★ X1がマッハ1に近づくと、まさにイエーガーの予想したとおり、機体の安定性はよくなった。イエーガーはマッハ計に目をこらしていた。針が0.96に近づくと、ふらつき、そして目盛りの外に出てしまった。
地上にいるものたちには・・・・・・例の声が聞えてきた。
「おい、リドリー・・・・・・もひとつ記録をたのむぜ」(もしもそれも面倒なほど退屈しきってるんでなけりゃな)「・・・・・・このマッハ計のやつがちょいとおかしいいんだ・・・・・・」(かすかにくすっと笑う声)「・・・・・・やっこさんめおれにへそをまげちまったみてえだぞ・・・・・・」
ちょうどその瞬間、地上では砂漠に衝撃波が響くのが聞えた。何年も前に物理学者のシオダー・フォン・カーマンが予想したとおりであった。
★ X1はなんなく「音の壁」をつきぬけていた。スピードがマッハ1.05で弾道軌道の天頂に達すると、イエーガーは空のてっぺんを真直ぐすうっと飛んでいるような感覚を味わった。空は濃い紫色に変わり、いきなり月や星が姿を現した。同時に太陽も輝き出した。イエーガーは、空気があまりにも希薄なために光を反射する塵もない大気圏の上層に達していたのだ。彼が前方に臨んでいるのは宇宙そのものだった。
★ いずれにせよ、午後も半ばを過ぎたころには、イエーガーの驚異的な偉業も、雷鳴をともなわない一瞬の稲妻と化してしまった。それは奇妙な、考えられないような静けさにすっぽり包まれてしまった。なんだ・・・・・・祝ってはならないだと!しかし夜が来た・・・・・・イエーガーとリドリーは他に何人かの男とつれ立って、ゆっくりパンチョの店にやってきた。誰がなんといおうと、1日が終わったのだ。しかも彼らはパイロットである。そこでまず2,3杯、いっきにあおった。それからパンチョに秘密をばらさないではいられなかった。
★ 砂漠が冷えてきて、風がおこり、網戸がばたんばたんと鳴る。彼らはさらに酒を飲み、乾燥したピアノの甲高い音にあわせて、歌をがなりたてると、星と月がでた。パンチョはいままで誰も聞いたことのないような罵詈雑言を並べ、イエーガーとリドリーがわめき、風雨に曝された古びたバーがどよめき、百人もの死んだパイロットの署名入り写真が、吊るされた針金の先でかたかた揺れ、生きている者たちの顔は、光の反射をあびてばらばらに分解し、やがて、一人また一人彼らは去っていき、つまずいてよろけ、ヨシュアの木の関節炎病みのシルエットにむかって、やったぞ、と大声に叫ぶ。畜生!パンチョとろくでもないヨシュアの木にしか話せないとは!
★ 機体が横滑りしたり、転がったり、スピンしたりした場合には、サン=テクジュペリが言ったとおり、パイロットが考えることは一つしかない。つぎに何をしたらいいか。ときどきエドワーズでは、命取りになった最後の急降下に入って行ったパイロットたちのテープをかけてみることがあった。重さ15トンの一本のパイプが水車のようにぐるぐる回り、空気力学はとっくに通用しなくなり、祈りの言葉もなくなる。パイロットは死を予感し、マイクロフォンにむかって必死に叫ぶ。しかし、母や神や、アホルの無名の霊に助けを求めて叫ぶのではなく、宙返りに関する最後の一片の情報でも得たいと必死の叫び声をあげるのだ。「Aもやった!Bもやった!Cもやった!Dもやってみた!ほかに何をやったらいいのかおしえてくれ!」ここでカチッと不吉な音がして連絡が途絶える。つぎに何をやったらいいのか?(死の深遠が口をあけて待っている瞬間であろうに)テーブルのまわりに腰をおろして聞いているものは互いに顔を見合わせ、かるくうなずき合う。残念なことをした!正しい資質(ザ・ライト・スタッフ)をそなえた男だったが、という無言の意味がそこにはこめられていた。むろんこのような場合に全国民がその死を悼むことはない。エドワーズの外部のものは、誰も名前すら知らない。彼が皆に好かれていたとしたら、基地のほこりっぽい道路のどれかに彼の名前がつけられるかもしれない。
<トム・ウルフ;『ザ・ライト・スタッフ』(中公文庫1983)>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます