★ 憶良は、同時代の他の歌人が詠わなかった題材――それはまた19世紀末までその後の歌人もほとんど詠わなかった題材でもある――を、詠った。
第一に、子供または妻子への愛着。
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処(いづく)より 来たりしものそ 眼交(まなかひ)に もとな懸りて 安眠(やすい)寝さぬ
また、
憶良らは今罷(まか)らん子泣くらむそを負う母も吾を待つらむそ
これは「宴を罷(まか)る歌」である。その後の日本の男は、こういう歌をつくらなかったばかりでなく、徳川時代以後には、そういって宴会から退出することを恥とする習慣さえもつくりあげた。この歌が今かえって爽やかに響くのは(『万葉集』の時代にはまだそういう習慣がなかった)、そのためである。
★ 第二に、老年の悲惨。たとえば「世間(よのなか)の住り(とどまり)難きを哀しぶる歌一首」は、「何時の間か」髪が白くなり、面に皺がよることをいい、女と寝た夜のいくほどもないうちに、老いさらばえた惨めさをいう。
★ 第三に、貧窮のこと、飢えと寒さ、しかも税吏の苛酷さのそれに加わる光景。「貧窮問答」の長歌にはその光景がよく描かれていて、次の反歌一首が全体を要約している。
世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
★ 彼の歌には他の『万葉集』歌人の誰にもない自分自身に対する皮肉、一種の「黒い諧謔」に近い調子がある。たとえば、「風雑(まじ)へ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は 術(すべ)もなく 寒くしあれば」ではじまる「貧窮問答」の長歌は、塩をなめて、濁酒を啜ることをいった後に続けている。
……しかとあらぬ 鬚かき撫でて 我を除きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば……
★ 自分自身を含めての対象への知的な距離は、子どもや老人から「我よりも 貧しき人」に到るまで、他の歌人には見えなかったものを、憶良の眼には見えるようにさせたのであろう。その知的な距離は、彼の外国文学の教養を俟ってはじめて可能となったのである。憶良は大陸文学を模倣したから、わが国で独特の文学をつくったのではない。大陸文学を通じて、現実との知的距離をつくりだす術を体得したから、日本文学の地平線を拡大したのである。
<加藤周一『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫1999)>
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