ブログにて日常の記録

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 日常生活=(孫、ジョギング、パソコン教室、その他)

マツダスタジアム広島

2012年09月21日 11時06分59秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

      マツダスタジアム広島

 

 

 

 

 

平成24年9月19日(水)PM18、00分マツダスタジアムの広島
にて、(広島対ヤクルト)の試合を見物に行きました。
広島もヤクルトも3位争いなのですがこの所広島はサッパリで
ヤクルトに直接対決3連敗はするし大変行けません。
この所朝夕は大変涼しく成りましたが、カープはもうひと足早く秋
から冬に成ったような気がします。その中で、プロ初先発の中崎
が6回迄無失点だったことは唯一の救いだったと思います。
次に登板する時が楽しみです。ちなみに私は広島ファンでもヤクルト
ファンでも有りません。
それでは、今日のマツダスタジアムの入場者数は20、624人です。
内野席もだいぶん空席が有ったように思います。

それでは少し広島東洋カープについてお話致します。

  会社名、株式会社 広島東洋カープ

創立昭和31年、優勝回数6回、事務所、広島市南区南蟹屋町
2丁目3-1、電話082-554-1000、本拠地マツダスタジアム
広島、収容人員33、000人、グランド面積12、710㎡、本塁
から左翼迄101m、本塁から右翼迄100m、本塁から中堅迄
122mです。

 


岩国城

2012年09月16日 17時17分30秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

                        岩 国 城

 

 

 

 

 

 

平成24年9月15日(土)今日は又今迄遠方ばかりブログを載せて居
ましたので、今度は少し私達の住んで居る地元の岩国城をブログに載
せて見ようと思います。

それでは岩国城と城下町岩国の沿革を少しお話致します。

岩国地方には、戦国時代の末期、中国地方のほとんど(8ケ国3郡)を
領有し、112万石の大大名となった「毛利氏」も慶弔5年(1600年)、
「関ヶ原の戦い」の後、防長二国に減封され、出雲の国富城(12万石)
にあった「吉川広家」も岩国3万石(のちに6万石)に転封されました。
吉川氏の家系は藤原氏の分かれで、元々関東が地盤でした。「吉川氏」
の初租「経義」は、駿河の国に始まり、正和2年(1313年)5代「経高」
は安芸国に移り、13代(271年)の間活躍しました。
なお、初代岩国藩主「吉川広家」は、サンフレッチェ(3本の矢)の教訓状
を書いた「毛利元就」の子「元春(吉川氏の養子)」の三男に当たります。
岩国藩は271年の間、藩政の方針として文武両面の振興と人材養成、
文化の向上に努め。尚2000余町歩に及ぶ大干拓を行い、産業の振興
、勤勉貯蓄の美風に努めました。この結果、岩国藩の石高は、幕末には
実質10万石以上と言われる程に成りました。

 悲運の岩国城

岩国に移った「吉川広家」は要衝の地横山の山頂に要害を、山麓に居館
を築くことに「慶長8年(1603年)に山頂の起工式を行い、同13年
(1608年)に岩国城が完成しました。横山の三方を迂回する錦川は天然
の外堀で、川向こうに町割を行い、城下町が形成されていました。
緑の山頂にそびえる白亜の天守は、3層4階の上に物見を置くという、桃
山風南蛮造りの山城で、藩象徴として仰がれていましたが、元和元年
(1615年)幕府の「1国1城」により、完成からわずか7年で破却の運命
に見舞われました。以来、山下の居館だけで藩政治が行われました。
第2次世界大戦後、岩国城再建の動きが活発になり、昭和32年には遠く
「ハワイ岩国市人会」をはじめ、市民より多額の募金が寄せられ、復元
されることになりました。起工昭和36年3月12日、竣工昭和37年3月21
日再建された岩国城は、錦帯橋付近からの景観を考え、本丸南側に移動
させました。

 


江田島(旧海軍兵学校)

2012年09月12日 18時49分41秒 | 旅行

 

                江田島
    (旧海軍兵学校)

 

 

 

 

平成24年9月8日(土)旧海軍兵学校を見学に行きました。
少し遅れましたが旧海軍兵学校の模様をお載せ致します。

それでは学びの館、江田島(旧海軍兵学校)の事を少し
  お話致します。

江田島は、広島湾に浮かぶ陽光きらめく瀬戸内海に面した
風光明媚な自然にあふれた島です。明治21年に東京・築
地から移転して来た旧海軍兵学校は、海軍将校養成の地、
若人の憧れの地として全国にその名を知られています。
現在では海上自衛隊の第一術科学校や幹部候補生学校
などになって居ります。
「江田島町立学びの館」は、江田島町の歴史と文化を後世
に伝える場所、又、町民の皆さんに体験学習の場として活
用されるために新築しました。木造2階建て、1階には展示
室・体験学習室・学習室(和室)、2階には展示室・研修室
があります。展示室は、旧海軍兵学校校内に建立されて
いました。八方園神社にちなんで八角形の屋根にしていま
す。外廻りは、日本庭園で囲まれて、訪れる人の憩いの場
として利用していただきたいものと願って居ります。


