老境にいたると長かった自分の人生をいろいろと思い出します。印象深ったのは少年の頃の疎開の経験でした。都会の仙台から農村へ疎開したのです。
1945年7月10日、故郷の仙台へB29が100機来襲し市街地を完全に焼き尽くしました。それから1週間して小学校3年生だった私は、宮城県の北部の伊豆沼近辺の水田地帯の農家へ弟2人と疎開しました。田舎の国民学校へ転校してすぐに玉音放送で敗戦。でも仙台へもどるまで、写真のような農家に3ケ月程、生活しました。
両親は仕事があるので仙台に残り、子供達だけ他人のなかで暮らす日々は悲しい体験でした。
最近。羽村市立郷土博物館の裏に展示してある江戸時代末の農家を見て、疎開先の農家の造りにあまりにも似ているので愕然としました。
東京などの大都会では集団疎開が行われ悲劇的な体験談の本をよく読みました。
集団でなくても当時の小学生は都会から農村へ疎開したのです。やがて湘南海岸や九十九里浜へウンカのように上陸してくるアメリカ軍の被害を避けるために疎開したのです。山村や農村地帯へ疎開したのです。
疎開の経験のある日本人も次第に死んで行き、数が少なくなりつつあります。
そんな時代もあったと若い人々へ伝えたいと思い、この記事を掲載します。
疎開先は宮城県の水田地帯の農家でした。その農家では朝にご飯を炊きます。朝と昼はご飯ですが夜は皆で囲炉裏の大鍋の ”すいとん” を食べます。大鍋には私が取ったドジョウを入れます。そのドジョウが美味しかったのです。当時は肉や魚が無く蛋白質に飢えていたのです。
それから随分後になって浅草の名物の駒形のドジョウを食べに行ってことがありました。そうしたら名物のドジョウがさっぱり美味しくないのです。
食べ物の味は時代や環境によって変わることを体験しました。
そういえばアメリカ留学の時よく食べた豚肉やドイツで食べたソーセージがめっぽう美味しかったことが忘れられません。
食べ物の話を書いていたら長くなるのでやめます。
写真は羽村市立郷土博物館の裏に展示してある江戸時代末の農家です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





