Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

宇野 亜喜良-C

2012-07-28 23:30:42 | 日記



★ 彼が掘り続けた鑿の音とそのこもった反響が、意識のはるかな奥で聞こえる。壁に小窓を彫り抜く最後のひと打ちで、ここに射しこんだ最初の光が見える。あるいはそのひと打ちは夜のことであって、ぽっかりと穿たれた穴から星々の幾つかが見えたのかもしれない。ここに射しこんだ最初の光が昼の日ざしであろうと、深夜の星の瞬きであろうと、彼がその瞬間、床に跪いて石の粉だらけの頭を垂れ、肉刺(まめ)がつぶれた血だらけの両手を組んで、天に祈ったことを、私は自然に想像できた。

<日野啓三『遥かなるものの呼ぶ声』(中公文庫2001)>







小さな死

2012-07-28 17:28:48 | 日記

暑い。

昨年も暑かったはずである、いったい“1年前”ぼくはどのようにして生きていたのだろうか?

なにも思い出せないのだ。

それでハタと思い当たった。
“この(自分の)ブログを読めばいい”、すなわち2011年7月から8月のブログが読めるのである。

2011年7月のブログから読んでみた。
とても恐ろしかった(笑)
すなわち、ぼくは“今日と”同じことを思い、考え、引用している。
ひとつのブログに、“ぼくは64歳である”とあるが、現在、ぼくは65歳である、だけである。

茂木健一郎がウィトゲンシュタインについて書いたツイートを“批判した”ブログがある。
“その後”ぼくは、ウィトゲンシュタインに“ついて”いくつかの文章を読んだ。
そして、あのときよりウィトゲンシュタインについての認識をほんの少し深めた。
けれども、“この時”書いた批判を変更する必要をまったく感じない。
これに、“自信”を持つこともできるが、反対に、自分の“停滞”(マンネリ)を感じもする。



ここには、2011年8月31日のブログ<暴力の通過>を再録したい、伊藤俊治『20世紀写真史』からの引用である;

★ あらゆるメディアのなかで、特に写真は「私」と「死」という概念に最も緊密にむすびついている。

★ 例えば自分を撮られた写真を見る時、人は無意識に死の時間のなかに自らを封印している。また何げない写真を見る時でも、人は多くの場合、自分自身のなかへ降りてゆかざるをえない。

★ 自分を撮られた写真においては、私は他者として現出し、自己同一性がよじれ、分裂する。

★ そして我々は気づかないのだが、その瞬間、とても小さな死を経験する。

★ 写真を見ていると、時折り奇妙な感覚におそわれてしまう。
もしかしたら、私は生の場から死と化した場を見ているのではなく、死の場から生の場をのぞいているのではないだろうか。

★ 人間の眼は生き物であり、それは膨らんだり縮んだり、記憶したり思いだしたりする。

★ しかし、こうした生物体である眼は20世紀において根本的に解体していったといえるだろう。そして、その過程において写真の果たした役割は大きい。

★ 人間の眼がとぎれてゆく、その一瞬を、そのはざまを写真は写しとっている。そのぎりぎりのところにあるはかなさ、かけがえのなさが写真にはしみわたっている。

★ その点こそ写真が映画やテレビと異なる特質でもある。そして今やその写真独特のそうした意味が新しいメディアの波のなかで急速に消え失せようとしている。

★ 写真は「歴史」と同じように19世紀中葉に生みだされ、写真のなかへ入るということは20世紀へ入るということと同じ意味をもっていた。

★ そこにはかつてあった人間たちの痕跡だけがたたえられている。
かつてあった私の痕跡だけが反響している。
まるで何か途方もない大きな暴力が通過したあとのように。

<伊藤俊治『20世紀写真史』(ちくま学芸文庫1992)>








<蛇足>

上記ブログを書いたあとに、文中にある“茂木健一郎批判”のブログを、ここに再録したほうがよいと感じた。
2011年8月31日のブログ<あなたはいったい何に怒るのか?>である;


今朝、茂木健一郎の連続ツイートを読んで怒りを感じた。

ぼくが何に怒りを感じるか、などということは、ぼく以外のひとにはドーでもいいことである。

たぶん“多くの人”は、この茂木健一郎ツイートに怒りを感じない。

“柔軟で無邪気だけれど、脳科学者なんだから、最新の知識を持っている(んだろう)”と応援しているのだ(笑)

茂木健一郎は、“あらかじめそれを繰り込んで”、このツイート(というか彼のすべての文章)を書いているのだと思う。

そのこと自体も、攻められるべきことではないだろう。

しかし、人間は“いいかげん”なものだが、やっぱり真剣になったり、ゆずれない一線というものがある(のではないだろうか)

以下に引用する茂木ツイートが、仏教とヴィトゲンシュタインについて述べているからといって、ぼくは“仏教とヴィトゲンシュタインの関係”について、特に異論があるということではない。

