ブログにて日常の記録

旅行=(日本各所) 畑作り=(100坪の土地に野菜作り)
 日常生活=(孫、ジョギング、パソコン教室、その他)

津和野(パート5)

2015年09月27日 07時44分22秒 | 旅行

 

 

                            津  和  野
                          (パート5)

 

 

 

 

 

 

 

平成27年9月19日(土)友達のYさんと津和野方面にドライブ日帰り旅行
に行ました。今回で津和野方面の旅行にてブログの最後は津和野城跡を
お載せ致します。

◆それでは少しいつもの様に津和野城跡を述べて見ます。

津和野城は津和野盆地の南西部に横たわる標高367mの霊亀山に築かれた
山城。築城時から少なくても室町時代後期(戦国時代)までは三本松城(もし
くは1本松城)と呼ばれていた。尾根伝いに南にある出城の中荒城、当城
と併せて史跡・指定されて居ます。
太鼓谷稲成神社へ車で上がる途中、津和野城跡へ行くことができる津和野
城跡観光リフト。津和野城址へは徒歩でも登れますが、やはりそこは城寒
だっただけあって、簡単に攻める入ることが出来なかった当時を感じずに
はいられない様な急勾配で、大人で40分かかります。津和野城は標高367m
の霊亀山にあり、山頂付近まではリフトで上がることが出来ます。
リフトも山麓の駐車場から出発。山城の愉しみの半分は自分の足で登ること。
本来ならば自分の足で登頂したいところですが、時間の都合もあり仕方なく
リフトを利用します。


津和野城は別名「三本松城」とも呼ばれ、中性の山城と近世の山城が一体と
なった全国でも数少ない山城です。城跡からは津和野の町を一望出来ます。
本丸出丸への登城は城跡観光リフトをご利用下さいませ。
箱庭のような津和野の町を一望できます。国指定史跡、2014年11月6日
からは津和野城跡は町からも西の山上に石垣を見ることが出来ます。
最初に城が築かれたのは鎌倉時代で、蒙古の襲来に備えて、吉見氏が築いた
土塁のみの簡単な山城でした。その後、戦国時代、江戸時代を経てまわりに
見る豪壮な山上の防塁を築きました。

 

 

           
           

 

 

 


津和野(パート4)

2015年09月25日 18時37分36秒 | 旅行

 

                            津 和 野
                             (パート4)

 

 

 

 

 

 

平成27年9月19日(土)友達のYさんと津和野方面にドライブ旅行に行きました。
今回は津和野のメーインである、太鼓谷稲成神社にお参り致しました。
下の階段から1,
175本の鳥居を通り上迄上がりました。さすがに急な階段で私の
様に歳(満74才)を取って居るものは少しきっかったです。

◆それでは又、少し太鼓谷稲成神社を述べて見ます。

太鼓谷稲成神社は安永2年(1773)津和野七代藩主亀井矩貞(のりさだ)が城の鎮護
と領民の安隠を願って、城山の太鼓谷京都伏見稲成を勧請したものである。
廃藩後一般には稲荷と書くが、ここはただ一つ稲成と書く。
太鼓谷稲成神社は、島根県鹿足郡津和野にある神社である。江戸時代から五穀豊穣、
商売繁盛の神様として祀られてきた太鼓谷稲成神社は、文豪「森鷗外」の出身地、
山陰の小京都と呼ばれる島根県津和野にある稲成神社。京都の伏見稲荷や茨城の笠間
稲荷、宮城の竹駒神社、太鼓谷稲成神社城山の千本鳥居(1,175本)をくぐって長い表
参道を登り続けると、絢爛で大きな稲成神社が有ります。ひちらは太鼓谷稲成神社と
呼ばれる。日本五大稲成神社の一社です。商売繁盛、開運厄徐の神が祀られています。
参拝者の激増に伴い、昭和38年9月に新社殿建設の奉賛会を結成。
昭和42年境内地西側の山を切り開き、社殿地を造成し、昭和44年12月に、新社殿が
竣工、御遷宮を斎行しました。拝殿では、宇迦え御魂うかのみたまのかみいざなみの
みことです。

