しょっちゅうあるんです。メールチェックの怠り。
メールをくださる方、時々気づかず失礼して本当に御免なさい
で、今日もメールを開いてみたら、8日の日に友人からメールが届いていました
先月、mcnjさんのクリスマスローズを届けた、南相馬市の友人からです。
お嫁入りの3つのクリローちゃん、元気にしてますよ~のお便りでした。
彼女の家は警戒区域にある双葉町なので、未だに帰れずアパート暮らし・・・・
植物が大好きで、庭にはハーブやベリー類、季節の草花をいっぱいに育てていた彼女、花の無い生活はさぞ殺伐と感じていたのではないでしょうか。
mcnjさんのご好意で届けたクリスマスローズに、彼女は大喜び!
可愛いテラコッタの鉢に衣替えをして、幸せそうです。
彼女、毎朝このクリローちゃんたちに挨拶をして出勤しているそうです
mcnjさん、ありがとうございました。彼女からよろしくお伝え下さいとのことでした。
元気なクリローちゃんの姿をお見せしたくて、ブログアップさせていただきました。
ozさん作
先週の木曜日の夜、mcnjさんから届いたクリスマスローズ。
一昼夜トラックに揺られてやってきた可愛いクリスマスローズたち。
窮屈な段ボール箱から出してあげたばかりの姿ですが、とても元気でした。
このクリスマスローズたち、実は一時的に我が家でお預かりしている大切なお嬢さん。
明日、双葉町から南相馬市に原発避難している友人のところへお嫁入りします。
緑の手を持つ友人は、自宅の庭でハーブや花をたくさん育てていて、
庭に茂ったハーブはお料理に、お花はドライフラワーやリースにと、種まきからアフターガーデンまで植物を可愛がっていました。
そんな彼女に、震災の2か月と少し前、クリスマスの頃だったでしょうか。
mcnjさんからいただいたクリスマスローズの苗と、種から発芽させた小さな苗を持って会いに行きました。
小さな苗たちが彼女の庭ですくすくと育ち、一画がクリスマスローズで覆われるのを想像するだけで楽しくなる私でした。
ところがその数か月後に、あの震災と原発事故。
彼女は勤め先の高校で被災し、着の身着のままで一次避難、二次避難と・・・
途中の避難所でご主人やお義母様と合流した彼女は、自宅がどうなっているのか確かめる術もなく数か月を過ごしました。
一時帰宅を許されたころは、お庭は荒れ放題だったそう。
残念ながらクリスマスローズも・・・
今回、mcnjさんのご好意で彼女に再びクリスマスローズを届けることができます。
ご友人に差し上げるならと、お花が付いた大きな鉢を送ってくださいました。
明日、夫の実家のお墓参りに行きながら彼女の許へ届けます。
mcnjさん、ホントにありがとう ♥
ozさん作
昨夜からの雪で、またもや白い綿帽子を被ったmint地方。
春の雪の重みで、庭木もいささか項垂れ気味。
3月11日の昨日、今に降りそうな寒い曇天の中、「原発いらない」のスローガンを掲げ大規模な集会が、郡山で開かれました。
主催者側によると、全国から16000人が集結したそうです。
昨日の夜はそのことを記事にしようとPCに向かいましたが、どんなに言葉を探しても思いを語れそうもないもどかしさに書くことを諦めました。
大江健三郎氏の、「人間的に生きる」という言葉と、代表で訴えた女子高生の「原発さえなければ、被害に遭った人を助けられました」という言葉が体内に入りずっしりと腰を下ろしています。
震災がもたらした悲しみ、苦しみ、不安は、被災地の人だけではなく、それを知った多くの人たちの数ほどあるのだと思います。
「福島」が「フクシマ」で語られるとき、複雑な思いがします。
「福島」と「フクシマ」を背負って生きていく子どもたちのために、大人が果たすべき責任は何なのか。
福島で暮らす覚悟をし、人間的に生きることを考える。
双葉町に住んでいた友人が以前作ってくれたリースに、キャンドルを灯して・・・
3月11日が日曜日だったので、家族と一緒に考えるいい機会でもありました。
失われた尊い命を忘れない。
この地球は、未来に生きる人たちと共有しているのだということを忘れない。
3.11を忘れない。
ozさん作
今日から5分粥の食事を終えた昼下がりの病室に、
突然「メリークリスマス」
白いお髭のサンタさんがやって来ました
そして、一足早いクリスマスプレゼントが・・・・・。
なんとも微笑ましい演出に、夫と顔を見合わせ思わず笑みがこぼれてしまいました。
クリスチャンではないのに、クリスマスが近づくと心がときめくのは何故?
