ブログにて日常の記録

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 日常生活=(孫、ジョギング、パソコン教室、その他)

玉泉洞

2017年11月29日 08時50分36秒 | 旅行

 

                                玉 泉 洞

 

 

 

 

平成29年11月13日~16日迄妻と沖縄旅行に行きました。今回玉泉洞で私と妻
の沖縄旅行も約半分の行程を紹介致しました。まだまだもう半分残って居ますの
で最後迄宜しくお願い致します。その中で今回のブログ第7弾目に玉泉洞お載せ
致します。

◆それでは又、玉泉洞をお話し致します。

玉泉洞は、我々ホモリピエンスがアフリカで誕生するはるか昔、30万年という気
の遠くなるような自然の営みが創り上げた錘乳洞です。1967年3月、沖縄がアメ
リカ統治にあった頃、愛媛大学術検部の調査隊山内浩教授によつて玉泉洞の最初の
探検・調査を行った結果、始めてその全容が明らかにされました。
玉泉洞は、沖縄県南城市玉城宇前川にある錘乳洞であります。沖縄の歴史・文化・
自然を丸ごと体験、東洋一の美しい錘乳洞「玉泉洞」をはじめ、有形文化財指定
を受けた古民家が建ち並ぶ「琉球王国城下町」での文化体験、ハブの生態を学べる
「ハブ博物公園」など広い園内は旧遊べるスポット満載。勇壮な伝統芸能。

 

 


旧海軍司令部壕

2017年11月27日 08時09分06秒 | 旅行

 

                    旧海軍司令部壕

 

 

 

 

平成29年11月13日~16日迄妻と沖縄旅行に行きました。今回は旧海軍司令
部壕をブログ第6弾目にお載せ致します。

◆それでは「戦争」と「平和」が織りなす戦跡地、旧海軍司令部壕を述べて見ます。

◎旧海軍司令部壕

昭和19年(1944)日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた司令部壕で、当時
は450mあったと言われています。カマボコ型に堀り抜いた横穴をコンクリートと
坑木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人
余りの兵士が収容されていました。戦後しばらく放置されていましたが、数回に渡
る遺骨収集の後、昭和45年(1970)3月、観光開発事業団によって司令官室を中心
に300mが復元されました。
海軍壕公園は那覇市の南西、豊見城の小高い丘にあり、東シナ海、那覇市街、首里城
が展望できます。琉球王朝時代には、中国や薩摩からの船の入港を知らせる「火番森
(ヒバンムイ)」がここに置かれました。また、第二次世界大戦末期には日本海軍の司
令部壕が置かれ、激しい戦場となりました。現在では、沖縄から世界に平和を発信す
る戦跡公園として整備され、交流や憩いの場として広く親しまれています。

◎大田實海軍小将

旧海軍司令部の司令官であった大田實小将はじめ幹部6名は、米軍の猛攻に昭和20年
6月13日夜半、壕内で最後を遂げました。大田小将が海軍次官に宛てた、沖縄県民の
献身的作戦協力について訴えた電報が残っています。

 

 

 


玉陸

2017年11月26日 08時30分59秒 | 旅行

 

                           玉 陸

 

 

 

 

 

平成29年11月13日~16日迄妻と沖縄旅行にいきました。今回は玉陸(たまうどん)
をブログ第5弾目にお載せ致します。

◆それではいつもの様に玉陸(たまうどん)を少し述べてみます。

玉陸は1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、第二尚氏王統の
陸墓となりました。墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋、創建
当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には墓前の庭の玉陸碑に記されている限られた
家族が葬られました。全体のつくりは、当時の板藁き屋根の宮殿を表した石造建造物
になっています。墓域は、2.442㎡。沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年
から3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取戻して今日に至ってい
ます。玉陸碑は1501年(弘治14)に建てられたものです。
尚真王外8人の名が記され、この書き付けに背くならば、天に仰ぎ、地に伏して崇る
べし、と結んでいます。碑文には長男・次男の名が見えず、王室内に勢力の対立があ
り、廃されたと見られています。

 