それでは最後に参考迄に五代稲荷神社をご紹介致します。第一に伏見稲荷大社(京都)、
第二に笠間稲荷神社(茨城)、第三に竹駒神社(宮城)、第四に祐徳稲荷神社(佐賀)
第五に太鼓谷稲成神社(島根)等です。

 


津和野(パート3)

2015年09月24日 08時31分17秒 | 旅行

 

 

                             津 和 野
                             (パート3)

 

 

 

 

 

平成27年9月19日(土)友達のYさんと津和野方面にドライブ旅行に行きました。
私もブログ取材の為全国を行脚します。さて今回は津和野(パート3)森鷗外旧宅
をお載せ致します。

◆それではいつもの様に森鷗外を少しお話し致します。

木造平屋建て、瓦葺きの簡素な造りで、日本を代表する文豪・鷗外が幼少時代を過
ごした家です。4畳半の彼の勉強部屋や、藩医の家らしく調剤室も残って居ます。
のちに医学博士、文豪博士、鷗外となる森林太郎の暮らしぶりがうかがえます。
西周旧宅と津和野川をへだてて向かいあっている国指定の史跡。森家は代々津和野
藩の藩医で、50石どりの家柄であった。鷗外(林太郎)は文久2年(1862)1月19日
この家で生まれ、明治5年(1872)11歳で上京するまでここで過ごした。
明治の文豪森鷗外が陸軍第12師団軍医部長として小倉に赴任した折り、明治32年6月
から1年半年住んだのが、この鍛冶町の家です。鷗外は、この家で「我をして九州の富
人たらしめば」「鷗外魚史とは誰ぞ」等を書いて居ます。

◆森鷗外先生旧址

医学博士、文学博士、鷗外の号をもって名高い、森林太郎先生は6歳より藩校養老館
に学び11歳の時上京、明治14年20歳で東大医学部卒業後陸軍軍医に任ぜられた。
明治17年ドイツに留学すること5年衛生学、文学、哲学、美学、を研究して帰朝、後
累進して軍医総監となった。著作は明治23年創作「舞姫」以来晩年まで文豪の名に背
かぬ幾多の名作があり多方面に亘る著求諭作は厖大なものである。
旧址には住時のままの旧宅が保存せられ庭園には鷗外遺著「うた日記」中のぼたんを
刻んだ詩碑が建立されている。

 

 

 

 


津和野(パート2)

2015年09月23日 06時57分40秒 | 旅行

 

 

                                                    津 和 野
                                 (パート2)

 

 

 

 

 

 

 

平成27年9月19日(土)友達のYさんと津和野方面にドライブ旅行に
行きました。ドライブ好きな私がぶらりと向かったのは、山陰の小京都
と呼ばれる津和野。島根県西部の穏やかな山間にある、美しい隠れた里
のような町です。町の中心部にある殿町通りは、城下町時代の古いたた
ずまいを残すとても魅力的な場所。藩校養老館跡、郡庁跡などが有ります。

◆それでは観光津和野を少し述べて見ます。

山陰の小京都といわれる津和野は、中国山脈の末端島根県の西南に位置し
古くから地方政経文化の中心地として栄現在に及んでいる。
昔は人口13,000人一方里の中心部は城下町として人家1,000余戸がひし
めき、町を維持する錦川の清流をはさんで、車に青野山、西に城山がそび
え、景勝の地であると共に陰陽を結ぶJR山口線の中心にあって、バス網
の重要起点にあり今を去る700年の昔、開租吉見頼行が封地されて以来
吉見氏14代、坂崎出羽守16年、亀井藩主11代の居城としていん盛を極め
た土地である。町には殿町一帯、松林山天神山、藩邸跡喜楽園、丸山公園
鷲原公園等々の景勝地を始め、文豪森鷗外旧跡、先哲西周旧跡、キリシタン
殉教史跡、やぶさめ馬場、坂崎出守基所、等々50指に余る史跡を有し、
太鼓谷稲成神社、覚皇山永明寺、カトリック教会等地方信仰のメッカとして
も知られている町で、鷲舞、津和野踊といった無形文化財と共に酒と銘菓
の町でもある。

