ブログにて日常の記録

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東大寺別院(周防阿弥寺)

2017年06月27日 17時52分39秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

 

                                      東大寺別院
           (周防阿弥陀寺)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成29年6月25日(日)朝から梅雨空ですが、友達のMさんに防府市に有る
(東大寺別院、周防阿弥陀寺)あじさいが良く咲いて居るので見学に行こうと
誘うとすぐ様行く事に成りました。小雨が降る中ですが、岩国を午前9時に出発
して午前10時30分に着きました。さすが日曜日なもので多くさんの人でした。
少しブログにお載せするのには日にちが立ちましたが、でもあえてこれを載せて
見ます。

◆それでは少し東大寺別院(周防阿弥陀寺)を述べて見ます。

阿弥陀寺は、名僧俊乗芳重源上人が、東大寺を再建のため、周防国務管理在任中
に建立された由緒のある古寺であります。
治承四年(1180年)東大寺が平重衡の兵火にかかって焼失しましたので後白河法皇
はひじょうに残念がられ、ぜひ大仏を改鋳し大仏殿を再建しょうとの悲願を起こさ
れました。朝廷は重源上人を東大寺再建の大勧進とされました。上人はまず大仏を
鋳かえることとし、文治元年(1185年)にこれを改鋳され、ついで大仏殿の再建に
着手されました。翌2年に、朝廷は周防一国の租税を東大寺に寄付され重源上人を
周防国務管理に任ぜられました。上人は宋人の陳和郷、日本の大工物部為里らをひ
きいて防府に下向され、四月十八日佐波川をのぼり徳地のないところへ岩を崩して
道をつけ、橋を架け、材木を佐波川の木津に出して筏を流し送られました。
上人は寒暑も厭わず、老齢の骨身を削って精進と努力を続けられ、仙始めから五年
後の建久元年(1190年)10月、東大寺上棟式を挙げ、ついで同6年(1195年)竣工
の大供養が営まれした。後白河法皇が建久3年3月崩御されて、この大会式に臨席の
なかったことは、いかにも寂しいことでありました。上人が当地に下向されました
ときには、源平戦争の余波で国府は疲幣し、土民の流亡する者も多く、また飢えを
訴える者がたくさん集まりました。上人はこれに米を与え、野菜の種をとり寄せ、
耕作を励ますなどして国府の繁栄を図られました。

         
        

 

 

 

 


岩国石人形ミニ資料館

2017年06月17日 08時22分57秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

                  岩国石人形ミニ資料館

 

 

 

 

 

 

 

平成29年6月16日(金)に岩国城を見学した後に錦帯橋近くに岩国石人形ミニ
資料館が有りましたので、これを見学して帰りました。
私もこんな所に岩国石人形ミニ資料館が有るとは思いませんでした。
今回のブログはこの岩国石人形ミニ資料館をお載せ致します。

◆それでは岩国石人形の由来を少し述べて見ます。

石人形は人が作ったものではなく、錦帯橋で有名な錦川の、川の中の石に附いて
います。その為、錦帯橋の人柱となった乙女の生れ替わりと言われ信仰を集めま
したが、人柱が橋や城や家を守る処から、事故・災害・厄除け等のお守りとして
利用されるようになり、七福神やお地蔵様、仏像等に見立てられています。
又、近くの人達が採取して遊ぶ習慣があり、日本の三大珍品玩具とも言われて居
ます。この石人形は、ニンギュウトビケラという昆虫が、川底の小石や砂を集め
て造る事が解っていますが、川の中の石に附く性質があるので、錦帯橋の石垣や、
敷石で採れるものです。
江戸末期から明治に掛けて多くの漢詩に詠まれましたが、大正7年には「石人形社」
という俳句の結社もつくられ、俳誌「石人形」も発行されています。
石人形は岩国の人々に愛され、親しまれ、古くから受け継がれた珍しい文化です。
石人形資料館は貴重な石人形の文化を、後世に伝えてゆく目的で作られた小さな
施設です。お気軽にご覧下さいませ。

 

         

 

 

 


岩国城 パート2

2017年06月16日 17時00分38秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

                          岩国城パート2

 

 

 

 

 

 

平成29年6月16日(金)に、午前中は畑けに野菜の水巻(キューリ、ナスビ、トマト、
スイカ、カボチャ、等に)に行きました。午後は、友達のMさんと岩国城にでも行
って見ようと相談しますと、彼は(Mさん)40年も岩国に住んで居るのに岩国城を
見学した事がないと返事が返って来ました。それは是非行きましょうと私は誘いま
した。私は度々岩国城は見学して居ますが、最近私はブログを更新して居ませんの
で丁度良いチャンスと思いこれを今回のブログに入れる事にしました。

◆それではいつもの様に岩国城を少しお話し致します。

◎城下町岩国の沿革

岩国地方には、平安末期に「岩国氏」と称する 「平安」に属する一属がいて、相当
の勢力を持って居ましたが寿永4年(1185)「壇ノ浦の合戦」でその地位を失いました。
之に代わって勢力を振るったのが「弘中氏」で、鎌倉時代末期には周防国防護職であっ
た「大内氏」の武将となっていました。
しかし、弘治元年(1555)「厳島戦争」で「毛利元就」に敗れ滅亡しました。
戦国時代の末期、中国地方のほとんど(8ケ国3郡)を領有し、112万石の大大名となった
「毛利氏」も慶長5年(1600)、「関ヶ原の役 」ののち、防長2国に厳封され。
出雲の国富田城(12万石)にあった「吉川家」も岩国3万石(後に6万石)に転封されました。
吉川氏の家系は藤原氏の分かれで、元々関東が地盤でした。「吉川氏」の始祖「経義」は
駿河の国に始まり、正和2年(1313)5代「経高」は安芸国に移り、13代271年間の活躍
をしました。
尚、初代岩国藩主「吉川広家」はサンフレッチ(3本の矢)の教訓状を書いた「毛利元就」
の子「元春(吉川氏の養子)」の三男にあたります。岩国藩は271年間、藩政の方針として、
文化の向上につとめ、尚、2,000余町歩に及ぶ大拓を行い、産業の振興、勤勉貯蓄の美国
に努めました。この結果、岩国藩の石高は、幕末には実質10万石以上と言われる程になり
ました。

◎悲運の岩国城

岩国に移った「吉川広家」は、要衝の地横山の山頂に要害を、山麓に居館を築くことにし、
慶長8年(1603)山頂の起工式を行い、同13年(1608)に岩国城が完成しました。
横山にの三方を迂回する錦川は天然の外堀で、川向こうに町割を行い城下町が形成されて
いきました。緑の山頂にそびえる白亜の天守は、3層4階の上に物見を置くという、桃山
風南蛮造りの山城で、藩の象徴として仰がれていましたが、元和元年(1615)江戸幕府の
「1国1城令」により、完成からわずか7年で破却の運命に見舞われました。
以来、山下の居館だけで藩の政治が行われました。第2次世界大戦後、岩国城再建の動き
が活発になり、昭和32年には遠く「ハワイ岩国市人会」をはじめ、市民より多額の募金
が寄せられ、昭和37年に復元されることになりました。