萩城跡 パート2
平成27年2月21日(土)M君と2人で萩方面にドライブ旅行に行きました。
萩方面のブログも後2個で終了です。今回はブログ第6弾目を載せて見ます。
◆それではいつもの様に萩城跡を少し述べて見ます。
萩築城の由来と構造地
慶長5年、毛利氏は関ヶ原の戦いに敗れた結果中国地8か国の領地を削られ周防、
長門(現在の山口県)2か国36万9千余り石の領主に移封されました。
そこで輝元は居城として防府、山口、萩の3か所を候補地として徳川幕府の意向を
伺い、萩指月山麓に築城することになりました。慶長9年(1604)着工、同13年
竣工。これより文久3年(1863)第13代藩主敬親が幕府を山口に移転するまでの
260年間、政治の中心地でありました。明治7年天守閣、居館を解体しました。
萩城は平山城の形式に属し阿武川デルタの根元を横断し外堀とし、その外を城下町
とし内を城郭とした。外堀の内に三の丸を置き、中堀を掘って二の丸を設け、二の
丸の内側に内堀をめぐらして本丸を指月山麓に構えた。さらに指月山頂には詰丸を
設けている。
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
厚狭に封地を持つ分家毛利氏の萩屋敷の全長51.5mの長大な長屋で、屋根は一重入母
屋造瓦ぶき、出格子5ケ所、格子窓6ケ所、式台および縁付で仲間部屋もある代表的な
武家屋敷長屋で、国の重要文化財。
天守閣跡
本丸の南西に当たる位置に高さ14.4m下層は東西19.8m南北16.2mの5層の天守閣
がありました。最上層は勾欄をめぐらした桃山初期の形式を示す白亜のもので、初層
が石垣の外に張り出し府射装置として利用できるようになっていました。
銃眼土塀
萩城の石垣の上には、鉄砲を撃つための四角い穴を開けた銃眼土塀が巡っていました。
この土塀は、昭和40年に一部復元したものです。