今日は、ぜんぜん外に出ない、家のなかで過ごす。
夕方に向かっても、激しい夏の光が、風で、散乱している。
その光と風を窓の外に見ながら、音楽を聴く。
バッハ“ヴァイオリン・ソナタ第1番”(ムローヴァ)→バッハ“チェロ・ソナタ”(マイスキー+アルゲリッチ)→モーツアルト“ピアノ・ソナタ第15番”(ピリス)→バッハ“フランス組曲”(ホグウッド)
急に、ブリジット・フォンテーヌ「ラジオのように」が聴きたくなる、聴く。
ぼくはこのアルバムを最初は“LP”で持っていた、CDに買い換えたのはそんなに昔じゃない。
このアルバムは1969年に出ている、最初聴いたときから、好きだった。
だが、ブリジット・フォンテーヌ(とアレスキー)が、というより、バックをつとめている“アート・アンサンブル・オブ・シカゴ”に惹かれたのだ。
事実、ほかのブリジット・アルバム(アート・アンサンブル・オブ・シカゴがいない)はつまらなかった。
しかし、“このアルバム”は、ブリジット自身もよいと思うようになった。
いかにもエキセントリックだが繊細な“フランス女”という印象が、変化した(ぼくのなかで)
この繊細さは、“強靭”なのだ。
それはもちろん、おばさんの強靭さとは、隔絶しているが(笑)
ただ“夢見がちな少女の夢”ではない。
ただ“夢見がちな少女”が、アート・アンサンブル・オブ・シカゴを起用するはずがない。
それにしても、最近のぼくは、“60年代の話題”が多いのである(笑)
ついに“1960年代”に回帰してしまったのだろうか。
「ラジオのように」におさめられた1曲“夏、夏”を引用しよう(ライナーの訳詞をそのまま)
最後に繰り返される“toujours vivants”(トゥジュール・ヴィヴァン=いつも生きている)というブリジットの声が、夏の光のなか、風のなかで、ぼくの耳に鳴っている;
そして、私はまだ生きている、
白い砂
目をくらませるような、
そして、私は、まだ生きている
刈りとられた草
腕を広げた枝、
風、風、風、風
暖められたつげの木、
香ばしい風、
夏、夏、夏、夏
もうすぐ夏、
金色の風
腿のまわりの絹のスカーフ
埃だらけの噴水、
熱っぽい舗道、
そして私。私はまだ息をしている。
身をかがめた小さなロバ、
小さな植民地人よ
小石みたいな目の、小石みたいな目の、
私は忘れてしまった、
死んだ猫たちを、
けれど猫たちはもっとはやくに忘れる。
門のそばで
木が音をたてる、
そして私達、私達はいつも生きている、
いつも生きている、
いつも生きている、
いつも生きている、
いつも生きている。
<ブリジット・フォンテーヌ “夏、夏”>
やはり“ラジオのように”の出だしも引用すべきか(この訳詞は、ぼくがちょっと変えた);
これは、まったく
ラジオのようなもの
音楽以外のなにものでもない
なにものでもない
言葉以外の、言葉以外の
言葉以外の
ラジオのように
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