後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ユダヤ教徒のイエスが死んで、生き返ったのでキリスト教が出来た

2018年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
何故キリスト教がヨーロッパやロシアやアメリカで広く信じられているかご存知でしょうか?
何故、ユダヤ教からキリスト教が生れたかご存知でしょうか?
ユダヤ教とキリスト教の違いをご存知でしょうか?
これらの問いの回答はたった一つです。
十字架にかけられて死んで、墓に葬られたナザレの大工の息子、イエスが又生き返って墓から出て来たからです。
この生き返って歩いて来たことを「復活」と言います。
ユダヤ教とキリスト教の違いは、その教えの中に「復活」が有るか無いかです。
世界の諸国でキリスト教が信じられているのは、その教えが国籍に関係無く全ての人々を幸せにしているからです。
キリスト教は「愛の宗教」だからです。人々は皆愛されることで幸せになるからです。しかし愛だけでなく、キリスト教では「復活」が非常に重要なのです。

世界にいろいろな宗教がありますが「復活」という考え方を教えている宗教はほとんど有りません。
そこで今日はこの復活ということを分かり易く説明したいと思います。

イエスは従来のユダヤ教の保守的な律法主義に反対して神と人間の間の愛の重要性を主張しました。ユダヤ人の多くがイエスの新しい教えに魅かれ、イエスは大群衆に囲まれ、従う人が非常に増えたのです。イエスの評判はユダヤ全土に広がります。
律法を重んじるユダヤ教徒の保守派は嫉妬し、イエスを裁判にかけて殺そうとします。
当時のユダヤの地はローマに占領されていて、ポンティオ・ピラトというローマから派遣された総督が治めていました。
保守派はイエスをピラト総督に訴え、死刑判決にしてもらおうとしました。
ピラト総督にとっては迷惑な訴訟です。しかしユダヤの地が騒乱になると自分の地位が危なくなります。いやいやながらイエスに死刑判決を下したのです。
そして十字架にかけて死刑を執行します。それはある金曜日の出来事でした。十字架から降ろされたイエスは麻布に巻かれ洞窟の墓に葬られました。しかし3日目の日曜日の朝、弟子が墓に行ってみるとイエスの遺骸がありません。解かれた麻布だけが残っていたのです。
その後、イエスは弟子達の前に現れ、以前から弟子に言っていた肉体の復活を現実に見せたのです。
そしてその後、天に上がって神の右の座についたのです。
この世界の終末の時、イエスは再び地上に来て、全ての死者を生き返らせ、復活させるのです。永遠の命を頂くのです。
このような復活の考え方がキリスト教の一番重要な部分です。
ですからこのイエスの生き返りを祝う復活祭こそキリスト教では一番重要な祭日なのです。
死んだ人間が生き返り永遠の命を頂くことは国籍に関係無く全ての人間の願いです。希望です。
この教えはユダヤ教にはありません。イエスの死後しばらく経って「新約聖書」が書かれ、キリスト教が出来上がったのです。

今日の記事の表題の「ユダヤ教徒のイエスが死んで、生き返ったのでキリスト教が出来た」という意味は以上の通りです。

さてキリスト教徒は全てイエスの肉体の復活を信じています。死んだ人間が生き返り永遠の命を頂くことを信じています。
貴方はキリスト教徒に質問してみてください。「イエスの肉体の復活を信じていますか?」と。
答は人さなざまです。
「勿論です!」という人もいます。「時々疑いますが、信じています」と答える人もいます。そして「科学的にはありえないので、それは教えが永遠だという象徴的な表現なのです」と言う人もいるでしょう。また「奇跡物語や復活の部分は信じませんが、その他を信じて洗礼を受けました」という人もいます。
答はいろいろありますが、その答えを批判したり議論してはいけません。批判したり議論しては失礼になります。ああ、そうですかとだけ言うべきです。どんな答えでも神が間違いなく全ての人を愛していますから心配しないで下さい。
私だったら、「時々疑いますが、信じています」と答えます。

しかし復活とは不思議な考え方です。仏教や儒教や道教にはありません。日本人にキリスト教があまり受け入れられない理由はこの復活の考え方にあるのでしょうか。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日の四旬節第四の主日のミサの2枚とカトリック墓地の3枚です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は葡萄酒を神父が捧げて祈っている場面です。イエスは最後の晩餐のとき、この葡萄酒を私の血として飲みなさいと弟子たちに言った葡萄酒です。現在の普通の葡萄酒がイエスの血に聖変化するように祈っている場面です。

2番目の写真はイエスの肉体としてのパン片を神父が信者の一人一人へ「キリストの体」と言いながら手渡している場面です。
カトリックのミサでは、毎回このように最後の晩餐を再現しているのです。

3番目の写真はカトリック小金井教会の初代主任司祭だったヨゼフ・ムーニー神父の墓です。1974年から1988年に亡くなるまで初代主任司祭として大変お世話になった恩人です。アメリカ人でした。昨日、花を持って墓参りに行きましたところ既に沢山の花が供えられていました。

4番目の写真は1971年に私共に洗礼を授けてくださった塚本金明神父の墓です。当時、塚本金明神父はカトリック立川教会の主任司祭でした。心の温かい方でした。

5番目の写真は東京大司教区に属した神父さん達の共同墓です。塚本金明神父もここに眠っています。
ヨゼフ・ムーニー神父はあるアメリカの宣教会に属していたので、墓は東京大司教区の神父さん達の共同墓とは別になっています。
この墓地には彼岸のたびに家内と共に来てお世話になった神父さん達へ感謝しています。

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