ブログにて日常の記録

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 日常生活=(孫、ジョギング、パソコン教室、その他)

大藪まつり

2015年07月27日 20時06分35秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

 

 

                        大 藪 ま つ り

 

 

 

 

 

 

 

 

平成27年7月25日(土)午後18時より川下供用会館前の駐車場にて第31回
大藪まつりが有りました。毎年大藪まつりは川下供用会館前の駐車場で有り
ますので、私は毎年見物に行って居ります。

◆主催 大藪第一・大藪第三自治会・大藪子供会

◆協賛 中津婦人会・川下商工連有志

最初に慰霊祭が有り次に大藪子供会達ちのカラオケが有り、6番目に川下消防
団第一部によるバンド演奏が有りましたが、私は、川下消防団によるバンド
演奏が心に留まりましたので、これをブログに載せて見ようと思います。
川下消防団の皆様は日頃は火事などがあれば直ぐに出動されて大変ご苦労様
です。今日は又、日頃のかたちとは違ったバンド演奏にて暑い1日を吹きと
ばされ、聞いて居る方も中々迫力満点でした。

来年も又、おいでんさい!! 来てみんさい!! 夏の一夜をみんなで楽しもー!!
のスローガンにて暑い1日(大藪まつり)を締めくくられました。

        

 

 

 

 


装港太鼓

2015年07月22日 20時04分58秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

 

                      装 港 太 鼓

 

 

 

 

 

 

 

 

平成27年7月18日(土)18時30分~19時時迄、岩国港みなと祭にて
装港太鼓が新港小学校の児童(3年生~6年生)の人達が装港太鼓の太鼓
披露をされたので私は見学しました。これをブログにお載せするのには
少し遅過ぎますが載せて見ます。

◆それでは装港太鼓を少し述べて見ます。

装港太鼓の歩み、平成19年度装港寺子屋で「岩国音頭」の太鼓のたたき方
を学ぶ岩国音頭保存会の方にご指導を依頼したところ、快く引き受けてく
ださり、夏休みのこの取組には、たくさんの子供が参加。この時を切っ掛け
に太鼓に興味をもった子供達が集まってやる様に成りました。
「装港太鼓~感謝の気持ちを込めて~」地域ぐるみの見守りの輪保護者地域
の方、そして学校がしっかりとタッグを組んで、子供達を育てようという取組、
日々の子供達の登校下校の安全を見守ってくださる安全支援ボランテアーの方
より良い環境の中で、日々を頑張って居ます。

最後に私の感じたことは白熱の太鼓は夏の夜には大変良かったです。太鼓の音
は信心深くない私ですが、天にいる故人に届く様に思えました。
又、夏の1日の暑さを吹き飛ばす様に太鼓を(3年生~6年生)児童全員が揃って
叩くバチさばきは、聞いていても心が和やかに聞こえました。

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 


姫路城内へ

2015年07月04日 14時43分57秒 | 旅行

 

 

 

                                姫 路 城 内 へ

 

 

 

 

 

 

 

 

平成27年6月28日(日)友達のYさんと2人で姫路城を見学に行きました。
今日はいよいよ姫路城のブログも最後に成りました。ブログ第四弾目を
お載せ致します。

◆それではいつもの様に姫路城内を少し述べて見ます。

姫路城は兵庫県姫路市の小高い丘、姫山にある平山城。姫路城が最初に
築かれたのは、鎌倉時代の末期、元弘3年(1333年)播磨の豪族。
赤松財林が、西国からの幕府方の攻撃に備えて、ここに城を築いたその後、
西国統治の重要拠点として羽柴秀吉が使用して居りました。
姫路城は標高45.6mの姫山を利用して構築された平山城、天正8年(1580年)
羽柴(豊臣)秀吉が3層の天守閣をもつ城郭に改修慶長6年(1601年)からは
池田輝政が8年の歳月をかけて5層7階の天守をもつ現在の城にしました。

◆次に瓦、門、佐間、窓、塀を述べて見ます。

(瓦)=姫路城は、平瓦と丸瓦を交互に組合わせた本瓦葺で、継ぎ目には屋根目
地漆喰が一面に施され、甍(いらか)の美を表現しています。歴代城主の修理の
歴史を物語るがごとく、鬼瓦、軒丸瓦などに多様な城主の家紋などが残ってい
ます。現存するものだけを数えて8種類あります。

(門)=姫路城には、菱の門、「いろは・・・六」の門、備前門から頑丈さを
重視した柵門や木戸、塀重門、冠木(かぶき)門、高麗門、櫓門、長屋門、埋
(うずみ)門など、安土桃山時代の様式を残す門など21門が残っています。

(狭間)=狭間とは、天守や櫓、土塀の壁面に開かれた矢や鉄砲を放っための
穴のことで、城を防備するための重要な仕掛けでした。一般的には丸や三角形、
正方形(鉄砲用)、縦長方形(弓・矢用)の4種類。現存する狭間の数は997カ所。
開けられた位置によって立狭間、居狭間、寝狭間とも呼ばれるが、姫路城は片膝
を突いて鉄砲を撃つ時に使われる居狭間が数多く見られます。

