何時の時代も人の心は有名なブランドの名前に対して憧れを感じるものです。そして有名なブランド名のついた品物を尊重し大切に使います。
今日は昭和時代に生まれ育った私の憧れたものをご紹介致したいと思います。梅雨の鬱陶しさを忘れる楽しい気軽な読み物になれば幸せです。
はじめは英国の栄光を示すようなロールス・ロイス社の自動車です。
古い日本人の憧れの車はロールス・ロイスでした。昭和天皇も長い間ロールス・ロイス車に乗り、戦後の地方巡幸でも乗って行きました。その車は現在、昭和記念公園にある昭和天皇記念館に展示してあります。
1番目の写真は昔のロールスロイスです。写真の出典は、https://pulin.hateblo.jp/entry/20101230/1293667641 です。
この乗用車は信頼性の高い高品質な高級車でした。日本が輸入した数も限られていて、昭和天皇や一部の大金持ちしか乗れなかったのです。ですから人々は一生に一度は乗ってみたいと憧れていたのです。
私自身も戦後、東京の街でたまにロールス・ロイスの走る姿を見て感激したことが数回あります。しかし一度も触ったことがありませんでした。
しかしロールス・ロイスという会社は日本の高度成長期に経営難にあえぎ、1971年にはイギリスの国営会社になりました。
そして紆余曲折のあと、1998年にはドイツのフォルクスワーゲン社に買収されてしまったのです。このニュースを新聞で読んだ時、私は大英帝国の凋落を実感し、その栄枯盛衰の激しさに悲しい思いをしたものです。
その後いろいろありましたがロールスロイス車の製造、販売権はドイツのバイエルン・モートル・ベルケ(BMW)が保持しています。
現在の日本人はロールスロイス車を忘れたように誰も話題にしません。
さて一方、ドイツのベンツも憧れの的でした。
2番目の写真は疾駆しているベンツの写真です。出典は、https://openers.jp/car/car_features/s15xl です。
1926年にベンツ社が発足しました。以降社名はダイムラー・ベンツ(1926年-1998年)、現在はダイムラー(2007年-)と変更されてきました。現在ドイツのシュトゥットガルトを拠点に、乗用車と商用車の製造、販売を「メルセデス・ベンツ」で展開しています。
私は家族連れで1969年ー1970年にシュトゥットガルトに留学したので、その間にベンツの工場見学しました。ベンツ・ミュージアムも見ました。木製の車輪からゴムのタイヤに移る過程が何段階もあるのが子供達にも分かり易く展示してありました。
現在、日本ではベンツは300万円台から販売されており、同クラスの日本車に比して高価格です。欧州ではタクシー用に使われています。
車の話をしていると長くなりますので次はご婦人方の憧れのシャネル、ルイヴィトンの話に変えます。
さてシャネル社の創業は1909年でありルイ・ヴィトン社は1854年です。どちらもパリでの店が隆盛をきわめ、フランス文化のしゃれた華麗さが魅力になっています。
3番目の写真はフランス文化のしゃれた華麗さが溢れるファッションショーの写真です。
シャネルとルイ・ヴィトンはフランス文化を背景にして商品のイメージを高め、世界中の女性の心を掴んでいるのです。
4番目の写真は香水のシャネル5番です。昭和時代は外国出張のお土産品としてよくこの香水を買って来たものです。私も妻に何度か 買って来ました。
しかし現在は香水を使う人が居ません。もう日本人はシャネル5番をすっかり忘れてたようです。
5番目の写真はルイ・ヴィトンのハンドバックです。ルイ・ヴィトンのHPからの写真です。(ULouisvuittonfashionshowcampaignlv_w )
ルイ・ヴィトンのハンドバックは現在でも世界中で売れています。ルイ・ヴィトンでは様々な大きさの旅行鞄など出しています。
それにしても販売価格が高すぎると思います。高ければ高いほど売れるそうです。購入する女性の虚栄心が少し関係しているようです。
それはさておき、美しい夢を売っている商品です。世界の経済が発展すれば、ますます隆盛する一分野と考えられます。
今日は昭和時代に生まれ育った私の憧れたものをご紹介致しました。梅雨の鬱陶しさを忘れる楽しい気軽な読み物になれば幸せです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)
===シャネルの起業、ルイヴィトンの起業などについて========
(1)ココ・シャネル(1883年 - 1971年)の活躍:
前の部分は省略します・・・・その後、歌手を目指しヴィシーでオーディションを受けるも、落選ばかりであったために芸能界への道はあきらめた。この頃交際していた将校であるエティエンヌ・バルサンに伴われてパリ郊外へ移り、友人達の社交場となった彼の牧場で過ごす。退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められ、バルサンの援助により、1909年、マルゼルブ大通り160番地で、帽子のアトリエを開業する。
1910年に、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。このときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛する人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際を始める。カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。
