
★ われわれは通常、私と他者の間に「言語ゲーム」が成立するためには、前もって彼我の間に共通の規則(コード)が存在していなければならない、と考える。だが柄谷に言わせれば、このような考え方こそ「独我論」の典型にほかならない。独我論とは、「私にいえることは万人にいえると考える」ような思考法のことだからである。そこに見いだされる他者は「もうひとつの自己意識」にすぎず、そこで行われる言語ゲームは、見かけはどうであれ単なる「自己対話(モノローグ)」でしかない。そこには、他者の「他者性」がはなから欠落しているのである。現象学をはじめ、「内省」を特権的方法とする哲学は、高々「我」から「我々」への通路を確保しえたにすぎず、ついに真の《他者》を見出すにはいたっていない。
★ 「話す-聞く」という関係が、結局は自己対話(独我論)に収束せざるをえないのに対し、「教える-学ぶ」という関係は、その中に架橋不可能な深淵を抱え込むことによって、逆に真の《他者》との出会いを可能にしている。ここで他者とは、共同体の<内部>にではなく、<外部>に属する者のことである。そのことを柄谷は、「対話は、言語ゲームを共有しない者との間にのみある。そして、他者とは、自分と言語ゲームを共有しない者のことでなければならない」と簡潔に要約している。むろんこれは逆説などではない。ここに見られる根源的な<非対称性>こそは、他者を他者たらしめている聖痕(スティグマ)なのである。
★ 柄谷がウィトゲンシュタインとキルケゴールの中に発見したものは、いわば「異人としての他者」である。それは共同体の<外部>から不意に到来し、共同体のアイデンティティを危機に晒す暴力的存在にほかならない。それを「キリスト」と呼んでも、あるいは「バルバロイ」と呼んでも同じことである。プラトン以来の哲学は、「対話」の美名の下にこの「バルバロイ」の存在を故意に隠蔽し、排除することによって、ようやく「共同体」内部におけるモノローグの秩序を保持しえてきた。柄谷が異議を唱えるのは、このような「モノローグの秩序」あるいは「独我論的理性」の守護神として身を養ってきた既存の哲学に対してである。
★ 独我論の微睡(まどろみ)は、《他者》との遭遇によってのみ打ち破られる。言語がその真価を問われるのは、まさにそのような場面においてである。すなわち、「対話」とは、共同体と共同体の<間>に生起するスリリングな出来事にほかならない。少なくとも柄谷は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」とマルクスの「等価交換」の中に、そのような「対話」のありうべきモデルを見ているのである。
<野家啓一“危機の探究者-『探究Ⅰ』を読む”―柄谷行人『探究Ⅰ』(講談社学術文庫)巻末に収録>
無論独我論は悲しいですよ。
当然独我論は時代遅れですよ。
寧ろ独我論は大嫌いですよ。