 

            
           

 

 

 


津和野

2015年09月21日 18時28分18秒 | 旅行

 

 

                            津 和 野

 

 

 

 

 

 

平成27年9月19日(土)朝から、好天気に恵まれ行楽にぴったりに成り
友達のYさんと津和野にドライブ旅行に行きました。
午前8時に岩国の自宅を出発して津和野に着いたのが10時頃でした。
私は以前津和野には、何回か行って居ますが、又、津和野は何回行っても
西の小京都と言われるだけの事が有って良い所です。早速津和野に着き
友達のYさんと自転車を2台借りて津和野の町を散策しました。その中で
今日は、たまたま新山口(小郡)駅から津和野駅に向かって(SL)が来まし
たので、撮影しましたのでこれをブログにお載せ致します。

◆それでは少し津和野の(SL)について述べて見ます。

山陰の小京都・津和野はSLの似合う町としても有名です。近代化・合理化
の波や、災害など幾度かの困難を乗り越えて復活したSL山口号は、新山口
から津和野迄の629㎞を、多くの人の夢と希望を乗せて走り続けて居ます。
貴婦人の名で愛されるSLです。SL「山口号」(新山口~津和野)は懐かしの
SLは明治、大正、昭和、欧風などデザインが違うレトロな造り、女性的な
スタイルは「貴婦人」と呼ばれ、新山口~山陰の小京都・津和野まで優雅に
走っています。車窓を眺めお弁当を広げてタイムスリップの旅を満喫して
下さいませ。2015年1月23日SL「やまぐち」号は昭和54年8月1日に
山口線の小郡(現在・新山口)~津和野間にご乗車いただき、今年で36年目
を迎えます。今年も例年同様、3月下旬~運転を開始して居ます。

 

 

 

 

 


瑠璃光寺資料館

2015年09月11日 17時46分26秒 | 旅行

 

 

                       瑠璃光寺資料館

 

 

 

 

 

 

平成27年9月5日(土)に下関、山口方面に友達のYさんとドライブ旅行
に行きました。今さらこのブログ(瑠璃光寺資料館)をお載せするのはお
遅過ぎる感じがしますが、でも最後にブログにお載せ致します。

◆それではいつもの様に瑠璃光寺資料館を少し述べて見ます。

瑠璃光寺の境内に「瑠璃光寺資料館」が有ります。館内には、瑠璃光寺の
五重塔の骨組みを紹介する15分の1の模型をはじめ、全国の五重塔55基
の模型も展示して有ります。又、パネルによる全国の五重塔の紹介もあり
五重塔のことならほぼここで知ることが出来ます。
慶長9年(1604)に香積寺を萩に引寺したため、跡地に元禄3年(1690)
に保瑠璃光寺が移転され、瑠璃光寺となった。その上、そこで販売されて
いる書籍、瑠璃光寺資料館に有ります。又、瑠璃光寺、瑠璃光寺資料館、
毛利家墓所、などちょっとした観光地も点在して居ます。

 

 

 


瑠璃光寺

2015年09月09日 17時16分40秒 | 旅行

 

 

                       瑠 璃 光 寺

 

 

 

 

 

 