1913年に、ドーヴィルに二号店を開店。翌年に第一次世界大戦が開戦。1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。翌年コレクションを発表し大成功を収める。ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となる。1918年に、第一次世界大戦が終戦。・・・以下の続きは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8D%E3%83%AB にあります。
(2)ルイ・ヴィトン(1821年 - 1892年)の起業と死後の隆盛:
前の部分は省略します・・・・ルイ・ヴィトンが評価されるようになったのは、創始者であるルイが亡くなった後のことである。ヴィトン社はまず「グリ・トリアノン・キャンバス」(Gris Trianon) というトランク工場として創始された。このトランクは灰色のキャンバス地で覆われており、とても軽量なものであった。1854年、ルイはエミリー (Emilie Clemence Pariaux) と結婚、同年、世界初となる旅行用鞄の専門店をパリに創業。3年後の1857年には息子のジョルジュ (Georges Vuitton) が生まれた。
1859年、アニエール=シュル=セーヌに最初のアトリエを構える。
1860年、ヴィトン社は需要に押されて規模を拡大した。1867年、万国博覧会で銅メダルを獲得。これにより世界的な評判を得、1869年にはエジプト総督のイスマーイール・パシャが、1877年にはロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)がそれぞれ、1セットのトランクを発注した。また、当時世界的に力を持っていたスペイン国王アルフォンソ12世からもトランクの注文を受けるなど、主にスラブ、ラテン系王侯族に重用された。
トランクの上から布地を貼るというルイの技法は賢明であったが、容易にコピー商品が出回ることとなり、1872年、ルイは別の布地を使うようになった。この布地は、「Striped Canvas」として知られているベージュと赤の2色で色づけされた布地である。しかし、これもすぐにコピー商品が出回ることとなった。・・・・・
以下の続きは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%88%E3%83%B3 にあります。
今日は昭和時代に生まれ育った私の憧れたものをご紹介致したいと思います。梅雨の鬱陶しさを忘れる楽しい気軽な読み物になれば幸せです。
はじめは英国の栄光を示すようなロールス・ロイス社の自動車です。
古い日本人の憧れの車はロールス・ロイスでした。昭和天皇も長い間ロールス・ロイス車に乗り、戦後の地方巡幸でも乗って行きました。その車は現在、昭和記念公園にある昭和天皇記念館に展示してあります。
1番目の写真は昔のロールスロイスです。写真の出典は、https://pulin.hateblo.jp/entry/20101230/1293667641 です。
この乗用車は信頼性の高い高品質な高級車でした。日本が輸入した数も限られていて、昭和天皇や一部の大金持ちしか乗れなかったのです。ですから人々は一生に一度は乗ってみたいと憧れていたのです。
私自身も戦後、東京の街でたまにロールス・ロイスの走る姿を見て感激したことが数回あります。しかし一度も触ったことがありませんでした。
しかしロールス・ロイスという会社は日本の高度成長期に経営難にあえぎ、1971年にはイギリスの国営会社になりました。
そして紆余曲折のあと、1998年にはドイツのフォルクスワーゲン社に買収されてしまったのです。このニュースを新聞で読んだ時、私は大英帝国の凋落を実感し、その栄枯盛衰の激しさに悲しい思いをしたものです。
その後いろいろありましたがロールスロイス車の製造、販売権はドイツのバイエルン・モートル・ベルケ(BMW)が保持しています。
現在の日本人はロールスロイス車を忘れたように誰も話題にしません。
さて一方、ドイツのベンツも憧れの的でした。
2番目の写真は疾駆しているベンツの写真です。出典は、https://openers.jp/car/car_features/s15xl です。
1926年にベンツ社が発足しました。以降社名はダイムラー・ベンツ(1926年-1998年)、現在はダイムラー(2007年-)と変更されてきました。現在ドイツのシュトゥットガルトを拠点に、乗用車と商用車の製造、販売を「メルセデス・ベンツ」で展開しています。
私は家族連れで1969年ー1970年にシュトゥットガルトに留学したので、その間にベンツの工場見学しました。ベンツ・ミュージアムも見ました。木製の車輪からゴムのタイヤに移る過程が何段階もあるのが子供達にも分かり易く展示してありました。
現在、日本ではベンツは300万円台から販売されており、同クラスの日本車に比して高価格です。欧州ではタクシー用に使われています。
車の話をしていると長くなりますので次はご婦人方の憧れのシャネル、ルイヴィトンの話に変えます。
