Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

航海日誌

2011-10-24 02:29:48 | 日記


★ またバスをおりて、新しい町についた。はれあがった足、重い頭、粉をふく顔のまま、よろい戸をあけはなつことのできるつつましい宿屋を探す。小さな荷物をおいて、町を歩きまわる。小さい町々はどこも似かよった雰囲気だ。30分もあれば、すっかりようすがつかめる。あとは教会のある広場にめんした安食堂のあけっぴろげなテーブルにむかってすわり、グアラナをちびちびとなめながら夕焼けを待つだけだ。何ひとつ追い立てるものもなく、何ひとつ追い求めはしない。犬みたいに瞬間的な忘却を生きる。やがて雲の通過、通り雨、虹の出現にうながされて、突然発熱を自覚する。


★ 「莫大な予算を使って、三年間で。謎めいた幻想都市を。あらゆる無理を承知の上で。クビシェッキ大統領のドン・キホーテ的な情熱にみちびかれて。わたしはそのことの意味を考えたわ。このばかげた建造への情熱のことを。ばかばかしいくらいの。でもそれは、たぶんこういうことなの。あなたはあなたが生きてゆくために、未来へと投影された希望を必要とすることがあるでしょう。それとおなじことが、国家についてもおこるのよ。少しでも立ち止まればただちに溺れてしまう、そんな位置にまで追いつめられる。むりにでもドライヴをかけなくてはならないとき。なぜそんな計画が生まれるのかも考えたわ。国家を生きのびさせることが人を生きのびさせることと重ねあわせて考えられる、それはわたしたちが抱く<国家>のイメージが結局ひとりの<個人>からの類推の上にたち、それ以外のあり方を知らないからだと思う」


★ 「おなじように、自然にある対象に向けられた<欲望>は、そのおなじ対象にむけられた他人の<欲望>によって媒介されないかぎり、人間の<欲望>とはなりません。他の人々がそれを欲しがるからという理由で、その人たちが欲しがっているものを欲しがるのが人間なのです。そこで、生物学的な視点から見るとまったく役に立たないもの(勲章や敵の旗など)が、他の欲望の対象となっているゆえに欲望される、ということがあるのです。こうした<欲望>こそ、ひとつの人間的<欲望>にほかならないのであり、動物にとっての現実とは異なる人間の現実は、こうしたさまざまな<欲望>を満足させる行為によってのみ創出されます。人間の歴史とは、欲望されたさまざまな<欲望>の歴史なのです」(アレクサンドル・コジェーヴ、1939年)


★ けれども世界には外がないこと、ただ直線としてのびてゆく時間がすべてに君臨することは、ボードレールだってとっくに痛烈に意識していたはずだ。途方に暮れた新しいコロンブスたちは、19世紀にはすでに世界という缶詰の中にオイル・サーディンのように並びあって、身動きもできずにいたのかもしれない。ぼくらはもう、自分のことをどんな航海者だとも、信じるふりさえできない。せいぜい漂泊者、いくつもの時間を同時に生きようと望むが、いたるところで閉じこめられている。都市で、砂漠で、大洋で。(……)はじまりを持たない者にとって、すべては暗闇の中にある。でもその暗闇は、白日の光にみたされた暗闇だ。何もかもあきらかに見える、けれどもほんとうには何も見えていない。
レーダーの壊れたコウモリのようにすべてにぶつかり、ぶつかったすべてに執拗に攻撃をしかける。地図製作をやめ、航海をあきらめ、いちめんに油を流したように粘つく静寂につつまれた沖合へと、まだ一日の天気すらはっきりしない明け方に、黙って漂流をはじめる。


★ 公園のかたすみにこの国の近代の有名な思想家である安重根の石碑があり、それには「一日不読書口中生棘」と書かれている。


★ 日本は奇妙な国だ。万人が万人のためのエンターテイメントでしかなく、相互商品化と相互廃棄が、生活という水面に藻のようにひろがり、希薄な喪を奏でる。けれども日本に<帰り>、その水を忘却の河の水のように飲むとき、<あそこ>が<ここ>になったとき、もうこれほどのんびりできる国はないと思い、また安心しきって眠りこけることになるのかもしれない。怠惰な海岸の犬のように。


