後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ヨーロッパ文化の闇(1)ユダヤ人排除と殺戮はヨーロッパの伝統文化」

2020年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は明治維新以来、キリスト教圏のヨーロッパやアメリカから政治体制や軍事体制を導入しました。近代文明の科学技術も導入し富国強兵をしました。科学技術だけでなく絵画、文学、音楽などの芸術もヨーロッパに学びました。
したがって高齢者の日本人にはヨーロッパ崇拝、アジア蔑視の傾向がどうしてもあります。そして中近東のイスラム圏の諸国は日本人の眼中に無かったのです。しかしその一方、最近の若い人にはアジア蔑視の傾向がありません。
私はヨーロッパの絵画、文学、音楽などに魅了されヨーロッパ人を尊敬しています。
しかし西洋の歴史を折りにふれて勉強して行くと輝かしい文化の陰には悲惨な暗黒の歴史もあることに気づきます。
一般に、ある民族を深く理解するためにはその民族の輝かしい文化と暗黒の歴史の両方を知る必要があります。西洋の民族も例外ではありません。そこで西洋の暗黒の歴史を考えてみました。
いろいろありますが、5つの例として以下のような問題を取り上げ、連載記事を書いて行きたいと思います。
ヨーロッパ文化の闇(1)ユダヤ人排除と殺戮はヨーロッパの伝統文化
ヨーロッパ文化の闇(2)ハプスブルグ家の異常な領土欲と近親結婚の悲劇
ヨーロッパ文化の闇(3)ドイツを荒廃させた30年戦争とドイツの思い出
ヨーロッパ文化の闇(4)ドイツ騎士団が武力で異教徒をキリスト教へ改宗させる
ヨーロッパ文化の闇(5)1000万人もの奴隷貿易と広大な植民地
このような暗黒の歴史を知ってしまっても私のヨーロッパへの尊敬の念はいさささかも変わりません。ただ深い悲しみと共に「人間とはいったい何か?」という想いを深くします。

さて連載の第一回では、「ユダヤ人排除と殺戮はヨーロッパの伝統文化」です。
私とヨーロッパとの出会いは1969年にドイツのローテンブルグに3ケ月語学研修で滞在したのが始まりでした。
その平和そのものの中世の町でヨーロッパ文化の暗い側面も知ったのです。それは「(3)ドイツを荒廃させた30年戦争」で書く内戦のことです。

ローテンブルグと近くのニュルンブルグの風景を写真で示します。

1番目の写真は中世そのままのローテンブルグの風景です。1969年の秋にこの町をさまよい歩きました。旧懐の情を抱きながら何度も歩いたものでした。

2番目の写真はロ-テンブルグの聖ヤコブ教会の祭壇です。日曜日にはよく行った教会です。

3番目の写真は世界 一有名といわれるニュルンベルクのクリスマスマーケットです。大聖堂前の広場のみならずその周りの道も埋まるほど街中に店がびっしり出ます。
さて一般論を言えば、昔のキリスト教徒はイエス・キリストを十字架にかけて殺したユダヤ人を憎んでいます。自分たちの大切なイエス様を残酷にも十字架にクギで打ち付け脇腹を槍で刺し、死ぬのを待つ方法で殺したのです。
ヨーロッパの歴史を見てみましょう。
国土を持たぬユダヤ民族はヨーロッパ全域とロシア西部に流れ、キリスト教徒の中に混じって暮らすことになったのです。
思慮の浅い一般大衆は何か騒乱が起きると、その度にユダヤ人を殺すのです。
戦争行為も人間の文化という広義の定義を用いると、ユダヤ人殺戮はヨーロッパの伝統文化の一つなのです。
しかしこのような人間の本性はヨーロッパ人に限りません。
戦争や暴動が起きると、人間の人格が破壊され手近かにいる弱小民族を殺戮するのです。日本でも大正時代の関東大震災のとき、パニックになった群衆がデマに踊らされ、多数の朝鮮人を虐殺したのです。