大人になっても、どこかでサンタを待ちわびているのかもしれないですね(笑)
今日は思いがけず嬉しいひと時をプレゼントされ、心がほっこり温まりました
ozさん作
昨日は皆既月食でしたけど、皆さんはご覧になったでしょうか?
私が気付いたときにはもう零時を過ぎていて、慌てて外へ出たときにはご覧の様なお月様。
満ち欠けの天体ショーは終わっていましたが、まだ赤みが残っていたお月様。
なんとも幻想的です。
こんな月には、ナットキングコールのFly me to the moon
そして朝は、私にとって初見の雪。
地面の雪は消えてしまったけれど、車をうっすらと覆った雪が残っていました。
3.11から9か月。
あの日も午後から雪が舞い、夜には道路も屋根も白く薄化粧していました。
あの深々と降る白い雪と一緒に、放射能物質が下りてきていたなんて・・・
放射能物質も、雪のように融けて消えたらいいのに。
ozさん作
前日からの雨が上がり、薄日が差していた朝。
ゴミ出しに行ったゴミステーションの脇で、見つけた偶然の芸術品?
道路脇の側溝を覆うコンクリートの蓋が雨を含んで鈍色に沈み、もみじ葉の色がきれいに浮き立って見えた。
ゴミステーションの横、しかも言うなればどぶ板の上。
美しいものは、どんなところにあったも美しい。飾らずとも。
濡れ落ち葉とは言うけれど、妻にひっつく暇な夫を比喩するにはもったいないな~(笑)
我が家のブルーベリーも、雨に洗われて鮮やかな濡れ落ち葉。
あちこちに蔓延っているアップルミントとコラボして、狭い庭なのに手を入れてないのがバレバレ(^_^;)
雨露に 打たるればこそ 紅葉葉の
錦を飾る 秋はありけれ
沢庵和尚
沢庵和尚の次は空也上人(笑)
いただきました!空也の最中。夏目漱石も大好きだった(という噂)空也の最中。
銀座4丁目に事務所を構えていらっしゃる先生が、覗いてみたらたまたまあったのでお土産に買ってきてくださったとのこと。
予約なしではなかなか買えない空也の最中です。
人気のお店なのに、支店は出さない、デパ地下にも出店しない、ネット販売もしない、でもお値段はとっても庶民的。
先代の言いつけを守り、丁寧に丁寧に作り続けられています。
職人気質を感じさせますよね~。
香ばしい皮と、甘さ控えめの丁寧に練られた餡。ついもう一つ・・・(笑)
ozさん作
二度のドレナージ術と抗生剤の投与ももうすぐ6週間。脳内の炎症もだいぶ良くなってきた。
点滴の血管痛でカテーテルを入れたり、麻痺している左腕の重みで肩が脱臼したり、左半身を支える右手首が腱鞘炎を起こしたりと、新たなトラブルも発症しているが、ほんの少しではあるけれど毎日新しい反応を見せる身体に本人も驚きながら、リハビリに臨む妹の姿はひたむきだ。
10月から姪が仕事を辞めて妹に付き添うようになったので、私の付添の役目は週に2度ほどになった。
何日かおいて逢うと、リハビリの成果がとても大きく感じる。
今では1日に2回のリハビリなので夕方にはさすがに疲れるようだが、おかげで食欲も増し、病院食も不味いと言いながらも4割ほど食べるようになった。
おやつにと、行くたびにイチジクや洋ナシ、りんごなどをコンポートにして差し入れていたが、最近ではお菓子も食べるようになった。私が付き添うとおやつタイムが多くなると笑う。
抗生剤の副作用か、血液検査で肝臓に少し問題が出たが食事制限は無く、先生からもどんどん差し入れをして良いとのお許しも出た。なんなら、外食をしてもよいと。
でも、医大の周りって何もないよね~と妹と顔を見合わせて苦笑。
せめて、お弁当を作ってドライブでも出かけようかと相談中。
麻痺した左半身が100%元通りになるという保証は無いけれど、リハビリ室では片足を失った人や、両足を切断した人もリハビリに励んでいる。
