ブログにて日常の記録

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仙厳園・反射炉跡

2018年12月12日 09時14分34秒 | 四国88箇所1番~45番迄

                                                仙厳園・反射炉跡

 

 

 

 

 

平成30年11月19日~22日迄九州方面(鹿児島県)に妻と旅行に行きました。
今回のブログ鹿児島旅行もいよいよ最後に成りました。ブログ愛好家の皆様大変
長らく、私の下手くそなブログを見て頂き誠に有難うございました。
今回のブログ第10弾目は、
仙厳園・反射炉跡をお入れ致します。

◆それでは少し仙厳園・反射炉跡を述べて見ます。

歴代島津藩主の別邸であった仙厳園は、雄大な桜島と錦江湾をそれぞれ築山と池
に見立てた壮大なスケールの借景のが美しく、天下の名園といわれ、1958年に
国の名勝に指定されました。仙厳園の入り口明治日本の産業革命遺産とは、幕末
の1850年から明治時代末期の1910年迄に築かれた産業遺産群のことで、23の
構成資産が九州・山口を中心に、全国8エリアに点在しています。
1658年(万治元年)19代島津光久の代にこの地に別邸を構えたのが始まりで、
以後代々の当主に受け継がれてきました。広さは約1万5千坪。名勝として国の
文化財に指定されている名園です。鹿児島県鹿児島市、仙厳園、鹿児島県鹿児島市
吉野町世界遺産「明治日本の産業革命遺産、製鐵、製鋼、造船、石炭産業」構成資
産(旧集成館)仙厳園・国指定名勝です。仙厳園通称磯庭園島津氏は、12世紀末、
源頼朝から島津荘地頭職、薩摩・大隅・日向3ケ国の守護職に任命された推宗忠久
が、島津を名乗ったことに始まります。江戸時代になると、島津氏は、琉球の支配
も認められ、72万石の外様大名として南九州全域を治めました。


仙厳園

2018年12月08日 09時26分57秒 | 四国88箇所1番~45番迄

                                                          仙 厳 園

 

 

 

 

 

平成30年11月19日~22日迄九州方面(鹿児島県)に妻と旅行に行きました。
今回のブログは第9弾目、仙厳園をお載せ致します。

◆それではいつもの様に仙厳園を少し述べて見ます。

島津家別邸「仙厳園」は日本を代表する大名庭園で、桜島を臨む雄大な庭園
に加え、殿様が暮らした御殿があり、お食事やお土産物、鹿児島を代表する
工芸品「薩摩切子」や「薩摩焼」をはじめ、焼酎や黒酢、さつまいもを使った
お菓子まで、鹿児島の特産品が有ります。
万治元年(1658)に19代島津光久によって築かれた島津家の別邸です。
28代島津斉彬もこよなく愛し、篤姫など多くの人を魅了しました。桜島を築山
に、錦江湾を池に見立てた雄大な景観を楽しむことができます。
およそ1万5千坪の広大な庭園には、四季折々の花が見物出来ます。仙厳園は、
磯の御殿とも言う薩摩・島津家の別邸跡で、素晴らしい庭園などが残っており
国の名勝に指定されました。1888年(明治21年)からは焼失した鹿児島城に代
わって、島津忠義公爵の住まいとなりました。2018年7月24日「西郷どん」
のロケ地にもなった仙厳園は、19代島津光久によって築かれた薩摩藩主島津家
の別邸で鹿児島ならではの雄大な景色や歴史が有ります。
ちなみに、仙厳園のある鹿児島市にも温泉付きの宿やホテルはたくさん有ります
のでご安心を。仙厳園は鹿児島ではあまりにも有名な観光地です。
ここを訪れる方も多いと思もいます。鹿児島には桜島の火山灰が良く降るので、
鹿児島市民には特別なゴミ袋が配られています。名付けて「克灰袋」と呼ばれて
居ります。


西郷隆盛 パート1

2018年12月06日 15時49分08秒 | 旅行

                                                西郷隆盛 パート2

 

 

 

 

 

平成30年11月19日~22日迄九州方面(鹿児島県)に妻と旅行に行きました。
今回はブログ第8弾目、西郷隆盛が城山にて銃弾に有って切腹して部下に首
をはねてもらった場所を撮影しましたので良く見て下さいませ。

◆それでは少し西郷隆盛をお話し致します。

多くの日本人より親しまれる西郷どんに関して、詳しくも解かりやすく年表
も含めてまとめてみる。西郷隆盛は1827年12月7日に、薩摩国鹿児島城下
加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)で生まれました。
西郷隆盛を尊崇する政治家は多い。その中の一人犬養毅がこんなことを述べて
いる。「南洲先生(西郷隆盛)が月照上人と海に入られた迄の先生は学び得られ
るが、その以後の先生は人間離れがしているような感じがします。
1877年、明治政府内の征韓論に敗れた西郷隆盛ら士族が起こした国内最大の
内乱。司馬遼太郎の小説「翔(と)ぶが琶ごとく」でも知られる。
薩摩軍は熊本城を包囲したが落とせずに北上。熊本城への幹線道だった田原坂
(熊本県植木町)で明治10年3月に、政府軍と激突しましたがここでも敗れました。
西郷隆盛は明治10年(1877)9月19日~24日未明に至る6日間、この洞窟で
起居した。しかも、薩摩軍と政府軍との城山攻防戦という西南戦争の最終
段階において、政府軍の城山包囲網の中、西郷隆盛はこの洞窟で過ごし、
最後まで薩摩軍の指揮をとっていました。最後は腰に銃弾か当たり切腹して、
部下に命令して首を落としてもらいました。


