辺見庸“私事片々” (2014/07/01)
★(前略)
非常階段に、すっかりちぢれて黒ずんだ小さな葉っぱが一枚、いじけたように落ちていた。いじけたように、というのは、わたしがおもっただけだ。主観。葉はじつは、いじけてさえいないのだ。あるともなくそこにあったのだ。葉は、ほどなく、木の葉らしい色形を、さらにくずし、ただのクズとして、いや、クズとさえ認識されずに、風にとばされ、世界から消えさってしまうだろう。哀しくはない。空しくもない。葉は葉。無は無。風は風。死は死。それだけのことだ。なにも大したことではない。わたしだってアパートの非常階段上にたまたま舞い落ちた、葉にすぎない。葉と同等である。一枚の病葉。その存在に、ふさわしくないも、みあわないも、割があわないもない。葉は葉だ。どうあれ、いずれはふっと消える。それなら、そうであるならば、それぞれの<場>、それぞれの<時>、それぞれの<声>、それぞれの<沈黙>、それぞれの<身ぶり>で、安倍とその一味をこばみ、安倍を転覆し覆滅しようとすることは、葉の、葉と同等のものの、ちょっとした仕草として、あってもよいのではないか。存在と抵抗と<あがき>に、割があうも割があわないもない。抵抗は、もともとなにかにみあうものではない。一切にみあわないのだ。非常階段上の、ちぢみ、黒ずんだ葉。消えることだけが確約された記憶。それでいい。それがよい。それだからよい。それでもなお、くどくどといえば、アベとかれの同伴者たちはまったく呪わしい「災厄」以外のなにものでもないのだ。覆滅すべし!集団的自衛権行使容認はとんでもない錯誤だ。秘密保護法はデタラメだ。武器輸出解禁も許せない。原発輸出政策もとんでもない恥知らずである。朝鮮半島がかかわる(征韓論者たちを正当化する)史観、およそ反省のない日中戦争・太平洋戦争史観、強制連行・南京大虐殺・従軍慰安婦にかんする破廉恥な謬論、居直り的東京裁判観、靖国観、天皇(制)観、ニッポン神国史観という本音、核兵器保有可能論……どれをとっても、じつは「同盟国」米国でさえあきれている(ドイツであれば身柄逮捕級の)ウルトラ・ナショナリストである。そんなこと、もう言い飽きたよ。口が腐るよ。なによりも、なによりも堪えがたいのは、権力をのっとったアベの一派が、貧寒とした頭で、人間存在というものをすっかり見くびっていることなのだ。国家が個人を虫けらのように押しつぶすのを当然とおもっていることだ。みずからを、(議会制民主主義を批判したカールシュミットの言い方にそくせば)「例外状態にかんして決断を下す者」、つまり国家非常事態(戦争)を発令できる者とかんぜんに錯覚してしまったこと。錯覚したのは本人であり、錯覚させたのはかれのとりまきと自民党、およびファシズムを大いに補完する公明党=創価学会、財界、一部民主党をふくむ親ファシスト諸党派、砂のように無意識に流れてゆく「個」のない民衆、最終的にはいかなる質の権力であれ、権力に拝跪するのだけを法則づけられているメディア……と、いまいったところでなんになろう。しかし、なお、身じろぐのだ。一枚のちぢんだ葉にすぎないわたしは、無為にふるえ、不格好に身じろぎ、声にもならない声で、「否!」といおうとする。風に吹き飛ばされながら「否!」という。
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