一時は、動かない足ならいらないと言った彼女だったが、今は麻痺している左手左足の重みもありがたいと思えると言う。
そんな彼女の思いが通じてか、左手の指先が記憶を取り戻したかのように、一昨日からほんの少しではあるけれど動き出した。そしてそれは手首に伝わり肘も反応を始めている。
先週、ほんの数秒間だったけれどベッドの柵につかまり、立って見た夕焼け。
ozさん作
9月16日
ドレナージ術で綺麗に排膿しても、浮腫の炎症はすぐには治まらないので劇的によくなるわけではない。
細菌をやっつけるためたくさんの抗生剤やステロイドを使うことになる。
抗生剤やステロイドなどの点滴が、ベッド脇のスタンドと天井に葡萄のようにぶら下がる。
取り出した膿は培養検査をし、起炎菌が特定された後、より適切な抗生物質に変えていくのだが、決が出るまで早くても1週間はかかる。
重症感染チームと連携し起因菌を検討しながら投与していくことになる。
頭痛は大分楽になった様子だが相変わらず食欲がない。
午前中、頭にチューブリを刺した状態だがハビリの先生が来て手足を動かしてもらう。
お昼前には、排膿のチューブが外され、翌日からシャンプーのお許しも出る。
K先生から、病院食に拘らず何を食べてもいいので、好きなものをたくさん食べて免疫力を高めるように言われる。
もともと食が細い妹だが、病院食には手を付けず差し入れのサンドウィッチを少しと、葡萄を数粒食べただけ。
直ぐに吐き気を催し、食べることを止めてしまう。
夕方になると、熱が7.9℃。
夕方、甥が連休を利用して帰省し、病院に泊まってくれると言うので私は郡山に帰る。
9月19日(月・敬老の日)
夫は仕事だったので、長男と次男を連れてお見舞い。甥が
やはり顔と左手が浮腫んでいる。
声をかけても、目を閉じたままで反応したり、食後の薬をあげようとしてもなかなか口を開かなかったり。
検温や血圧測定も、眠っているかのよう。
家からCDプレーヤーを持ってきたので、音楽を流してみる。
音楽が流れる方に首を傾ける。
9月20日(火)
妹の家族はそれぞれ仕事があるので、今日からは私が病院に泊まることにした。次男の運転で朝8時に病院着。
次男が自営業なので、こんな時はとても助かる。この先も次男には相当助けてもらうことになる。
妹の方は、声をかけても反応が緩慢で、眠っているのか意識が遠くなっているのか判断しにくい状態が昨日から続いていいる。
そして、時々吐き気。まるで、手術をする前に戻ってしまったかのようで不安。
午後、造影剤を入れてCT検査の結果、再び膿が溜まり始めているとのこと。
一回目の手術で排膿はできたが、周りの浮腫が大きく炎症が強いことと、排膿しても膿瘍を形成している被膜が硬くなかなか小さくならないことが原因らしい。
前回と同じ場所に施術をすることになる。
前回吸引した膿の培養検査の結果がまだ出ていないのに・・・
主治医のK先生が出張のため、担当医のI先生からインフォームド・コンセントを受け、義弟にはI先生が連絡をしてくれる。
付添が私一人のため、夫が事務所から駆けつけてくれる。
手術室が空くまで待つ間に、K先生が出張から戻り手術を執刀。
手術時間は。4時20分~6時10分。
前回より早く終わるが、ドレナージ術はそう何回もできないので、再び膿が溜まるようであれば開頭手術もあり得るという。
ただ、開頭手術は脳内の損傷や後遺症などの危険が高まるのでできるだけ避けたいとのこと。
夜11時、K先生が妹の様子を見に病室に来る。
頭痛の他に首や背中の痛みを訴えるので、鎮痛剤を処方してもらう。
看護士が2時間毎に、血圧や酸素の測定、点滴交換に来る。
深夜3時にお通じ。
ドレナージのチューブが付いているため、逆流防止の処置をしてから身体を起こす。
チューブだらけの妹を、優しくテキパキと扱う看護士さんには本当に脱帽!