だいいち、正直に言うが、ぼくは<仏教>についても<ヴィトゲンシュタイン>についても、ほとんど知らない。

ぼくは、そういう“専門的論議”をしたいのではない。

しかし、いいかげんな、生半可な、“常識”をかざして、いかにもそれが“真理”であるかのごとき発言を、“セミ取り坊や”のようなノリで、無邪気さをよそおって発言し続ける人に(だって茂木健一郎は“少年”ではないはずである)、直感的な怒りを感じる。


その茂木健一郎連続ツイートの核心部分は以下の通り;

* kenichiromogi 茂木健一郎
こひ(1)ある男が、いろいろ質問した。人間はどこから来たのか、死んだら魂はどうなるのか、天国や地獄はあるのか。世界はどうしてあるのか、それに対して、釈迦は、「私はそういう質問には答えない」と言った。いわゆる、「無記」の思想である。
1時間前

* kenichiromogi 茂木健一郎
こひ(2)釈迦は言った。目の前に毒矢に当たって苦しんでいる男がいたら、その苦しみを助けてあげるのが先決だろう。矢はどこから飛んできたのか、誰が放ったのか、毒は何なのかという問いは二の次であると。「無記」は実践倫理であると同時に、深い認知哲学を含んでいる。
1時間前

* kenichiromogi 茂木健一郎
こひ(6)ヴィトゲンシュタインの「言語論的展開」は、釈迦の「無記」によって先取りされている。「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」まさに語り得ないからこそ、生命にとっては大切なこととなる。論理哲学論考は、生命哲学の書でもある。
1時間前

* kenichiromogi 茂木健一郎
こひ(9)言葉にとらわれず、だからこそ飛翔すること。そこに私たちの生命の本来のふくよかさがある。特定の言葉にとらわれている人の精神は、すでに若々しさを失っている。硬直した認識は、「言葉」にすがろうとして、結局は「言葉」の海の中に自分を見失ってしまうのだ。
1時間前

(以上引用)




ヴィトゲンシュタインは、《言葉にとらわれず、だからこそ飛翔すること。そこに私たちの生命の本来のふくよかさがある》などということを、言っていないと思う。

自分に都合のよいように、“他者”を引用することは、人間としてかなり劣悪な態度だと思う。

ぼくの“感じ”では、ヴィトゲンシュタインは、《言葉にとらわれず、だからこそ飛翔すること。そこに私たちの生命の本来のふくよかさがある》などという<言葉>をこそ否定(拒否)したのだ。


“だから”生涯にわたって、“言葉について”(言葉をもちいて)考えたのだ。







最近引用したばかりだが、ヴィトゲンシュタインの言葉、ひとつ;

★ 人間が意志をはたらかすことができず、しかしこの世の中のあらゆる苦しみをこうむらなければならないと仮定したとき、彼を幸福にしうるものは何か。
この世の中の苦しみを避けることができないのだから、どうしてそもそも人間は幸福でありえようか。

ただ、認識の生を生きることによって。

<ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン:“草稿1914-1916”>





茂木健一郎氏も、むだなおしゃべりのヒマがあるなら、《認識の生》を深めていただきたい。

内田樹のような”おしゃべり”を見習わないで。








未知

2012-07-28 10:55:09 | 日記

★ 人間の意識というものの不思議さを、改めて思う。まず身体がある。その信じ難く複雑精妙な働きによって生命がある(それだけでほとんど奇跡的だ)。生命がより効率的に生きるために原初の意識が芽生え、その身体/意識体験が沈殿して無意識の暗泥層をつくり、それとの交互作用(フィードバック)によって、意識は内部感覚としても外部感覚としても拡大深化して、次々と新しい意識層が、脳の構造のように重層的に形成されてゆく。

★ みずからの身体、無意識と切れた意識は、どんなに新しそうでも軽薄で力弱い。身体ごと、無意識の奥からの情動に動かされながら、その暗い力をコントロールしながら、それまでの自分/意識を超え出るとき、全身全霊の、魂の快感、精神の高揚、《いま生きて在る》透き徹るような現実感があることを、私は幾度か体験してきた。

★ 内に深く熱く暗く古く、同時に外に広くクールに明るく新しくあろうとするその相反するベクトルを、同時に生み支えるものは何であろうか。しかもとても重要なこと――そのような力は内的にも外部的にも滑らかに発動して広がるとき、相殺し合うように弱まるということだ。つまり内面的にも社会的にも平穏無事なとき、生きる力、考える力、新たな未知を探究する力、想像し幻想する力も弱まるどころか、消失さえする。世界と自己のイメージが限りなく縮小して固くなる。だがそのようなとき、身体がこの世界は恐るべき未知なるものであることを、言葉なく知っている。縮小された自己イメージを内側から揺するのである。

★ 大地震ひとつ取ってみてもこの世界に平穏無事はない。多年共に暮らした生活パートナーの寝言でさえ、その奥にうごめく無意識の内容は既知ではない。当然なことなど、この世界にも自分自身の内心の動きにもひとつもない、という危機意識こそ、意識自体の力を支えるものだ。

★ 力を見ることはできない。力は働くものである。働きを体感することができるだけだ。

<日野啓三『書くことの秘儀』(集英社2003)>