平成27年9月5日(土)友達のYさんと下関と山口方面にドライブ旅行
に行きました。今日はその山口の瑠璃光寺と五重塔を、ブログにお載せ
致します。

◆それではいつもの様に瑠璃光寺と(五重塔)を少し述べて見ます。

瑠璃光寺は文明三年(1471)に陶弘房の夫人が、夫の菩提寺として当国
吉敷郡仁保村に建立したもので、最初は安養寺と称していた。
開山は石屋派の知識大庵和尚である。その後、明応元年(1492)に弘房
随身の薬師如来を本尊とし、寺号を瑠璃光寺と改めた。陶氏は大内氏の
一族で、大内氏第一の重臣として、代々大内氏の政務にあずかって力が
あった。
陶弘房は陶氏六代の当主で、周防守護代、筑前刺史であった。応仁の乱
に際し、大内政弘に従って上洛したが、応仁の乱(1468)十一月十四日、
京都相国寺の合戦において戦死したのである。天正十四年(1586)吉川
元春が小倉で逝去したとき、瑠璃光寺の華扇和尚がその導師となり、この
寺を霊牌所とし、海翁正恵大居士の法号により、寺号を海翁寺と改めた。
しかし瑠璃光寺は中国地方に門末百七十余カ寺もある名刺であったので、
吉川家に乞い、もとの瑠璃光寺に復した。元禄三年(1690)仁保の地から、
現在の処へ移てきた。この地は大内義弘の建立した香積寺の旧地である。
当寺は日本国曹洞宗僧録の一つで、中国三か寺の一として、古来から格式
ある大寺として有名であり、多数の寺宝も蔵されている。

◆それでは最後に五重塔を述べて見ます。

この五重塔 は、今から約570年位前、この地を治めていた領主大内義弘が
時の将軍足利義満と戦い泉州堺で戦死した。そのため後を継いだ弟盛見が
兄の霊を弔うため建てたのがこの塔である。塔の高さは31.2mで屋根は檜
皮葺で大体和様形式で作られている。特色としては二層には手摺があるが、
三層以上にはない、又初層内の仏様のまつってある須
 弥壇が円形であるの
は珍しい。
 

 


東行庵

2015年09月07日 19時00分51秒 | 旅行

 

 

                            東 行 庵

 

 

 

 

 

 

平成27年9月5日(土)友達のYさんと下関市立東行庵(高杉晋作)の墓を
見学に行きました。今現在毎週(日)曜日にNHK大河ドラマ(花燃ゅ)を
テレビにて放映して居ますが、私は高杉晋作の生涯活躍した事や、晋作
の墓や、奇兵隊の墓などを撮影しましたので、ブログの愛好者の皆様
是非見て下さいませ。

◆それではいつもの様に東行庵について少し述べて見ます。

高杉晋作の菩提を弔うために山懸有朋の別宅「無隣庵」を譲られた梅
処尼(うの)が庵の建立を希望すると、晋作と時代を共に生きた井上馨
矢伊藤博文らの支援により、明治17年(1884)に創建されました。
毎年5月の連休に合わせて一般公開を行っています。

◆高杉晋作墓(国指定史跡)

27年8ケ月の生涯を閉じた高杉晋作の遺骸は、奇兵隊本陣が置かれま
した。周辺には、奇兵隊軍艦の福田侠平、梅処尼など晋作を支えた人々
が葬られた墓もあります。

◆高杉晋作顕彰碑

明治44年(1911)5月20日に除幕式が執り行われました。
「動けば雷電の如く」ではじまる撰文は伊藤博文によるものです。

◆東行庵

高杉東行の側室おうのは東行の死後尼となり谷梅処と名のって、
その墓を守り菩提をとむらった。東行庵は明治17年かっての同志ら
の寄付によって建立された。現在、東行庵は宗教法人で曹洞宗である。

◆高杉東行の墓 (史跡)

下関市吉田町清水山に静かに眠る東行の墓で昭和9年国の史蹟に指定
された。奇兵隊建立による玉垣をめぐらした長方形の墓域は広いが、
墓石の高さは61㎝、幅は24㎝で普通にある墓よりもむしろ小さい墓
である。

 

 

 

 


岩国民俗芸能まつり パート5

2015年09月04日 07時59分02秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

 

