Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

いま、ここにある、危機

2009-03-31 08:10:46 | 日記
下記ブログに関連して。

ぼくが“現在”について、なによりも“奇怪”だと思うのは、メディアも政治家も学者先生も普通の人々も、“危機”のなかにいると言いながら、彼らにはさっぱり“危機感”が感じれないということ自体である。

ぼくは、それを一種の“感覚マヒ”症状ではないかと診断する。

この“日本”という国全体を、“感覚マヒ症状”が覆っている。
(いったいこの危機に対して“イチローの言葉”がどうしたというのであろうか!、ぼくは別にイチローが嫌いなのではない)
それは、客観的“危機”が増大すればするほど、その危機を認識することができなくなるという、死に至る病である。

そのサンプルを掲げよう;

★望むのは贅沢(ぜいたく)ではなく「尊厳ある老後」である。翻訳すれば「身の納まり」という、つつましい言葉にほかならない。それに応えるきめ細かい助けの網が、この社会にほしい。(昨日天声人語)

★ 〈おまえがた本降りだよと邪魔がられ〉という句もある。「本降りだからあきらめて濡れて行きな」と、軒先を追われる人を詠んでいる。与野党の主役ふたり「おまえがた」の、いずれが先に世論から邪魔がられるのかは知らない。(今日読売・編集手帳)

★ 朝起きて、『グラン・トリノ』の映画評を書き上げて、『AERA』の来週号の600字エッセイを書いて送稿。『中央公論』の時評の原稿を書いて送稿。そこに新潮社のアダチさんから「100字で5万円」という“おいしい”コピー仕事が入ってきたので、3分間で100字さらさらと書いて送稿。
こういう仕事が毎日あると笑いが止まらないのであるが、世の中そういうものではない。
こういうペースで毎日仕事をしているので、日記の更新さえままならぬのである。(3/26内田樹の研究室)


以上のような文章に“危機感がない”ことを説明する必要を感じない。
要するに、こういう文章を書いているひとには、危機感がないのである。
こういう人々は、周りになにが起ころうと(この世界がどうであろうと)自分の人生だけは安泰であると信じていられるのである。

だから、ぼくはこういう人々が、庶民の苦しみを語り、世界の悲惨な人々を語り、わけのわからない(1000年1日の)ヒューマン言説を語ろうと信用しない。
内田樹がレヴィナスについて語っても信用しない(笑)


まさにこの“鈍感”こそが、“言葉の死”である。


“「100字で5万円」という“おいしい”コピー仕事“をしているひとや、毎日”字数“だけを気にして気の効いた文章を書けてしまうひとには、”言葉なんかおぼえるんじゃなかった“という深い覚醒は決して訪れない。


ぼくたちは今、“昭和”という“終わった時代”について語る。
しかし、ぼくたちは、“西暦で考える”べきである。
なぜなら昭和21年と2009年を瞬時に比較できないからである。
昭和64年でもよい。
ぼくたちは、“世界史”のなかで生きている。
(ちなみに昭和21年とはぼくが生まれた年である;笑、あるいは日本国憲法が公布された年である、文句あっか!)


歴史は現在にある。
歴史的なすべての言葉は、この現在に収斂される。
ぼくたちの言葉=言説は、このダイナミズムのなかにある。


ぼくたちは、けっして“鈍感”であることはできない。




<さらに>

いま、“言説を売るものたち”が、“言葉のプロ”として、大量の言葉を撒き散らしている。

ぼくは、そのひとり内田樹氏について、“言葉なんかおぼえるんじゃなかった”という田村隆一氏の言葉を対置した。

内田樹というひとを目の敵にしているのではない。
“内田樹”というのは、現在、“代入可能な”どうでもいい<名>のひとつにすぎない。

ただぼくが、“ブログ”で発信していることの矜持にもとづき、ブログで発信するすべての<無名の>ひとびとに呼びかけたい。

“プロの堕落”を監視せよ。
“多数の言葉”を監視せよ。

不充分であっても、自分の言葉を鍛えよ。
自分の言葉で立て。



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