さてヨーロッパ人のユダヤ人殺戮の最近の例としてヒットラーによる600万人余のユダヤ人を殺したホロコーストがあります。
しかし数こそホロコーストのように多くはありませんが、ユダヤ人の殺戮は長い歴史のなかで連綿と繰り返されてきたのです。
例えば1096年にヨーロッパを出発した民衆十字軍はエルサレム奪回の途上で、次々と各地のユダヤ人を殺戮しながら遠征して行ったのです。それは第一回十字軍の遠征前のことでした。
フランスの隠者ピエールの扇動的な演説で4万人もの民衆が民衆十字軍と呼ばれる一団へ参加します。そしてエルサレムをイスラム教徒から奪い返すために出発したのです。
各地でユダヤ人を見つけると虐殺しながら、ハンガリー王国やビザンツ帝国内を占領し、小アジアに攻め入ったのです。
しかし所詮は烏合の衆です。セリジューク朝の軍隊に蹴散らされ、遠征に参加した民衆はイスラム教徒の奴隷になったり殺されてしまったのです。
彼等の唯一の戦果は各地でユダヤ人を殺戮したことだけでした。
このようなユダヤ人の殺戮はヨーロッパ各地で戦乱や飢饉が起きるたびに繰り返されてきたのです。
これは輝かしいヨーロッパ文化の「闇の半面」にある一つの伝統文化なのです。
ですからヒットラーのホロコーストはこの伝統文化の延長線上に起きた悲劇だったのです。
600万人とも言われるユダヤ人の大部分は東ヨーロッパとソ連西部地域から狩り集められたのです。
この大量殺戮は、そこに住んでいたキリスト教徒の協力があったればこそ可能だったと考えるのが自然です。
ヒットラー個人にだけ罪を負わせるのは浅薄な理解です。
一体、何故、アウシュヴィッツ強制収容所がポーランドに存在したのか?

私はその理由が理解出来ませんでした。
しかしポーランドには一番多くユダヤ人が住んでいたのです。270万人以上です。
ヒットラーがユダヤ人絶滅戦略の為には、まずポーランドのユダヤ人を殺すのが一番効率の良い方法です。
そしてソ連のドイツ占領地域やハンガリーやチェコスロヴァキアなどに多くのユダヤ人が住んでいたのです。
他の地方のユダヤ人は数も少なく、集める労力がかかり過ぎます。従って結果的に殺戮率も少なくて終りました。
それに比べて、ポーランドのユダヤ人は99%殺されたのです。
ヒットラーによって殺されたユダヤ人の出身国を以下に示します。
ポーランド、ソ連、ハンガリーがば抜けて多いことにご注目下さい。その原因はユダヤ人の人口が東ヨーロッパからウクライナ、ベラルーシ、ロシアに多かったからです。西ヨーロッパ諸国ではキリスト教徒による歴史的な迫害が続いたのでユダヤ人は東のヨーロッパ地方へ逃げて移住して行ったのです。
ヒットラーの殺戮が始まると、その地域のキリスト教徒もユダヤ人の逮捕と収容に協力したのです。

「ドイツ人に殺されたユダヤ人 の出身地」を以下に示します。
ドイツ: 165,000人 、オーストリア: 65,000 、フランスおよびベルギー: 32,000 、オランダ: 10,000以上 、ギリシャ: 60,000 、ユーゴスラヴィア: 60,000 、チェコスロヴァキア: 140,000以上、ハンガリー: 500,000 、ソ連: 2,200,000 、ポーランド: 2,700,000 人。(数字の出典:Wikipediaの「ホロコースト」の項目より)

4番目の写真は「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線です。

5番目の写真はハンガリーから到着したユダヤ人(1944)です。写真に写っている人々の顔が絶望の表情を見せています。痛々しくて正視に堪えません。この写真に説明は要りません。ホロコーストの悲惨さを見せています。

以上のようなユダヤ人の差別と迫害が輝かしいヨーロッパのかげにあるのです。ヨーロッパ文化の暗い側面です。
胸が潰れるような悲しみを感じます。

さて私はカトリック教徒です。そしてアウシュヴィッツ強制収容所のあったポーランドは カトリック国です。ですからこそ最後に一言書かざるを得ません。
もともとユダヤ人だったイエス様はユダヤ人を殺せとは絶対に言いませんでした。「汝の敵を愛せ」と言い、「汝の隣人を愛せ」と言ったのです。そして異教徒のサマリア人を大切にしたのです。
ヨーッロッパ人がユダヤ人を殺すのはイエス様の教えに反するのです。それはキリスト教へ対する反逆行為なのです。ですから私はそれを「ヨーロッパ文化の闇」の一つと言うのです。一体人間とは何でしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



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