★ きみは広場にたたずみ、明るい光と青い風を浴びながら、とおりすぎる人の顔をじっと見つめようとする。覚えたいと思う。どんな顔が見えるのか。どんなふうに微笑するのか。瞳の色、肌の色、その体の基本的な構成の線、すべては雑多だ。まったく異なった遺伝子のいくつもの流れにささえられて、彼女と彼の輪郭の表現はかけはなれてゆく。ふたりが愛しあうとき。生まれるのは混血のこどもたちだ。つねに増幅される混乱。その子たちは、どんなことばをしゃべるだろう。あらゆることばの混成、神聖さからもっとも遠く離れて、すべてを語ろうとしながら、沈黙さえ優美に使いこなすことのできることば。愛しあうことばの断片が浮かび、とびちり、急速に凝集してはまた別れてゆく、毎日のいとなみ。ささやき、さえずり、うなずき、ほほえみ、くちづける。抱擁以外の何ももたないノルデスチの家族ばかりか、広場をとおりすぎてゆくすべての人が、ただ一瞬の交錯にのみ生を見いだし、音楽を探す。それがブラジル。そしてそのすべてをひとつに包みこむのは、<死>だ。

<菅啓次郎『コロンブスの犬』(河出文庫2011)>






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6 コメント

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にっぽんは島であるという自覚 (adanama)
2011-10-31 18:13:34
お久しぶりです。
辺見ファンのadanamaです。
格好いいですね、菅さんの文章は。
学生の頃はわけわからん!!
というか、エドゥアール・グリッサンの完全なるパクリじゃないのか?と斜めな感じで思ったものですが・・。
日本人でこういう文章書く人って他にいないような。

日本てちっちゃい島なんだよ、ただの。
という強烈な自覚を感じます。
それは311(ていう呼び方も何だか嫌いですが)以降に必要な自覚のひとつじゃないかと。
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Unknown (warmgun)
2011-10-31 23:17:35
adanama さま

ぼくは『知恵の樹』の訳者として菅啓次郎というひとをはじめて知ったわけ。

それで『本は読めないものだから心配するな』を読み、『コロンブスの犬』がちょうど文庫になったので読みました。

ぼくの場合、その本を一気に読めること自体が稀です。
この菅さんの2冊は、ほぼ一気に読めました。

こういう海外生活が長かったひとから(長ければいいのではないが)、ぼくの体験し得なかった言葉が届けられるなら、幸せです。

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菅さんのニホン語 (adanama)
2011-11-01 10:00:11
ご返信ありがとうございます。私はジャメイカ・キンケイドの『川底に』の訳者として知ったのがはじめでした。今思うと、完璧でスムーズな訳になっていたかというとそうでもない気もするのですが、「原文が読みたくなるような不思議な日本語」というか。(結局その作品を卒論に選びました)しかし、訳文じゃなくてもちょっとそういう雰囲気を感じるのはなぜでしょう(笑)。


京都の出版社が出している『Diatext.』というサブカル誌によく寄稿されていたので、それも愛読していました。

『本は読めないものだから心配するな』は知らなかったんですが、うっとりするタイトルですね。読みたいです。
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Unknown (warmgun)
2011-11-01 20:08:26
adanama さま

あなたの前のコメントにあった“エドゥアール・グリッサン”とか、ここにある“ジャメイカ・キンケイド”というひとの本はまだ読んだことがありません。
ただこういう“名”を、今福龍太などの本によって目にしています。

そしてこういう本が、スペイン語やポルトガル語で(あるいはもっとマイナーな言語で)書かれているなら、たしかに翻訳という問題があります。

菅啓次郎の本には、この“翻訳”についての考察もあります。
実は(当然)、もっとメジャーな言語=英語やフランス語やドイツ語についても、翻訳の問題はあります。
ぶっちゃけた話、ぼくなどは英語で書かれた本でさえ、翻訳でしか読んでない。

ぼくはサイードの有名な翻訳者(グループ)の“日本文”にどうしてもひっかかってしまう。
ぼくがもっと若かったら、せめて英語だけでも原文で読みたいと思うのだが、もはやそのエネルギーはない。

しかし、矛盾したことを言うが、“翻訳では読めない”ということもない。
日本のカント学者が、“ドイツ人ならカントが理解できるわけではない“と書いていた(笑)

