幸福を第一に考え、アメリカ、ソ連、中国からの完全な独立を確信していた」と語ったのです。
@ホーチミン記念館
私が1990年頃に訪問したハノイでガイドをしてくれたベトナム人はいいかげんな若者で、ホテルに迎えに来る時間は遅刻ばかり。道案内もでたらめで、とにかくやる気がない若者でした。
こんなガイドにはほかの国でも会ったことがない。
そんな若者に、「君、ベトナム人が一番尊敬しているホーチミンの記念館に、あす案内してくれないかね?」と頼んでみました。すると翌朝いつもは汗臭いシャツ姿の彼が背広姿をビシッと決めて、ホテルのロビーで朝早くから待っていたのです。ホーチミン記念館へ私を案内するのがそんなにうれしいのか、喜びに絶えないといった様子で、私を引っ張るように連れて行くのです。締め慣れないネクタイを何度も直しながら道を急ぐのです。
記念館には、ホーチミンの写真やディエンビンフーでフランス軍を敗ったグエンザップ将軍の写真などが、生前に使っていた家具や文房具類とともに展示してあります。
1番目の写真はハノイにあるホーチミン廟です。
記念館を出る時、たくさんの横長の旗が暑い風にハタハタとなびいているのに気付きました。
そしてその旗に文章が書いてあるのです。「なんて書いてあるの?」。いいかげんな案内人は目を潤ませて、「ホーチミンはベトナム人の胸に生きている。いつまでも生きている」と説明してくれました。この叙情的な文章は本当にベトナム人の本音です。美しい文章です。
それからいろいろな事がありました。
10年間にわたるベトナム戦争があり改革開放政策がありました、ドイモイ政策に協力して数多くの日本の企業がベトナムに投資し、また多くの工場も作りまました。ベトナムは復興したのです。
◎ホンダバイクの奔流―サイゴン
1994年、サイゴン、夏の夜のことでした。私の目前の大きな通りいっぱいに、ホンダの50ccバイクが爆音をとどろかせ、後ろに三、四人乗せて大河の奔流のように流れて行くのです。ほかに楽しみのないベトナム人家族の夜の娯楽です。1976年、米軍がサイゴンを放棄し、ヘリコプターで最後の脱出をしてから18年。
平和って素晴らしい。フランス、アメリカとの三十年に及ぶ戦争に勝ったベトナム。しかし血の代償は大きかったのです。ハノイ市郊外の山並みを低空で飛ぶ米空軍の戦闘機を打ち落とした、元ベトナム兵の話を思い出していました。
2番目の写真は現在のサイゴンの街路を走るバイクの群れです。私が見た1994年にはバイクも服装も貧し気でした。こんなに色彩豊かでなく灰色でした。ベトナムも高度成長したのです。
そして2017年03月に平成天皇と美智子皇后がベトナムを訪問なさいました。
天皇と皇后は日本の義勇兵の奥さんだった女性とその子供達と直接お会いし、「いろいろご苦労なさったことでしょう」とねぎらったのです。勿論、その会見を準備したのはベトナム政府です。
最後にベトナムの風景写真を2枚お送り致します。今日の写真は全てインターンットからお借りしました。
最後にベトナムの風景写真を2枚お送り致します。今日の写真は全てインターンットからお借りしました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤<山杜人)