音戸大橋(平清盛)

2012年09月10日 07時04分37秒 | 旅行

 

          音戸大橋(平清盛)

 

 

 

 

 

平成24年9月8日(土)に音戸大橋(平清盛公像)を見学に行
きました。毎週小旅行(日帰り旅行)にこの所行って居り
ます。
今回は音戸大橋(平清盛公像)と旧海軍兵学校を見学する
ことにしましました。

★では最初に音戸大橋(平清盛公像)からご説明致します。

音戸大橋は、瀬戸内海で初めて本土と島に架けられた橋で、広島
県呉市の本土と倉橋島(旧音戸町)を隔てる音戸の瀬戸の南端最
狭部に建設されました。海上から高位置に架けられた真紅の主橋
幅90mの音戸の瀬戸に架かる主橋染長172mの真紅の橋1000
トン級船舶の航行を可能とするため、らせん式とループ式の取付け
道路をもつ高架橋として、総工費3億6、200万円をかけて1961年
(昭和36年12月)に完成しました。音戸大橋よりはるか山の上に
平清盛公像が有ります。音戸大橋(清盛公像)で有名な音戸です。
平清盛が夕日を招き返して1日で切り開いたという伝説のある名勝
地で、3月下旬から4月上旬には約2300本の桜、4月下旬から5月
初旬には約8300本の紅白のツツジが咲き乱れ、真紅の「音戸大橋」
とマッチした素晴らしい景観が楽しめます。


松山城

2012年09月06日 17時13分15秒 | 旅行

 

                松 山 城

 

 

 

 

 

平成24年9月2日(日)に松山城を見学したのう、記事に載せるのに
少し遅れましたが載せて見ます。

いつものとうり松山城の事について少し述べて見たいと思います。

  松山城の沿革

松山城は、海抜132mの勝山山頂に本丸、中腹に二の丸、山麓に
三の丸(堀の内)を置く連郭式平山城で、敵の侵入を防ぐため、二
の丸を取り囲むように山麓から本丸にかけて、全国的にもめずらし
い「登り石垣」が配されている。松山城の創設者は加藤嘉明である。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康側に従軍し、
その戦功を認められて20万石となった嘉明は、同7年に伊予正木
(愛媛県松前町)から道後平野の中央にある勝山に城郭を移すた
め、普請奉行に足立重信を命じて地割を行い工事に着手した。
翌8年(1603年)10月に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山
という名称が公にされました。その後も工事は継続され、寛永4年
(1627年)になってようやく一応の完成をみた。
当時の天守は五重で偉観を誇ったと伝えられる。しかし嘉明は松
山にあること25年、完成直前の寛永4年(1627年)2月に会津へ
転封される。そのあとへ浦生氏郷の孫忠知が出羽国(山形県)上
の山城から入国し、二の丸の築造を完成したが、寛永11年8月
参勤交代の途中、在城7年目に京都で病没し、跡取りがいないの
で断絶する。その後、寛永12年(1635年)7月伊勢国(三重県)
桑名城主松平定行が伊予松山15万石に封じられた。
寛永16年(1639年)定行は、3年の年月をかけ、築城当時五重
であった天守閣を三重に改築する。これは地盤の弱さに起因する
天守の安全確保とも、江戸幕府に配慮したためともいわれている。


伊予かすり会館

2012年09月03日 19時36分51秒 | 旅行

 

            伊予かすり会館

 

 

 

 

 

 

平成24年9月2日(日)9月に入ったというのに朝から30℃近く迄
温度が有り大変ですが、今日は又友達の村重君と松山の道後でも
日帰りの旅行に行こうと話合い松山城と伊予かすり会館に自動車
にて、見学に行きました。午前7時に岩国インターから山陽自動車
道を通り途中話に夢中になり運転した為しまなみ海道に入るのう通
り過ぎて瀬戸中央自動車道を通り高松自動車道を通り、松山自動車
道を通り松山市内に着いたのが、午後13、00分でした。
少し遠廻りをした為時間がロスしました。

◆それでは最初に伊予かすり会館からご説明致します。

伊予かすりは、今から200年前、温泉郡今出の人「鍵谷カナ」が努力
で苦心のすえ伊予かすりの、元祖たる今出かすりを製織せられた始ま
ります。当時の伊予かすりは農家の婦女、子が余暇を利用して自ら紡
ぎ、自ら織ったものです。
伊予かすり会館共同企画、鍵谷カナ、伊予かすりの創始者として知ら
れる鍵谷カナは、天明2年(1782年)垣生村今出に生まれました、
小さい頃から手先が器用で、人から珍しい服を借りてきては、バラして
は、又縫い直しては着て居たそうです。