 

                     岩国民俗芸能まつり
                             パート5

 

 

 

 

 

 

 

 

平成27年8月30日(日)岩国市合併10周年記念にて「岩国民俗芸能まつり」
が有りました。今日は、最後のブログで第5弾目の「頼政」向峠神楽保存会
をお載せ致します。

◆それでは山代神楽とは、を少し述べて見ます。

神楽とは元々、神様に奉納される舞楽のことをさす言葉です。山里の神楽の
多くは、土地を守る神々に対して、鎮魂、五穀豊穣、災厄払拭などの意味を
持ち、田植え前の春先や、稲刈り後の秋に執り行われます。毎年の奉納のほ
か、地域によっては数年に一度、式年祭とよばれる特別な祭りが行われます。
近世までは神職による神楽奉納が一般的でしたが、明治以降、その多くは里
人に引き継がれました。
現在山代地方に伝承されている神楽は、境を接する近隣の石見(島根県西部)
や安芸(広島県西部)の影響を受けながら、独自の文化を育ててきました。
その総称を「山代神楽」と言います。

◆向峠神楽保存会 (頼政)

向峠神楽の起源は、安政年間(1854~1860)と伝えられています。
天保の大飢饉を憂えていた庄屋・山田利右衛門が、十数年にわたる水路工事を
完成させ、その記念に芸洲に縁があり神楽を知っていた豊蔵林七という者を支援
し、山代神楽を習得して、地域の若者に教え秋祭りに奉納したのが始まりとされ
ています。その後、地区の若者に伝承されて居ましたが、明治26(1893)年に
玖北神宮取締支所により神社付神楽の証を得て、他地域の神社に奉納するように
なりました。大正初期には、岩見神楽を採り入れ現在に及んでいますが、その間
地区民を挙げて協力し、衣装・面等の資金調達のため舞子頼母氏講を作り、また
後継者難の時には、地区内男子青年全部がこれを習得する等、紆余曲折はあった
ものの今日の向峠神楽保存会に継承されています。

 

          

 

 

 

 

 

 

 

 


岩国民俗芸能まつり パート4

2015年09月03日 08時09分25秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

 

 

                    岩国民俗芸能まつり
                              パート4

 

 

 

 

 

 

平成27年8月30日(日)岩国市合併10周年記念にて)「岩国民俗芸能まつり」
が有りました。今日はその第4弾目の「岩戸」東谷神楽保存会(美和)をお載せ
致します。

◆それでは、先に山代地方とはを少し述べて見ます。

山代地方とは、岩国市北部(本郷町、錦町、美川町、美和町)を中心とした山口県
東部の山間地域は、古代から山代地方と呼ばれてきました。
山々の間を宇佐川、錦川、生見川などの谷川が流れ、風光明媚な山里が点在する
この地域は、古くから中国山地の要所として考えられてきました。
中世には大内氏、江戸時代には大部分が毛利氏(一部は吉川氏)の所領となり、
藩の重要な特産物である紙の山地として知られました。

◆東谷神楽保存会 (岩戸)

東谷神楽は、美和町の南西部に位置する西畑地区の中心部にある大元神社において
演舞奉納されていた神舞です。元々は社人神楽で有りましたが、明治時代以降、
氏子により盛んに舞われるようになったといわれています。50年以上前には地元は
もとより、町外にも遠征し活動していた時も有りました。
高度成長期の頃から活動は途絶えていましたが、平成12年(2000)、残された衣装
の修復を行い、40年ぶりに東谷神楽愛好会として、地元の秋まつりの奉納はもとより、
近隣福祉施設への慰問、山代神楽共演大会や各種イベントへの参加など積極的に活動
しています。

 

           

 

 

 


岩国民俗芸能まつり パート3

2015年09月02日 08時05分39秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

 

 

                      岩国民俗芸能まつり 
                                  パート3

 

 

 

 

 

 

 

