広 島 城
平成29年2月4日(土)今日は朝から冬の好天気に恵まれ友達のK君と広島城
と縮景園と護国神社を見学に行きました。広島城は依然私は何回か行きまし
たが、又、見学したく成ったので行きました。
◆それでは少し広島城を述べて見ます。
広島城は、豊臣秀吉の五大老の一人として知られる毛利輝元が築いた平城です。
江戸時代には、福島氏、次いで浅野氏が居城していましたが。
築城以来の天守閣は1931年に国宝に指定されました。現在は武家文化をテーマ
とした歴史資料館で観光名所となって居ります。
広島城天守閣の紹介です。広島城は原爆によりすべての建物が全壊しましたが、
天守閣は昭和33年に再建され、現在、資料や模型等で広島の歴史をする博物館
となっています。広島城は1589年築城された輪郭式平常で、別名は鯉城在間城
(ざいま)当麻城(たいま)とも呼ばれます。名古屋城、岡山城と共に日本三大平城
とされる広大な敷地を誇り、大阪城や岡山城などと近世城郭の城と成って居ります。
◆広島城の歩み
広島城は、太田川河口の三角州に、毛利輝元が築いた典型的な平常です。
◆城地の選定と築城
毛利氏は南北朝時代から郡山城(現広島県安芸田高田市)を支配する戦国大名に成長
しました。後を継いだ孫の輝元は豊臣秀吉の聚楽第・大阪城を見物し、城下町と一
体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感しました。
こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に城地を定め、天正17年(1589)4
月15日鍬入式を行いました。築城工事は穂田元清(元就の子)・二宮就辰(輝元側近)
を普請奉行として急ピッチで進められ、天正18年末には堀と城塁が一応完成し、翌年、
輝元は入城を果たしました。
◆城下の整備
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、輝元に代わって安芸・備後二ケ国(現在の広島県城)
領主として福島正則が入城し、外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させました。
また広島城下を通るように西国街道(山陽道)を南下させたほか、出雲・石見街道を整備し、
その沿道を中心に町人町の大幅な拡充を図りました。しかし、洪水破損した広島城の修築
許可の不備をとがめられた福島正則は元和5年(1619)に芸備二ケ国を没収され、代わって
和歌山から浅野長晟が安芸一国・備後半国の領主として広島城に入りました。
以後明治2年(1869)の版籍奉還までのおよそ250年間浅野氏が12代にわたって広島城を
務めました。