その間にも看護士さんのポケットにぶら下がる医療用携帯がなり、他の看護士さんが廊下をパタパタと駆けていく。
何かあれば、遠慮なく呼んでくださいねと妹の胸にナースコールを置いて行く。
廊下の何処から、「お~い、お~い」と1分おきに呼ぶ老人らしき声が聞こえ、長い長い夜が流れていく。
9月21日(水)
朝7時20分。K先生。排膿の様子をチェックに来る。
今回はすぐに外さず様子を見ることにすると言う。ただ感染の危険もあるのであまり長くは刺しておけないとのこと。
培養検査の結果はまだだが、嫌気性菌の疑いが大きいので適宜試している。結果が出次第適切な抗生剤に移行するとのお話だった。
何にしても、どういう経路で脳に細菌が飛んだのか原因を突き止める必要があるという。
ドレナージのチューブを付けていると、食事、トイレ、リハビリなど体を起こす毎に逆流防止の処置をしなければならないので専属の看護士さんが欲しいくらい。
頭からはドレナージのチューブ、腕からは点滴のチューブ、お腹からは導尿カテーテル・・・チューブだらけの妹。
リハビリと体拭きの後、病室で呼吸器内科の先生から問診。
肺動静脈奇形は、小さな奇形なので開胸しないで治療できる可能性が大きいとのこと。
遺伝性のことが多いので、家族にはいないかどうか聞かれるが発症した者はいないが、抱えているものがいるかどうかは不明。
身体が回復したら胸部CT検査をし、検討していくとのこと。
午後、膿の培養検査の結果が、嫌気性菌とブドウ球菌と分かる。
抗生剤の量をマックスに使うことになるのでアレルギー反応にも注意する必要あり。
夕方、歯科口腔外科の診察。細菌の侵入が歯科経路の疑いもあるため。
今日の所は異常なしだが、レントゲンを撮らないと分からない部分もあるので、体力が回復してから再検査。
夕食の後、足をマッサージしていると妹が突然涙を流し、「こんな動かない手と足ならいらない!」って言い出した。
「なんてもったいないことを言うの!今触ってるの、感じるでしょ?50年以上もあなたのために働いた手と足なのに。動きたくても今は脳が命令できない状態だから、待っているだけ。あなたに見放されたら可哀想な手足なのよ」
妹は、泣き笑いみたいな表情で暫くいたけれど、「うん、そうだね」って一言だけ。
台風の影響で、県内のあちらこちら被害が出ている様子だが、病室にいると外の様子が全く分からない。
毎日のように妹を見舞ってくれる義父母は、台風のさ中もスタバのコーヒーと昼食を私のために差し入れに来てくださる。
義父母は80歳を過ぎており、お義母様は甲状腺癌を手術しているし、お義父様は10年前までは運転手がいたので自分では車を運転しない。
毎日お見舞いに通うのも大変なことじゃないかと思うが、そんな義父母にも親不孝だと妹は泣く。
9月22日(木)
リハビリ。まだ頭のチューブは外せていないが、逆流防止の処置をしてベッドの上に起き上がってみる。
眩暈がするのか目線が泳いで視点が定まらない。頭が項垂れてしまう。横になりますかと言われたが、もう少し起きていたいと妹。
肩や背中の痛みを訴えていた妹は、もう2度とマットには横たわりたくないかのように必死で起きている。
身体が傾いている感覚、首が項垂れている感覚が分からないという。
ただマットから解放された感覚だけのようだ。長時間ドレナージを止めておくことはできないので、再びベッドに横になると、
「お寿司が食べたいな~」と呟く。
昨日のメソメソが嘘のように、今日は前向き。
明日からまた連休なので今夜は義弟と付添を交代の予定。夫が迎えに来てくれるので、鮨よしのお寿司を頼む。
夫が到着し、お寿司を食べ始めたところに義弟も帰って来たので、夫と私は病室を後にした。
9月23日(金・秋分の日)
CTの結果、膿は綺麗に排出されたのでドレナージのチューブが取れたと義弟から連絡が入った。
ちょうどお墓参りに来ていた時だったので、墓前で父と弟に報告する。少しだけホッとする。
