岩国城
7月5日(日)現在梅雨の真っ最中ですが、今日は少し朝からどんより曇っては居ますが
雨は降らないので、私もブログの材料と思って近くに有る岩国城を見学に行きました。
私もコロナの影響で3ケ月ばかり家から余り出ない為、ブログの更新が出来ませんでした。
ブログファンの皆様誠に申しわけございませんでした。
今日は3ケ月振りに岩国城をブログに入れますので見て下さいませ。
◆それではいつもの様に岩国城の事について少し述べて見ます。
◎ 城下町岩国の沿革
岩国地方には、平安末期に「岩国氏」と称する「平安」に属する一族がいて、相当の勢力
を持って居ましたが寿永4年(1185)「壇ノ浦」でその地位を失いました。之に代わって勢力
を持振るったのが「広中氏」で、鎌倉時代末期には周防国防護職であった「大内氏」の武将
となっていました。しかし、弘治元年(1555)「厳島戦争」で「毛利元就」に敗れ滅亡しました。
戦国時代の末期、中国地方のほとんど「8ケ国3郡」を領有し、112万石の大大名となった。
「毛利氏」も慶長5年(1600)「関ケ原の役」ののち、防長2国に厳封されました。
出雲の国富田城(12万石)にあった「吉川家」も岩国3万石(後に6万石)に転封されました。
吉川氏の家系は藤原氏の分かれで、元々関東が地盤でした。「吉川氏」の始粗「義経」は駿河
の国に始まり、正和2年(1313)5代「経高」は安芸国に移り、13代(271年間)の活躍をしました。
尚、初代岩国藩主「吉川広家」はサンフレッチ(3本の矢)の教訓状を書いた「毛利元就」の子「
元春(吉川氏の養子)の三男にあたります。岩国藩は271年間、藩政の方針として、文化の向上に
努めめ、尚、2000余町歩に及ぶ大拓を行い、産業の振興、勤勉貯蓄の美国に努めました。
この結果、岩国藩の石高は、幕末には実質10万石以上と言われる程になりました。
◎悲運の岩国城
岩国に移った「吉川広家」は要衝の地横山の山頂に要害を、山麓に居館を築くことにし、慶長
8年(1603)山頂に起工式を行い、同13年(1608)に岩国城が完成しました。横山にこの三方を迂回
する錦川は天然の外堀で、川向こうに町割りを行い城下町が形成されていきました。
緑の山頂にそびえる白亜の天守は、3層4階の上に物見を置くという、桃山風南蛮造りの山城で、
薄の象徴として仰がれていましたが、元和元年(1615)江戸幕府の「1国1城」により、完成から
わずか7年で破却の運命に見舞われました。以来、山下の居館だけで藩の政治が行われました。
第2次世界大戦後、岩国城再建の動きが活発になり、昭和32年には遠く「ハワイ岩国市人会」
を始め、市民より多額の募金が寄せられ、昭和37年に復元されることになりました。