首里城公園

2017年11月24日 08時33分29秒 | 旅行

 

                      首里城公園          

 

 

 

 

 

平成29年11月13日~16日迄妻と沖縄旅行に行きました。今回は首里城公園を
ブログ第4弾目にお載せ致します。

◆それでは又、少し首里城公園を述べて見ます。

首里城は、琉球王国の幾多の興亡を伝える歴史の証人。琉球の島々を始め、中国、
日本、朝鮮、東南アジアの国々と外交、貿易を展開した首里王府の司令塔として、
王とその家族等が住み、華麗な王朝文化に彩られた空間でした。
かって琉球王国の王城として栄華を極めた首里城。園内には、首里城跡、園比屋
武御嶽石門の世界遺産はじめ、歴史的建造物が数多くあり、華やかな王国の歴史
文化に触れることができる。首里城は、沖縄県那覇市首里にあり、かって海外貿易
の拠点であった那覇港を見をろす丘陸地にあったグスク(御城)の城跡で、1992
(平成4年)11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭
が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園
として整備されて居ます。
首里城は、戦争で焼失する以前は1700年代に建てられた正殿などがあり、1945年
の沖縄戦でアメリカ軍の攻撃によりグスクの建造物はすべて焼失。
1992年に正殿などが旧来の遺構を埋めもどしました。沖縄の定番観光スポット
「首里城」。沖縄旅行の際は必ずおさえておきたい歴史的名所ですよね。しかし、
定番と言えどどうやって行くのか、公園内には何があるのか、見学にかかる時間は、
かなりかかると思います。大正14年(1925)及び昭和8年(1933)には首里城の正殿
及び歓会門、守礼門などが国宝に指定されたが、昭和20年以後作業が続けられ、平成
元年(1989)から正殿の復元に着手、平成4年(1992)にはほぼ復元が完了し公園とし
て公開されることになりました。世界遺産に登録されている首里城。
石畳の坂道を登って行くと首里城公園のシンボル「守礼の門」が迎えてくれます。
琉球石灰岩を積上げた石の壁の道を進むと、首里城正殿が見えてきます。約450年
続いた琉球文化の王族の生活を建物・展示物等を通して知ることが出来ます。

 

           

 

 

 

 

 

 


斎場御嶽

2017年11月22日 08時31分34秒 | 旅行

 

                         斎場御嶽

 

 

 

 

平成29年11月13日~16日迄妻と沖縄旅行に行きました。今回は琉球王国最高
の聖地のブログ第3弾目に斎場御嶽をお載せ致します。

◆それでは少し斎場御嶽をお話し致します。

斎場御嶽とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で、斎場御嶽は琉球
開びしゃく伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地です。
御嶽の中には六つのイビ(神域)がありますが、中でも大庫理・寄満・三庫理は、
いずれも首里城内にある部屋と同じ名前を持っています。当時の首里城と斎場御嶽
との深い関わりを示すものでしょう。
はるかな琉球王国時代、国家的な祭事には聖なる白砂を「神の島」といわれる久高島
からわざわざ運び入れ、それを御嶽全体に敷き詰めました。その中でも、最も大きな
行事が、聞得大君の就任式である「御新下り」でした。斎場御嶽は、琉球国王や聞得
大君の聖地巡拝の行事を今に伝える「東御廻り」の参拝地として、現在も多くの人々
が訪れ、崇拝されています。
          

 

 

 


平和祈念公園

2017年11月21日 08時32分27秒 | 旅行

   

                      平和祈念公園

 

 

 

 

 

 

 