* * * * *
今は、日一日と良い方向に向かっているので、病室を訪ねるのも楽しみ。
こうして妹の病気を振り返れるのも、良くなっているのが分かるからだと思う。
妹に付き添い励ましてあげているつもりが、妹の頑張りを見ていると、実は私の方が励まされているように感じるこの頃。
ozさん作
シデコブシの実。
花からはちょっと想像できないような変な実ですけど、皮を脱ぎ捨てると真っ赤な宝石のような実が現れてちょっとゴージャス。
9月15日 つづき
A病院の救急車で医大へ搬送され、救急外来の待合室で、どのくらい待っただろうか。
私が担当医師のKですと現れたのは、息子とさほど変わらないような若い医師(ちょっと不安)。
K先生は、送られてきた画像を見る限りではA病院と大体同じ所見だと言う。
ただ、症状の悪化が早過ぎるのが気になるので詳しいお話を聞かせてくださいと言われ、妹の旦那さんと気づいた限りのことをお話をさせていただいた。
妹が1か月半くらい前に歯の治療をしたことと、病状の経過をみて脳膿瘍の疑いもあると言われ、送られてきた資料に膿瘍を見る画像が無かったことから、もう一度MRI検査を受けることになった。
検査の結果、脳腫瘍より脳膿瘍の疑いが強くなり、緊急に膿を排出するドレナージ術が必要だと言われた。
しかし、脳腫瘍の疑いが全くなくなったわけではなかった。
主治医のK先生、ほかに3人の担当医がついて手術への準備が始まった。
K先生は妹に、これから始める手術のことを説明し、一緒に頑張りましょうと声をかけた。
脳膿瘍・・・私にとっては初めて耳にする病名。
本来無菌状態であるはずの脳内に細菌が入り、化膿性の炎症を起こし、進行するにつれて膿が溜まり膿瘍を形成していくという病気だ。
発熱や嘔吐とともに半身麻痺や言語障害などが起こり、手遅れになると重篤な髄膜炎や脳炎をきたす恐れがあると言う。
そして、手術前に本人に代わり、義弟と私と夫で、K先生からインフォームド・コンセントを受ける。
病名は「脳膿瘍」と「肺動静脈奇形」
(手術前のCTで、ごく小さなものだが肺に動静脈奇形が見つかった)
手術は穿頭ドレナージ術と言って、頭蓋骨に1.5cmの穴を穿ち、そこから膿の中に細いチューブを挿入し、脳内の膿を可能な限り排出する手術で、手術自体はそれほど困難なものではなさそうだったが、膿の中に細菌が入り込んでいる状態なので、少しの傷で膿が脳表面に漏れ出すことが怖い。
術後は、脳の炎症を抑え浮腫を軽減するために十分な抗生物質とステロイドの投与が必要になるので、副作用も心配。
午後7時30分頃手術室に入る。
途中、一番重要な部分を終えましたと、担当医の一人が経過を知らせに来てくれた。
手術が無事終了し、10時10分に妹が病室に戻ってきた。
K先生から、取り出した膿を見せられ、病状と今後の治療の説明を受ける。
分かりやすい言葉で、丁寧に説明していただいた。
ドレナージで膿を輩出したのは、治療の第一歩。
これから、抗生剤やステロイドをたくさん使うことになる。不安は残るけれど耐えてねと祈るしかない。
* * * * *
記事は過去に遡って書いています。
今妹は、右手の力だけでベッドの上に起き上がれるようになりました。
麻痺している左手はだらんと下がっている重みで肩を脱臼してしまいましたが、使わないと筋肉が衰えるので固定はせずに、リハビリの時と食事の時は三角巾で吊っています。
一日2回のリハビリのお蔭で、食欲も徐々に出てきています。 先生や看護師さんたちが食べたことを褒めるので、食べただけで褒めてもらえるなんてと苦笑いをしています。
ozさん作
大学病院に隣接する医大の中庭。
ガサガサと落ち葉を踏みしめる音と、はちみつ色の午後の日差しが交差する。
空気が冷え込む前に、妹をこの気持ちのいいベンチに連れてきたいな。
今週は、水・木・金の二泊三日の病院でした。
今夜はとうとう雨。
あのベンチにも降っているのだろうな。
