後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「戦争の記憶(2)アッツ島守備隊の玉砕の悲劇」

2024年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム
少年の頃に太平洋戦争が始まりました。その頃に次のように歌ってました。
『さらばラバウルよ ー又来るまではー しばしわかれの 涙がにじむ.・・・』
あの頃のことを思い出しながら日本の運命を大きく変えた太平洋戦争について書きます。
1941年12月8日の真珠湾攻撃と南アジアへの軍事侵略で日本軍は優勢に戦いを進め勝利しました。アジアはインドネシアから西のビルマまで占領してしまったのです。
アメリカ領のフィリッピンを防衛していたマッカーサー司令官は、「I shall return」と言ってオーストラリアへ退却しました。
しかし日本軍の優勢は1942年の6月の「ミッドウェー海戦」まででした。
1942年の4月、日本海軍はアメリカの海軍機動部隊を制圧するため機動部隊主力を投入しミッドウェー島攻略を決定します。その一方、直後のドーリットル空襲に日本人は衝撃を受けたのです。
6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は主力正規空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻と重巡洋艦「三隈」を喪失する大損害を受けました。
艦船の被害だけではなく多くの艦載機および搭乗員を失ったこの戦闘は太平洋戦争のターニングポイントとなりました。
このミッドウェー海戦以後日本軍は坂を下るように玉砕に玉砕が続き次々に占領地を失ってしまったのです。失ったのは占領地だけでなく熟練した多くの兵士と軍備を全て失ったのです。
以下は玉砕の一覧です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%A0%95 )

1943年(昭和18年)5月29日:アッツ島守備隊玉砕
1944年(昭和19年)
2月5日:マーシャル諸島のクェゼリン環礁守備隊総員壮烈なる戦死
2月23日:マーシャル諸島のブラウン環礁守備隊総員壮烈なる戦死
7月3日:ビアク島守備隊総員壮烈なる戦死
7月7日:サイパン島守備隊総員壮烈なる戦死
8月3日:テニアン島守備隊総員壮烈なる戦死
8月11日:グアム島守備隊総員壮烈なる戦死
9月19日:アンガウル島守備隊総員壮烈なる戦死
11月24日:ペリリュー島守備隊総員壮烈なる戦死
1945年3月17日には硫黄島にあった日本軍守備隊が玉砕。これにより米軍は、太平洋地区にあった全軍の戦力を沖縄攻略に向けて結集することになりました。
太平洋戦争の後半は日本軍の負け戦の連続でした。それに関連していろいろな重要な事件が起きました。それらについてはいずれ別記事で書きたいと思います。

今日は太平洋戦争の始まりのアッツ島守備隊玉砕について書きます。アッツ島玉砕とアリュート族の悲劇について書きたいと思います。
1943年6月にアッツ島の玉砕があり、日本兵2,638名が戦死しました。第二次大戦の初めての玉砕だったのです。
日本軍の1942年6月の占領から玉砕に至る経緯は、「https://ja.wikipedia.org/wiki/アッツ島の戦い 」に詳しく掲載されています。
その一方、アッツ島の原住民、アリュート族を襲った悲劇はあまり知られていません。アッツ島のアリュート族40人の北海道の小樽への強制連行とその後の24人の死の悲劇が起きました。
もともとアリューシャン列島には少数民族のアリュート人が住んでいました。ロシア皇帝がベーリング隊をその地域の探検に派遣して以来、アリュート族はロシア人の迫害にあったのです。
ロシア人が行く以前には、25000人以上のアリュート族がアリューシャンの島々に住みついていたと言われています。それが1700年代の後半には1000人前後に減ってしまったのです。(白崎謙太郎著、「明治・海・2人」、2018年出版)
ロシアは島々にロシア正教を押し付けロシアの領土にして疫病を持ち込んだのです。それはスペインの南米征服に似た現象でした。
列島を完全にロシアの領土にした後で、1867年にロシアはアリューシャン列島とアラスカをアメリカへお金で売り渡したのです。
ですから現在はアリューシャン列島とアラスカはアメリカの領土です。
しかしアメリカ政府はアリューシャン列島とアリュート人達をほとんどかえりみなかったのです。
このアッツ島の原住民については、http://www.campus.ouj.ac.jp/~stew_hon/HTML/aryu-to01.html に詳しく報じてあります。
以下はその抜粋です。
まずは地図をご覧下さい。

1番目の写真はカムチャッカ半島からアラスカ半島に弓なりに並んだアリューシャン列島の地図です。

2番目の写真はアッツ島に初めて上陸した日本軍の守備隊です。前方は「アッツ富士」=1942年6月撮影か。日本軍は1942年6月にアッツ島を占領します。(隊長・山崎保代大佐)
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20211126002132.html

3番目の写真は夏のアッツ島の風景です。短い夏には草花も一面に咲いています。

4番目の写真は寒い時期のアリュート族の一家の写真です。衣類は全てアザラシやオットセイやラッコの皮です。

5番目の写真は夏の季節のアリュート族の一家の写真です。アザラシやオットセイやラッコの皮の衣服を脱いでいます。
アリュート族は蒙古族が1万年以上前に東進したものでカムチャッカ半島に住む少数民族に近いと言われています。

さて日本軍は列島の東側のダッチ・ハーバーを1942(昭和17)年6月の4日と5日に空爆しました。続いて日本軍は6月8日に列島の西端アッツとキスカの両島に上陸し占領したのです。キスカ島には数名の米海軍の気象観測員しかいませんでしたが、アッツ島には42名のアリュート人が住んでいました。
そして1942年の9月に日本軍は40名のアリュート人を小樽へ強制的に連行したのです。アリュート族の悲劇の始まりでした。

今日はアッツ島守備隊玉砕とアリュート族の悲劇の始まりをご紹介いたしまた。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

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