平成29年11月13日~16日迄妻と沖縄旅行に行きました。今回は沖縄旅行
最も激戦地であった糸満市摩文仁に有る平和祈念公園を、ブログ第2弾目に
お載せ致します。

◆それではいつもの様に平和祈念公園を少し述べて見ます。

沖縄県糸満市にある平和祈念公園には、沖縄戦で犠牲になった住民や兵士約
20万人もの名前が国籍問わず刻みこまれた「平和の礎」が達ち並んでいます。
平和祈念資料館では沖縄戦や平和創造の学習拠点施設になっています。
沖縄本島南部の糸満市は沖縄終えんの地で、この平和祈念公園は平和の象徴
になっています。広大な公園の中には、沖縄平和祈念資料館、平和祈念堂が
あり、戦争の史料、平和への祈りが各施設で紹介されています。
第二次世界大戦最後の地上戦の舞台であり、沖縄戦最大の激戦地となった
糸満市摩文仁にある美しい公園。には「鎮魂、祈り、平和」をテーマに、墓苑
や慰霊塔・碑をはじめ、沖縄戦で最後の激戦地となりました。

 

            

 

 


沖縄旅行(ひめゆりの塔)

2017年11月19日 11時12分10秒 | 旅行

 

                           沖縄旅行(ひめゆりの塔)

 

 

 

 

 

平成29年11月13日~16日迄、妻と沖縄旅行に行きました。岩国~沖縄線が
2017年3月26日から再開され、私も沖縄に行きたくなり行きました。
岩国を午前11時20分出発して那覇空港に午後13時15
分に到着しました。
岩国~沖縄間は約2時間位で着きました。又、沖縄の暖かさにはびっくりしました。
さあ今日(11月13日~16日)から沖縄旅行の見学の始まり始まり、まず最初は
ひめゆりの塔~平和記念堂を見学します。

◆それではまず最初にひめゆりの塔から述べて見ます。

ひめゆりの塔は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑、
現在の沖縄県糸満市にある。1946年4月7日除幕。目次「非表示」1、概要、2、歴史
3、ひめゆり平和祈念資料館、4、ひめゆりの塔をテーマとした作品。
糸満市にあるひめゆりの塔は、看護要員として戦場に動員され、亡くなっていきました。
「ひめゆり学徒隊」の慰霊塔です。ひめゆり平和祈念資料館には、ひめゆり学徒隊の犠牲
者の遺品や、ガス弾によって多くの犠牲者がでた伊原第三外科壕が実物大で再現されています。

◆次に平和祈念堂について少し述べて見ます。

沖縄平和祈念堂は、沖縄県民はじめ全国民の平和願望、戦没者追悼の象徴として建設されま
した。堂内には、沖縄県下の各市町村及び学童による募金活動の支援を受けて、沖縄が生んだ
傑出した芸術家山田直山氏が18年余の歳月をかけて原型を制作した沖縄平和祈念像が安置され
ています。このほかにも西村計雄画伯が平和への思いを込めて制作された絵画「戦争と平和」
(20点連作、各300号)が堂内の壁面を飾り、敷地内には彫刻家佐藤忠良氏制作によるブロンズ
製の「少年」の像をはじめ祈念堂の理念に賛同された日本画壇の第一線で活動する画家から贈ら
れた大作を展示する美術館などを設置しています。沖縄平和祈念堂は、"美と平和の殿堂"として
沖縄県が建設した「平和の礎」と一体となって摩文仁の地から世界に向けて平和の尊さを訴え
ています。

          

 

 

 

 

 

 


絆スタジアム

2017年11月04日 18時19分37秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

                      絆スタジアム

 

 

 

 

平成29年11月4日(土)絆スタジアムがいよいよ岩国にオープンする事に成りました。
午前10時より式典が有り、福田岩国市長の挨拶から米国の司令官の挨拶が有り各代表
の挨拶が次から次へと有りその後テープカットが有って午前11時15分からいよいよ
絆スタジアムに初めて入場しました。初めて見る絆スタジアムは大変素晴らしかった
です。その後日米親善野球の試合(岩国工業高校対米国の高校生)が有りました。
結果は5回コールド(12対0)で岩国工業高校が勝ちました。

◆それでは少し絆スタジアムの概要を述べて見ます。

寸 法=両翼(レフト、ライト)100m センター122m(外野天然芝)
観客席=椅子席(5,039席)芝生開放エリア(約3,
000人規模)
照 明=照明柱6基
表示板=LEDフルカラーパネル(20m×7m)
その他=事務室、放送室、ダグアウト、更衣室、シャワー室、屋外ブルペン、トイレ等