9月15日
午前9時30分から主治医と面談の日。A病院では心配だと言っていた夫も同席すると言うので、8時に一緒に家を出て9時前に病院に着いた。
病室に入ると、今まで夜は付き添っていなかった部屋に簡易ベッドが置いてあり、義弟が付き添った様子。
左半身の麻痺が進んだ妹は、自分では起き上がることも歩くこともできないので全て看護士さんの手を借りていたのだが、昨夜ベッド脇のポータブルトイレに座らせてもらった時に、終わったら呼んでくださいとその場に一人になり、いざ看護士さんを呼ぼうとしたらナースコールが届かない。
もちろん声を出しても届かない。
ナースコールを取ろうと無理に手を伸ばし、ポータブルトイレから転げ落ちて、頭と腰を打ってしまった。
右おでこに小さなコブと左臀部に大きな痣ができていた。
一人になるのを極度に怖がった妹は、夜中にもかかわらず旦那さんを呼び出して、付添ってもらったということだった。
朝の回診に来た主治医に、思わず強い口調で転倒したことについて抗議してしまった。
9時30分ちょうどに、面談室に案内される。
部屋には主治医の先生、看護士さん、病院のスタッフと思われる人、義弟、夫、私の6人。
先生がMRIとCTの画像を開き、開口一番に言ったのは「県立医大に移ってもらおうと思っています。」という言葉。
転移性の腫瘍の疑いもあるので、もっと検査機関の揃ったところの方がいいと思うので、という理由だった。
昨日の夕方とは大きく違う展開になったが、大学病院に移るという判断には同意できたので、もう細かいことは言うまいと思った。
ただ、先生方がたくさんの患者さんを抱えて大変なのはわかるが、患者と接する時は、近くに寄りしっかり目を見て励ますような態度を見せてほしかった、そして、動けない患者にナースコールを持たせずにその場を離れることは、大きな医療ミスに繋がる危険があるのではないかということだけは、申し添えた。
主治医の先生も、大変申し訳ない、病院側でも十分話し合って向上に努めますと真摯に応えてくれた。
それから、主治医の先生は、「これが腫瘍で隣が浮腫・・・」と説明を始めたが、あまり頭には入らなかった。ネットで検索したのと同じような話だったように思う。
ただ最後に、悪性だとすれば、術後一年の生存率は37%と言われています、という言葉だけがやたらゆっくりと丁寧に響いて、面談が終わっても直ぐに妹の病室には戻れなかった。
医大に転院すると分かり、夫は自分の出る幕が無くなりとりあえず会社へと戻った。
ようやく病室へ戻ると、転倒による影響がないか念のためレントゲンを撮りに行ったということで、ベッドごと妹はいなかった。
レントゲンの結果は異状なしで一安心だったけれど、問題は、転院のことを妹にどう説明しようかということだった。
義弟とあれこれ考えを巡らせているときに主治医の先生が来て、今度は妹の顔を覗き込み、しっかり目を見て肩に手を置き「もう少し詳しい検査が必要なので、医大に移ってもらいます・・・云々」と説明をしてくれた。
やはり医師の言葉は説得力があり、妹もホッとした様子の表情だったし、今日の先生はやけに優しいと言って笑った。
お昼近くに先生が現れ、「これから、医大の受け入れ準備ができ次第当院の救急車で移動します」とのこと。
まさか今日とは思っていなかったので、ちょっと驚いたが身の回りのものも少ないので、片づけをして呼ばれるのを待つ。
私が救急車の妹に付き添うことに。
救急車は初体験と苦笑いの妹に、私は父の梗塞と母のメニエールの時2回乗ったわと言うと、妹が、私は親不孝な娘だと突然泣き出す。
「治ったら、嫌というほど孝行すればいいでしょ。」と言ってみたけれど、多分平行線は交わらないなと思った。
その後は、努めて笑えるような明るい話題を探した。
救急車はけたたましい音を立てながらいくつも角を曲がり、街中を抜け、小高い山に建つ福島県立医科大付属病院へと走った。
つづく
ozさん作