(窓)=天守の窓は敵の侵入や矢玉を防ぐため、太い格子がはめられた幅半間の
格子窓になつています。乾・西小天守には、黒漆り、金箔金具で飾れた装飾性
の高い火灯窓(かとうまど)があります。この窓は、本来は禅宗寺院の仏殿など
寺院建築に用いられ高貴な建築物の象徴として使われました。

(塀)=姫路城には、重要文化財に指定された32の土塀が残っています。
当時は、木造の骨組みを持つ土塀が主流でしたが、姫路城ではあらかじめ一定
の大きさに作られた粘土の塊を粘土で接着しながら積上げ、屋根部分のみ木造
で組立てられています。外側は白漆喰で美しい仕上がりになっています。

 

              

 

 

 

 

 

 

 


姫路城内に入る道のり

2015年07月03日 16時10分56秒 | 旅行

 

 

 

                     姫路城内に入る道のり

 

 

 

 

 

 

 

平成27年6月28日(日)友達のYさんと2人で姫路城を見学に行きました。
今日は、ブログ第3弾目は姫路城内に入る道のりをお載せ致します。

◆それでは姫路城の事について少しお話し致します。

姫路城に入るのには、いろいろな迷路の門をくぐり抜けなければお城に入
る事は出来ません。まず、いの門、は脇戸付高麗門、切妻造本瓦葺です。
ろの門、は渡槽(井戸があり天守に近い貴重な水源です。次に、はの門、
は脇戸付櫓門と二重の隅櫓及びこの2棟を結ぶ続櫓を組わせた変形櫓です。
ほの門、は塀中門で片開き扉の埋門です。門扉は、鉄板張で土砂などで門
や通路を封鎖することができます。への門、は潜り戸付高麗門、「打出の
小槌紋」の鬼瓦が見られます。ところどころ補強石垣が有り、江戸時代初
期の補強石垣です。又、切込みハギの石垣で姫路城では数少ない切こみハギ
の石垣です。少し奥に入って行くと扇の包配の打ち込みハギの石垣です。
少し奥に入って行くと扇の包配の打ち込みハギの石垣。
隅を「算木積み」で築き、上部に行くに従って傾斜が急になる「返り」が
見られます。又、少し奥に行くと、ちの櫓ね二重二階の隅、櫓身体に入口
はなく、りの一渡櫓から入ります。そして、りの門、脇戸高麗門、「慶長
四年大工五人」の墨書の発見され豊臣秀吉の義兄木下家定の時代に建てら
れたことがわかりました。以上で姫路城に入る手前迄の説明は終わります。

尚、話は変わりますがこの日は日本全国から多くさん姫路城を見物に来られ
て、「平成27年6月28日(日)」は姫路城入口迄たどりつくのに
約1時間
20分位掛かりました

 

        

 

 

 


姫路城西の丸

2015年07月02日 07時02分52秒 | 旅行

 

 

 

 

                     姫 路 城 西 の 丸

 

 

 

 

 

 

 

平成27年6月28日(日)友達のYさんと2人で、姫路城を見学に行きました。
今日はブログ第2弾目姫路城西の丸をお載せ致します。

◆それではいつもの様に西の丸を少し述べて見ます。

姫路城西の丸には現在は渡櫓とこれを結ぶ長局(ながつぼね)と化粧櫓が現存
する長局には侍女達の部屋が有り、化粧櫓は本多忠政が伊勢桑名から移って
きた時に、千姫の化粧料10万石で元和(1618年)に建てられたものである。
姫路城/西の丸は国宝で日本4城の一つで、織田、と徳川、と浅井の血を引く
戦国姫の城です。

○姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を日女路の丘と称した。「播磨
国風土記」にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。
姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」転じて「鷺山(さぎやま)」とも言
った。天守のある丘が姫山西の丸です。

◆千姫物語

徳川家康の孫娘千姫は、7歳で大坂城の豊臣秀頼のもとへ輿入れしました。
しかし、秀吉死去の後、大阪夏の夫・秀頼は自害し、豊臣家は滅亡。
千姫は燃えさかる炎の中から助け出されました。江戸城へ帰る道中、警護
にあたっていた本多忠政の息子・忠刻と再婚。千姫20歳、忠刻21歳。千姫
の化粧料(持参金)10万石で、姫路城三の丸には武蔵野御殿と呼ばれる千姫
の屋敷が建てられたといわれ、城内の池泉回遊式庭園や高砂沖に船を浮かべ、
仲良く連歌を楽しんだとの話も。勝姫と幸千代の一男一女にも恵まれ「千姫
は・夫・忠刻と暮らした姫路城での生活(10年間)が生涯で一番幸せだった」
と今でも語られています。しかし、長男・幸千代が3歳のとき病亡くなり、
5年後には、夫・忠刻も31歳の若さで病に倒れます。
江戸へ帰った千姫は、髪をおろして「天樹院(てんじゅいん)」と号し、夫
や息子を想いながら竹橋御殿で余生を送り、70年の生涯を閉じました。