ブログにて日常の記録

旅行=(日本各所) 畑作り=(100坪の土地に野菜作り)
 日常生活=(孫、ジョギング、パソコン教室、その他)

冠梅園

2014年03月11日 17時38分26秒 | 旅行

 

 

 

                            冠 梅 園
                     

 

 

 

 

 

平成26年3月8日(土)朝から小春日和の天気に恵まれ光の冠梅園
に友達のM君と見学に行きました。
光の冠梅園はいまが満開に梅が咲いて居り見ごたえが有りました。
少しブログに載せるのに所用が有って遅く成りましたあしからず。

それでは光の冠梅園を少し述べて見ます。

菅原道真公ゆかりの冠天満宮に隣接する梅の里(冠梅園)には、100
種類、約2000本の梅のきを植栽。花の季節の2月から3月始めには、
赤、や白、薄紅の花が咲き誇れる園内で「梅まつり」も擁され、野店や
邦楽など様々なイベントでお楽しみいただけます。
冠山総合公園(冠梅園)の蝋梅(ろうばい)、冠山総合公園の冠梅園で
蝋梅(ろうばい)が身ごろを迎えています。
一年のうち最も寒さが厳しくなるとされる「大寒」を前に蝋梅(ろうばい)
の淡い黄色の花が冬の冠梅園を彩つていました。

     

 

 

 

 

 

 


縮景園ー2

2014年03月07日 16時43分20秒 | 旅行

 

                       縮景園パート2

 

 

 

 

 

平成26年3月1日(土)に縮景園に見学に行きました。あの日は天気も
良くて、梅を見るには最高の天気でした。今日はブログ第3弾目の模様
をお載せ致します。

それでは又縮景園の模様を少し述べて見ます。

広島藩主浅野長晟が、入国の翌年1620年から別邸として築庭したもので、
作庭者は茶人としてしられる家老の上田宋箇です。
園の名称は、幾多の景勝をあつめ縮めて表現したことによりますが、一方
でまた中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられて居ます。広島藩主
長晟によって元和6年(1620年)から作られた回遊式庭園。
作庭者は茶人としてしられる家老の上田宋箇。園内は、梅、桜、ツツジの
名所としても有名。縮景園は、広島県広島市中区上幟町にある池泉回遊
式庭園。濯纓池、濯纓池に架かる跨虹橋、園内西側にある茶屋「夕照庵」、
楊貴妃型石灯篭、目次、1、概要、2、原爆被災、3、公共交通機関、4、関
連書、中国の世界的な景勝地「西湖」を模してつくられたと伝られている園
内は、山川の景、京洛の熊深夜のを致を庭の中に縮景していることから、
「縮景園」となりました。

 


広島城

2014年03月04日 16時57分17秒 | 旅行

 

                            広 島 城

 

 

 

 

 

 

 

平成26年3月1日(土)に朝から小春日和なので広島城と縮景園を見学に
行きました。その中で今日はブログ第2弾目として広島城をお載せ致します。

それではいつもの様に広島城を少しお話致します。

広島城は、太田川河口の三角州に毛利輝元が築いた典型的な平城です。
広島城は豊臣秀吉の五大老の一人で112万石を領した毛利輝元は(天正
17年)1589年4月15日築城の鍬入れ式を行い、その2年後に入城しました
が、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦い後、広島から萩へ移され変わって
福島正則が2代目の広島城主となりました。
福島正則は以後およそ19年にわたって広島城修理許可手続きの不備から
領地を没収され、元和15年(1619年)紀州和歌山から浅野生晟から3代
の広島城主として入城しました。以後明治2年(1869年)の版籍奉還まで、
およそ250年12代にわたって浅野氏が広島城主を務めました。

 

       

 

 

 

 


縮景園

2014年03月03日 14時39分18秒 | 旅行

 

                                                        縮 景 園
                         (広島県)

 

 

 

 

 

平成26年3月1日(土)に広島の縮景園と広島城を見学に行きました。
広島迄は岩国の自宅から1時間30分で着きました。縮景園の梅林は今
が最高の見頃で有りました。

それでは少し縮景園について述べて見ます。

縮景園は広島藩主浅野長晟が入国した翌年の元和6年(1620年)から
別邸の庭として築城されました。作庭者は茶人として知られる家老の上田
宋箇である。国の名称は、幾多の勝景を聚め縮めて表現したことによるが
又、中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられている。
園の中央に濯纓池を掘って大小10余りの島を浮かべ、周辺に山を築き、
渓谷、橋、茶室、四阿などが巧妙に配置され、それらをつなぐ園路によつて
回遊出来るように成っている。この種の庭園は、回遊式庭園と称され、室町
時代にその萌芽がみられ、江戸時代初期に最盛期を迎えた形式で諸大名
の大庭園の多くはこれに属する。
池の中央にかけられた跨虹橋は、七代藩主重晟が京都の名工に二度も築
きなおさせたものといわれ、東京小石川後楽園の円
月橋や京都修学院離宮
の干歳橋にも似た大胆奇抜な手法が駆使されている。
清風館は庭園のほぼ中央にあり、庭園にふさわしい数寄屋造りで屋根には
こけら葺きである。西側は優雅な書院造りの様式をそなえており、東側には
花頭窓を設け跨虹橋を臨んでいる。
昭和15年(1940年)浅野家から広島県に寄付され、同年7月日国の名勝
に指定されました。昭和20年(1945年)原爆によって壊滅状態になったが、
広島県は、戦前時の景観に復すべく整備をすすめ、清風館、明月亭などの
亭などの亭館も復元しました。