Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

漂泊する宮廷

2009-04-19 20:37:20 | 日記

★ わが国の皇室が精確な意味で天皇中心の宮廷のかたちを取ったのは大化改新以後、といっていいだろう。しかし、以来天皇中心の宮廷が安定したわけではない。安定と動揺を繰り返し、繰り返すごとに動揺の度が強くなっていった。動揺の原因は一に皇室内、二は大化改新の協力者、中巨改め藤原鎌足の子孫藤原氏、三に藤原氏専制のもとで力を貯え、これに代わって擡頭してきた武士層にあった。

★ 藤原氏は皇室内のしばしば血を伴う争闘を傍観するかに見せて、黙黙と事務に努めることによって律令政府の官僚組織を握り、有力な他氏族や障害になる皇族をつぎつぎに排除していった。排除の方法として、天皇の名のもとに血の粛清をおこなったのも、しばしばだった。障害がなくなると、女(むすめ)や姉妹を後宮に送りこんで皇子を産ませ、これを天皇に立てて外祖父として権力をふるったことは、歴史の教えるとおりだ。平安末期以降は新興武士層がこれに代わった。天皇を中心とする宮廷を安定した宮廷というなら、宮廷は漂泊、むしろ漂流していた。漂泊は明治維新になるまで続いた。

★ 親政を企てた天皇たちはしばしば事業のひとつとして勅撰集を下命した。その理由のひとつは、いかに藤原氏専制の時代といえども、勅撰集ばかりは天皇の専権だからだろう。そして、そのもうひとつ奥の心理には大化改新後、最も強大な天皇集権をやってのけた天皇、天武天皇がその重要な事業のひとつとして『古事記』の歌の結集を下命した記憶があったのではなかろうか。さらにいえば、壬申の乱を起こす前の彼の大海人皇子時代の妻子やわずかな近臣を連れての吉野入りは漂泊として語られていた。藤原氏専制の時代に親政を企てたほどの天皇たちには、宮廷の漂泊の相は見えていたのではないだろうか。

★ 後鳥羽上皇の場合はどうか。上皇は高位の藤原氏と源氏とを撰者に選んだだけではない。撰者たちの押さえともいうべき寄人筆頭に摂政太政大臣藤原良経を置き、撰上された内容に自ら積極的に目を通した。それは歌における親政とも呼ぶべきもので、武力をもって着着と政権を手中にしていく新興武士層に対して、武はともかくも文は上皇を頂点とする宮廷の専有物であり、これだけはけっして渡すことではない、やがて文をもとに武も宮廷に帰らねばならぬ、との決意が見てとれる。

★ 『古今和歌集』は古今流に、『新古今和歌集』は新古今流に、修辞の限りを尽くして、その集の歌がのちの世に伝わり、仰ぎしのばれんことを期待している。言い換えれば、のちの世に現れる本歌とされんことを期待している。本歌から本歌取りによって歌の生命の核、いわば遺伝子を貰って生まれた歌が本歌となり、のちの世に本歌取りされてさらに新しい歌となり歌の遺伝子を伝える。これがわが国の歌における時代から時代への生命伝達の形式だ。では、その遺伝子に記録されている情報はなにか。まず歌は神の言葉であるとの情報であり、神の言葉は神の言葉であるがゆえに漂泊しなければならない、という情報だ。

★ この情報は遺伝子を受け継ぐ歌に影響を与えるだけではない。歌の直接の産みの親である歌びとにも影響を与える。こうして、文の力によって武を押えようとした新古今歌壇の主宰者、後鳥羽上皇は押えきれないことに苛立って文を捨てて武を執り、敗れて荒海の中の隠岐に漂泊を余儀なくされ、上皇の精神的対立者、定家も歌への意欲を失う。犠牲者は武の側にもあった。鎌倉三代将軍源実朝、彼は武の側にありながら文に近づき、歌に傾きすぎたために、彼の居所は幕府の中の宮廷の趣を呈し、精神的漂泊のあげく身内に殺されなければならなくなった。

<高橋睦郎“漂流する宮廷”-『読みなおし日本文学史』1998>


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