西郷隆盛 

2018年12月05日 19時04分15秒 | 四国88箇所1番~45番迄

                                                               西郷隆盛 

 

 

 

 

平成30年11月19日~22日迄九州方面(鹿児島県)に妻と旅行に行きました。
今回はブログ第7弾目、西郷隆盛をお載せ致します。

◆それでは少し西郷隆盛を述べて見ます。

薩摩藩の下級武士の長男に生まれました。3歳年下の幼なじみに大久保利通
がいます。13歳の時、仲間の喧嘩を止めに入り、その時の傷が元で刀を自由
に振れなくなってしまいました。
武道を諦め、学問に励み、薩摩の為に尽力しました。西郷隆盛には2番目の妻
・(愛加那)との間に2人、3番目の妻、糸子との間に3人の子供が居ました。
早くに父と死に別れた彼らは、どんな人生を歩んだのでしょうか。
父譲りの才能を発揮した者、不幸な結婚生活をした者、そんな様々な人生模様
をえがいて居ます。西郷隆盛(西郷吉之助)は「評価の難しい人だ」とよく言わ
れます。それはそうでしょう。彼の生涯は、歴史の授業で習うような「薩長同盟」
や「討幕・維新」だけでは、とても収まりきりません。
若かりし頃は二度も島送りにされたり、入水自殺を試みましたが、死に切れません
でした。日本の歴史上、最後の内戦となった西南戦争。その中心人物とされる
西郷隆盛は、明治維新での華ばかしい活躍から一転、逆賊の名を背負うことになり、
非難され、自害してこの世を去ります。


桜島 

2018年12月04日 18時42分08秒 | 旅行

                                                                     桜  島 

 

 

 

 

平成30年11月19日~22日迄九州方面(鹿児島県)に妻と旅行に行きました。
今回のブログは第6弾目、桜島をお載せ致します。

◆それではいつもの様に桜島を少しお話致します。

桜島は、日本の九州南部、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にある東西約12㎞、
南北約10㎞、周囲約55㎞、面積約77平方K㎡の火山。かっては島であったが、
1914年(大正3年)の噴火により、鹿児島市の対岸の大隅半島と陸続きになり
ました。概要、桜島は姶良(あいら)カルデラ(南北17㎞、東西23㎞)の南緑部
に生じた安山岩~デイサイトの成層火山で、北岳、中岳、南岳の3峰と権現山、
引ノ平などの側火山からなり、人口が密集する鹿児島市の市街地に近接している。
有史以降の山頂噴火をして居ります。
鹿児島と言ったら、やっぱり桜島。どーんと構えた桜島を取り巻く観光スポット
を堪能する旅へ誘います。あたり一面に広がる溶岩源の光景に感動する有村溶岸
展望所をはじめ、100年の年時を感じる遊歩道の溶岩なぎさ遊歩道噴火の壮絶さ
を物語る展望所です。


出水武家屋敷

2018年12月03日 16時28分32秒 | 四国88箇所1番~45番迄

                                                          出水武家屋敷

 

 

 

 

平成30年11月19日~22日迄九州方面(鹿児島県)に妻と旅行に行きました。
今回はブログ第5弾目出水(武家屋敷)をお載せ致します。

◆それではいつもの様に出水(武家屋敷)を少し述べて見ます。

江戸時代、薩摩藩は鶴丸城を本城とし、領内各地に外城(とじょう)と呼ばれる
行政区画を設け統治に当たっていた。また、外城における統治の中心地を麓(ふ
もと)と呼んだ。
当時の出水外城に麓は平良川左岸の「向江」と現在「重要伝統的建造物群保存地
区」になっている「高屋敷」の両武家地、そして間に挟まれた町人地(本町・中町
・紺屋町)からなっていた。
「出水市出水麓伝統的建造物保存地区」は、市のほぼ中央に位置し、約400年前
から30年程の歳月をかけて城山から米ノ津川に続く起伏の多い丘を整地し、道路
を掘り、川石で石垣を築いて作られたと伝えれている。
現在でも、建設当時から改変されることの少なかった街路、その両側に築かれた
石垣や生垣、庭の木々が武家門や垣間見える武家屋敷とあいまって、落ち着いた
街路景観を醸し出して居ます。


出水市のツル

2018年12月03日 08時52分46秒 | 四国88箇所1番~45番迄

                                                         出水市のツル

 

 

 

 

 

平成30年11月19日~22日迄九州方面(鹿児島県)に妻と旅行にいきました。
今回はブログ第4弾目出水市のツルをお載せ致します。

◆それでは少し出水市のツルを述べて見ます。

日本最大のツルの渡来地である出水には、毎年10月中旬から12月頃にかけて、
1万2,000羽を超えるツルが越冬のためシベニアから渡来。出水に渡来するツル
を見るなら、ツルのねぐらとなっている干拓地の目の前に建つ「出水市ツル観察
センター」がオススメです。10月中旬~3月頃にかけて出水平野の水田地帯には
越冬のため1万2,
000羽を超えるツルたちが渡来します。
出水市ではツルの渡来シーズン中、ツルの羽数調査が行われます。シーズン中の
羽数調査で記録した一番大きな数値がそのシーズンの最高羽数です。
鹿児島県出水市の公式HPです。出水には、国指定の特別天然記念物「ツル」が、
越冬のために遠くロシアのシベリアや中国東北地方から渡ってきます。
天空を乱舞するツルの神秘的な姿を一度ご覧になりませんか? 皆様
のおこしを
心よりお待ちして居ります。