この“翻訳”の問題は、わかっているようで、まだ充分に考えられていないと思う。
当然、それは単に言葉の問題ではなく、まさに国境をこえることの困難なのだと思います。
(それを“言葉の問題”というのなら、それが言葉の問題です)

また、同時に、同じ日本人で日本語のネイティブなら日本語で伝達できる、ということ自体が疑問となっている(困難となっている)と思います。

その困難のなかで、くっきりと立つ日本語を探すのが、ぼくの読書なのではないかと、最近思います。
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翻訳の面白さ (adanama)
2011-11-02 20:37:25
warmgunさま

キンケイドは比較的平易な英語(出身地アンティグア)で、グリッサンは確か仏語(出身地マルティニク)です。どちらもいわゆるポストコロニアル文学と呼ばれる作品の中で、このふたりだけは読めました。

今福龍太も、好きです。「ハリケーンが女性名である理由」についての話が面白かったのを覚えています。(でもなぜか内容は覚えていない)

「けれども世界には外がないこと、ただ直線としてのびてゆく時間がすべてに君臨することは、
ボードレールだってとっくに痛烈に意識していたはずだ。
途方に暮れた新しいコロンブスたちは、19世紀には
すでに世界という缶詰の中にオイル・サーディンのように並びあって、・・」
の文章がとくにすきなんですが、
聞いているだけで楽しいリズムがあるなあ、と思います。突きつめればリズムにもきっとお国柄があるんでしょうね。

翻訳の問題は日本人ジャズを亜流と見るか、
日本民謡のボサノバアレンジはありかなしかとか、そういうのと通じるんでしょうか。
源流が本流としても、わざと亜流を衒う人がすごい作品を作っていないかというと違う。

「言葉は最終的には借り物」という生意気な思い込みがありました(学生のときは・・・)。
それゆえに、故郷が植民地だったとか母国語へのコンプレックスがあったりとか「言語に対するスタンスが屈折している人」の文章の方が、読んでみてしっくりとくる気がしました。(学生のときは・・・)。

その意味ではジャメイカ・キンケイドの言葉は「くっきりと立って」見えました。安易な見方ではあるのですが屈折につぐ屈折が、ときにすっと言葉を立たせるのかもしれないなと思っています。ヤジウマ的にそう思うというだけですが・・。言葉から感じられる切実さには、何となく涙が出ます。


「私は故郷の家族を愛している、故郷の家族を愛していない。
こんな物言いをして、一体何が言いたいのか分からない。
私に分かるのは、いまは愛していないとか、いまはとても愛しているといった感情は
永遠のものではないということだ。
永遠ではないかもしれないということだ。
ある日なにかが起こって、わたしが抱いている感情のすべてが、
愛とは別物に見えるものが(愛という言葉は自分の家族、
自分の一部になった人々、つまり夫や子どもたちや友人に対する感情を
描写するのに用いるものだけれど、「友人」という言葉は
その深い思いを説明するには薄っぺらすぎる)、実は愛なのだと気づくかもしれない。」

(『弟よ、愛しき人よメモワール』より)

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Unknown (warmgun)
2011-11-03 00:32:14
adanama さま

<引用>ありがとう。

いいね、この引用のカッコをあえてはずせば、

《ある日なにかが起こって、わたしが抱いている感情のすべてが、
愛とは別物に見えるものが、実は愛なのだと気づくかもしれない》

これが、カッコ内文章によって、屈折します。

ぼくも今日、<屈折>という言葉を思い浮かべていたんだ。
ぜんぜんポストコロニアルじゃない、『暴力の屈折』という本について。
その本の著者と殺人犯(同世代!)との文通について。

どうもこのごろ、自分の言葉がまとめられない。
というか、まとめることを拒否(放棄)“したい”気分があるんだ。

そしていままでも、“他人の言葉”の方が、理路整然として気持がよかったということもあった。

ただなぜかいま、他人の言葉を読むことも、かなりしんどい。

あたらしいひとを発見したいという気持はある。
だが、(ぼくの場合)けっこう長く、かかわってきた(ことになる)大江健三郎や村上春樹に対する、“違和”についても、なにか決着をつけなくては、という気持もあるんだ。

そして日本語でしか感じ・考えられないぼくが、アメリカ的なものやフランス的なものになぜ魅せられたか、ということも。

長くなるばかりで、うまくまとめられない。

けれども、このようなコメントを書かせてくれたきみに感謝する。

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