先日のブログに、“朝一番に悪い文章を読むのは健康に良くない”と書いたばかりであるが、やはりインチキな大新聞の“言論”を放置するのはぼくの“良心”が許さない(笑)
だいいち、もう“朝”ではないのである。
“ノーマルな生活”を送っている方々にとっては、今日の朝一番にこのブログを見ることで、高橋睦郎氏の“明晰な文章”を読んでいただけたはずである。
ぼくはこの220ページしかない新書の、各章をずいぶん間を置いて読んできた。
そのたびに感心した。
“詩人”というのは、自分や自然の情感を巧妙に表現したり、人生や日常の機微を言語化できる“のみ”のひとではないのである。
それは、認識の能力である。
その対象が、“日本文学史”であろうが、“天皇の歴史”であろうが。
“詩人”は野暮ではないので、“万世一系の虚偽”などを声高に語らないのだけれど、高橋睦郎日本文学史=日本史においては、“それ”は明瞭である。
それどころか、“天皇”は、“神の歌”の略奪者である。
ああ、“悪い文章”について書くのを忘れるところであった(笑)
今日読売・編集手帳である;
慶応義塾を開いて実業家の育成に情熱を注いだ福沢諭吉のことを「相場などをして金をもうけることが好きな男さ」と揶揄したのは、旧幕臣の勝海舟だった◆他人の財力に頼らない新しい生き方を説く福沢を、勝は誤解していたのだろう。未熟な少年に経済学は不要と言う人々もいたが、判断力を養うことこそ大切なのだと福沢は反論した◆社会科の授業などを活用して金融教育に取り組む学校が増えている。貯蓄・投資の意義や賢い消費生活などについてゲームなどを通じて学習させている◆「人生には三つのものがあればいい。希望と勇気と少しのお金」。映画「ライムライト」に登場するチャプリンの台詞の意訳だ。「少しの」を空欄にして、生徒に考えさせる。金融広報中央委員会(事務局・日本銀行)が発行した事例集には、そんな指導も紹介されている。真の豊かさとは何かを考える契機にもなるだろう◆福沢が理想とした「文明」は、知徳を身につけた人々が活躍する世界であった。「お金で人の心が買える」とうそぶく起業家が闊歩するマネーゲームの世界などは、論外だったことは言うまでもない。(引用)
まったくコピペで一瞬に貼り付けられるから、労力がかからないのでいいものの、こんな文章を入力する気にだれがなるだろうか。
ぼくは福沢諭吉についてはよく知らないし、チャップリンは大分昔に見ただけである。
けれども、福沢諭吉とチャップリンには、おおきな違いがあることぐらいは分かるのである。
この編集手帳的“文脈”でいうなら、“カネに対する態度”がである。
“貧乏(カネがないこと)に対する態度”でもよい。
ぼくは“経済学”が“判断力を養う”などという暴論を認めるわけにはいかない。
もっと厳密にいうと、“どんな経済学”が判断力を養ってきたか、養っているかをこの編集手帳の書き手に聞きたい。
いや“経済学”でなくてもいい。
どんな“哲学”が判断力を養ってきたか?でも同じである。
つまり“学”と“現実”は、どういう関係にあるか???
つまり学校で“金融学”を教えることに、どんな“有効性”があるかを立証してほしい。
《人生には三つのものがあればいい。希望と勇気と少しのお金》とチャップリンが言ったなら、その意味を“考える”義務は、この編集手帳の書き手自身にある。
ひとの“言葉”を、いいかげんに“引用”するな。
自分が分かりもしない(分かろうともしない)言葉を安易に使用するな。
福沢自身に責任があるかどうかはしらないが、日本の“近代”が、“「文明」は、知徳を身につけた人々が活躍する世界”で“なかった”ことが、この現在において明瞭に現れているのだ。
《「お金で人の心が買える」とうそぶく起業家が闊歩するマネーゲームの世界などは、論外》ではないではないか。
まさに読売新聞自身が、「お金で人の心が買える」とうそぶいているものたちによる“言葉”でしか成り立っていないではないか。
“論外”なのは、この編集手帳のような、“ひとの言説を盗む”人々なのだ。
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