平成27年8月30日(日)岩国市合併10周年記念にて、「岩国民俗芸能まつり」
が有りました。今日はその第3弾目の「北中山子供神楽」をお載せ致します。
この神楽は北中山小学校の講堂にて練習して居ります。

◆それでは北中山子供神楽を少し述べて見ます。

北中山子供神楽は岩国市美和町二ッ野集落に古くから伝えられてきた伝統芸能
「山代白羽神楽(県無形民俗文化財指定)」に触れ、伝承者を育成し、神楽を通じ
て子供達が地域との交流を図ることを目的として結成しました。
昭和59(1984)年、当時の北中山小学校で子供神楽を始め、小学校が廃校となっ
た際に北中山子供神楽として活動を引き継ぎました。各地域のイベントや福祉施設
訪問などで幅広く披露しています。現在、小学2年生から中学3年生の10名で構成
しています。これまで、中国・四国地区を代表して民俗芸能の全国大会出場や、様々
なイベントで国内外の民俗芸能団体と共演し、舞の自信、文化交流などたくさんの
繋がりを感じるとともに、多くの方に喜んでいただいています。
これからも、神楽を身近に感じ、伝統文化の楽しさ・大切さを肌で学び、みなさまに
愛される、「岩国の孫」的な存在となれるよう、北中山子供神楽の「色」をより一層
幅広くお届けできるよう日々練習に励んでいきます。

 

         

 

 

 

 


岩国民俗芸能まつり パート2

2015年09月01日 15時59分37秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

                    岩国民俗芸能まつり
                        パート2

 

 

 

 

 

 

 

 

平成27年8月30日(日)岩国市合併10周年記念にて、「岩国民俗芸能
まつり」が有りました。又、今日はその第2弾目の「小糠踊り」をお載
せ致します。

◆それでは小糠踊保存会をご紹介致します。

岩国西地区に古くから伝わり、先人の残した財産である郷土民俗芸能
「小糠踊り」を後世に伝承保存しようと昭和35年(1960)年保存会を
結成し、現在に至って居ります。
曲目演目は古くから受け継がれてきた唄と踊りで、スローテンポなこと
が特徴です。歌詞は七七七五の短詞型、甚句調で非常に風情があります。
太鼓は注連太鼓とし三味線を加えて、しっとりとした踊りとなって居ます。
以前の小糠踊は路地に太鼓を据えて、歌と太鼓の合図でもって、その周り
の道筋を輪になっておどられていました。
今年、60数年ぶりに、その踊り姿を再現してみる、「こぬかの盆」が
開催されました。

        
          

 

 

 


岩国民俗芸能まつり

2015年09月01日 08時24分10秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

 

                    岩国民俗芸能まつり

 

 

 

 

平成27年8月30日(日)錦ふるさとセンターにて岩国民俗芸能まつりが有りました。
午前9時40分開場で10時20分開演でした。私は自宅を9時頃出発して、10時20
分の開演に間に合いました。
岩国市内で活動する民俗芸能の12団体が一堂に集まりました。「岩国民俗芸能まつり」
が30日同市錦町の錦ふるさとセンターであり、地域に伝わる神楽や太鼓などを熱演
して居りました。

◆それでは岩国民俗芸能まつりにて美川観音保存会ついて述べて見ます。

まず美川観音太鼓保存会の演奏で幕を開きました。美川観音太鼓保存会は、結成25年
目の団体です。メンバーは30代から70代と幅広い年齢層で頑張っています。
年々メンバーも減少高齢化していますが、皆で励まし合い楽しみながら頑張っています。
女性ばかりのメンバーで、男性のような力強さは不足がちですが、女性の優しさの中に
秘められた力強さで、曲のイメージする山代の自然を表現できたらと思います。
時に優しく、時に激しい山代の美しい山々に響き渡る自然の音と、吹き抜ける風の音を
感じていただけるよう心を込めて演奏しますので宜しくお願い致します。