さてシャネル社の創業は1909年でありルイ・ヴィトン社は1854年です。どちらもパリでの店が隆盛をきわめ、フランス文化のしゃれた華麗さが魅力になっています。
3番目の写真はフランス文化のしゃれた華麗さが溢れるファッションショーの写真です。
シャネルとルイ・ヴィトンはフランス文化を背景にして商品のイメージを高め、世界中の女性の心を掴んでいるのです。
4番目の写真は香水のシャネル5番です。昭和時代は外国出張のお土産品としてよくこの香水を買って来たものです。私も妻に何度か 買って来ました。
しかし現在は香水を使う人が居ません。もう日本人はシャネル5番をすっかり忘れてたようです。
5番目の写真はルイ・ヴィトンのハンドバックです。ルイ・ヴィトンのHPからの写真です。(ULouisvuittonfashionshowcampaignlv_w )
ルイ・ヴィトンのハンドバックは現在でも世界中で売れています。ルイ・ヴィトンでは様々な大きさの旅行鞄など出しています。
それにしても販売価格が高すぎると思います。高ければ高いほど売れるそうです。購入する女性の虚栄心が少し関係しているようです。
それはさておき、美しい夢を売っている商品です。世界の経済が発展すれば、ますます隆盛する一分野と考えられます。
今日は昭和時代に生まれ育った私の憧れたものをご紹介致しました。梅雨の鬱陶しさを忘れる楽しい気軽な読み物になれば幸せです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。後藤和弘(藤山杜人)
===シャネルの起業、ルイヴィトンの起業などについて========
(1)ココ・シャネル(1883年 - 1971年)の活躍:
前の部分は省略します・・・・その後、歌手を目指しヴィシーでオーディションを受けるも、落選ばかりであったために芸能界への道はあきらめた。この頃交際していた将校であるエティエンヌ・バルサンに伴われてパリ郊外へ移り、友人達の社交場となった彼の牧場で過ごす。退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められ、バルサンの援助により、1909年、マルゼルブ大通り160番地で、帽子のアトリエを開業する。
1910年に、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で帽子専門店を開店。このときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛する人物となるイギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際を始める。カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。
1913年に、ドーヴィルに二号店を開店。翌年に第一次世界大戦が開戦。1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。翌年コレクションを発表し大成功を収める。ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となる。1918年に、第一次世界大戦が終戦。・・・以下の続きは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8D%E3%83%AB にあります。
(2)ルイ・ヴィトン(1821年 - 1892年)の起業と死後の隆盛:
前の部分は省略します・・・・ルイ・ヴィトンが評価されるようになったのは、創始者であるルイが亡くなった後のことである。ヴィトン社はまず「グリ・トリアノン・キャンバス」(Gris Trianon) というトランク工場として創始された。このトランクは灰色のキャンバス地で覆われており、とても軽量なものであった。1854年、ルイはエミリー (Emilie Clemence Pariaux) と結婚、同年、世界初となる旅行用鞄の専門店をパリに創業。3年後の1857年には息子のジョルジュ (Georges Vuitton) が生まれた。
1859年、アニエール=シュル=セーヌに最初のアトリエを構える。
1860年、ヴィトン社は需要に押されて規模を拡大した。1867年、万国博覧会で銅メダルを獲得。これにより世界的な評判を得、1869年にはエジプト総督のイスマーイール・パシャが、1877年にはロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)がそれぞれ、1セットのトランクを発注した。また、当時世界的に力を持っていたスペイン国王アルフォンソ12世からもトランクの注文を受けるなど、主にスラブ、ラテン系王侯族に重用された。
トランクの上から布地を貼るというルイの技法は賢明であったが、容易にコピー商品が出回ることとなり、1872年、ルイは別の布地を使うようになった。この布地は、「Striped Canvas」として知られているベージュと赤の2色で色づけされた布地である。しかし、これもすぐにコピー商品が出回ることとなった。・・・・・
以下の続きは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%88%E3%83%B3 にあります。