
やはり,「本物」に触れる機会という観点から見ると,「東京一極集中」という現実は,厳然としてある,と言わざるを得ない。
念願だったフェルメールを堪能した直後に,その隣にあるコルビュジエ設計の美術館で,「北欧のフェルメール」とも呼ばれているというデンマークの画家ヴィルヘルム・ハンマースホイの作品に浸る,という贅沢は,世界中何処の街でも出来る芸当ではないはずだ。
「フェルメール展」という厳しい闘い(前記事参照)を終えた後,一旦アメ横に後退して昼食を摂り,体勢を立て直して向かった先は,東京都美術館の手前に位置し,世界遺産にも推薦された「国立西洋美術館」。採光という,美術館に求められる基本的な機能からフォルムを展開していったように見えるコルビュジエの傑作建築物は,あらゆる美術品にとっての晴れ舞台として,輝くように,しかし新宿の東京都庁舎の対極にあるようなひっそりとした佇まいで,そこに建っていた。
そんな美術館の地下深くに展示されていたハンマースホイ作品は,写実的に描いた日常の風景から微かにはみ出た非日常の痕跡が,観るもののバランス感覚を揺さぶるように囁きかけてくるものばかりだった。村上春樹の作品に出てきた,真夜中になると通り抜けられる「壁」を連想させる取っ手のない扉の絵からは,イングマール・ベルイマンの「叫びとささやき」から,赤い色を抜き取った画面を観ているかのような印象を受けた。
疲れ切った後ろ姿を描いて「休息」と名付けられた妻がどう思っていたのかは知る由もないが,浮遊する生活感と疲労感と虚無が混ざり合って生み出す空気が,不思議な歪みを感じさせながらも,決して暗くならないところが,この作家の魅力の源泉かもしれない。
一見すると普通の室内を描いた絵なのに,よく観ると,窓辺から入る光がテーブルの脚とピアノの脚に当たって作る影の方向がバラバラなだけでなく,椅子に載せた妻の足が椅子の脚と一体化してしまっている「室内,ストランゲーゼ30番地」に漂う奇妙な透明感は,彼の国のラース・フォン=トリアーの作品にも通じるような気がした。
ついでに言えば,フェルメール展に比べると1/20くらいに思えたお客さんの数もまた,北欧の静謐な芸術を味わうには最適なものだったと感じた。永く記憶に残るものは,それを味わうための環境が快適だったケースが多いことを考えると,何年か経ってから今回の旅行の収穫を考えた時に,「北欧のフェルメール」が「本物のフェルメール」を差しきる可能性だってあるかもしれないとも思う。しかし,それは,それでまた楽し,と思える上野恩賜公園探訪だった。
念願だったフェルメールを堪能した直後に,その隣にあるコルビュジエ設計の美術館で,「北欧のフェルメール」とも呼ばれているというデンマークの画家ヴィルヘルム・ハンマースホイの作品に浸る,という贅沢は,世界中何処の街でも出来る芸当ではないはずだ。
「フェルメール展」という厳しい闘い(前記事参照)を終えた後,一旦アメ横に後退して昼食を摂り,体勢を立て直して向かった先は,東京都美術館の手前に位置し,世界遺産にも推薦された「国立西洋美術館」。採光という,美術館に求められる基本的な機能からフォルムを展開していったように見えるコルビュジエの傑作建築物は,あらゆる美術品にとっての晴れ舞台として,輝くように,しかし新宿の東京都庁舎の対極にあるようなひっそりとした佇まいで,そこに建っていた。
そんな美術館の地下深くに展示されていたハンマースホイ作品は,写実的に描いた日常の風景から微かにはみ出た非日常の痕跡が,観るもののバランス感覚を揺さぶるように囁きかけてくるものばかりだった。村上春樹の作品に出てきた,真夜中になると通り抜けられる「壁」を連想させる取っ手のない扉の絵からは,イングマール・ベルイマンの「叫びとささやき」から,赤い色を抜き取った画面を観ているかのような印象を受けた。
疲れ切った後ろ姿を描いて「休息」と名付けられた妻がどう思っていたのかは知る由もないが,浮遊する生活感と疲労感と虚無が混ざり合って生み出す空気が,不思議な歪みを感じさせながらも,決して暗くならないところが,この作家の魅力の源泉かもしれない。
一見すると普通の室内を描いた絵なのに,よく観ると,窓辺から入る光がテーブルの脚とピアノの脚に当たって作る影の方向がバラバラなだけでなく,椅子に載せた妻の足が椅子の脚と一体化してしまっている「室内,ストランゲーゼ30番地」に漂う奇妙な透明感は,彼の国のラース・フォン=トリアーの作品にも通じるような気がした。
ついでに言えば,フェルメール展に比べると1/20くらいに思えたお客さんの数もまた,北欧の静謐な芸術を味わうには最適なものだったと感じた。永く記憶に残るものは,それを味わうための環境が快適だったケースが多いことを考えると,何年か経ってから今回の旅行の収穫を考えた時に,「北欧のフェルメール」が「本物のフェルメール」を差しきる可能性だってあるかもしれないとも思う。しかし,それは,それでまた楽し,と思える上野恩賜公園探訪だった。