◆痔といえば、夏目漱石の小説『明暗』はその治療の場面から始まる。医者は主人公に告げた。「治療法を変へて根本的の手術を一思ひに遣るより外に仕方がありませんね」。そのセリフを、いつか有権者がつぶやく日が来ないとも限らない。
上記引用は昨日の読売新聞編集手帳の最後の部分である。
しかし《そのセリフを、いつか有権者がつぶやく日が来ないとも限らない》
というのは、どうゆう<意味>なんだろうか?
少なくとも、そのセリフを“まだ”有権者はつぶやいていない、と読売新聞は判断している。
その<判断>はいかなる根拠からなのだろうか?
そのセリフを“まだ”つぶやいていないのは、読売新聞に勤務するような“悠長な”お金に困っていない人々“だけ”ではないのだろうか?
しかしそもそも、この現在の日本で、《根本的の手術を一思ひに遣る》というのは、どういうことを<やる>ことなのだろうか。
みんなが、毎日おなじことを<やって>いて、どうして、《根本的の手術》は可能なのだろうか?
みんなが、毎日おなじテレビを見ていて、どうして、《根本的の手術》は可能なのだろうか?
この国の人々には(老いも若きも)、《根本的の手術》をみずから行う、<気力>はとっくに失せているのではないだろうか?
かのイチローさんが、“精神力ではない、技術だ”というのを聞いた(見た、テレビで;笑)
しかし、それなら、日本人には、いかなる<技術>があるのだろうか。
イチローの<技術>から、いったいぼくたちは、なにを学べばよいのでしょうか?
おじょうちゃん、おぼっちゃまがた、ぼくに教えてください。
ぼくは風邪の後遺症で、はななだ冴えない年越しを迎えるが、<痔>ではありません(爆)
ただ、自分の寿命が残り少ないことは年々切実である。
ぼくの寿命と同じくらいに<日本国>が滅びてしまわないことを願っている。
日本一のタワーがいくらそびえようとも、こころがカラッポでは、どうしようもない。
もう、欧米人が教えてくれることは、当てにならない。
世界中が、そのことで行き詰っている。
もしかしたら、日本列島の伝統が、人類最後の砦かもしれない、と思わないでもありません。そういう実験が今、この島でなされているのかもしれない。
いずれにせよ、あなたのような人がこの島のどこかでまだ生きておられるということは、希望はある、ということかもしれない。
ありがとう。
《「人間」という概念の定義を根本的に書き換える》
というのは、いいね。
ぼくにとっても、60代のなかばに近づき、<日本>というのは、ますます混乱するテーマとなってきました。
ぼくは《もう、欧米人が教えてくれることは、当てにならない》とも、思わない。
教えられるのではなく、むしろ、まだ、やはり、ぼくら日本人が“欧米人”や“アジア人”や“イスラーム”や“アフリカ人”や“ラテンアメリカの人々”とどのように関係するかが問題だと思う。
しかし<日本人>にも、漱石も賢治も建次も健三郎もいる、そして<彼ら>といかに関係するのか。
単純には、“気分”では、ぼくはこの世界にも、この日本にも希望を見出せない。
しかしそれは、端的に、間違いだ。
まさにそうした気分の底を掘り抜いて、どんなに微小でも、個別のものであるそれぞれの生から、関係することへの信頼を保持しなければならないと思う。
今のところ彼らの作り上げた人間という概念の定義が世界のスタンダードになっているのだろうし、それは根本的に書き換えられなければならない。そうでないとわれわれは、イスラムの人ともラテンアメリカの人とも関係できない。
僕はのうてんきな人間だから、人と人は寄り添い合って生きていくようにできている、と思っています。
80歳のゲーテは、18歳の娘に恋をした。人間なんてそんなものだよなあ、ということを世界中の人と共有してゆくためには、たぶん、欧米人がつくった人間観は書き換えられなければならない。
あなたにだってそんなゲーテのような純情はきっとあるのだろうし、もしかしたら世界中の80歳が心の底で共有している純情かもしれない。
まあこのことを僕は、直立二足歩行とことばの起源を世界中の人間が共有している、という方向で考えたいのだけれど、そこのところをいえばきりがなくなってしまうのでやめておきます。
《80歳のゲーテは、18歳の娘に恋をした》 いいね(笑)
ならば、ぼくにも<時間>がある。
<純情> そうだよ。
あなたの《直立二足歩行とことばの起源を世界中の人間が共有している》という思想を、ぼくはすでに受け取った。
しかし、たしかにあなたの思想は、簡単に“わかった”とは言えない、ぼくも共にこれから考える。
写真の女性は、旅先の中華料理レストランで見かけたまったくの“他人”だ。
ぼくは思わず彼女の後姿を入れて写真を撮った、彼女はひとりで食事をしていた。
ゲーテといえば、ぼくはベンヤミンの『ゲーテの「親和力」』という文章の最初を読んで圧倒されたが、まだ全文を読めないでいる(“ベンヤミン”というひとが、とても読むのが困難な人なのだ)
またたぶん今年、この『親和力』にもとづいた映画を見た(テレビで中途半端に)
『親和力』自体は読んだことがない。
そして、そこでは二組の<夫婦>の関係が扱われていたと思う。
こういうヨーロッパの過ぎ去った時代の<夫婦>というものと、現在日本の夫婦関係=男女関係は、関係あるのか関係ないのか?
あるいは、昔、まだぼくが結婚前に読んで記憶が曖昧なドストエフスキーの『白痴』のような男女関係に、現在のぼくたちは、なにを読むのか(大江健三郎は『さようなら、私の本よ!』で『白痴』に言及した)
そういう<文学>の読み直しが、これからのぼくの読書なのかもしれない。
たしかに“素朴なもの”と“複雑なもの”が激突している。
人生は、素朴なものに収斂できるのか、それとも、複雑なカオスの渦動をこそ最後まで引き受けるべきか。
ぼくは同時にすべてのものが殺到する場所に身を置きたい。
ぼくはイスラムもラテンアメリカもアジアももっと知りたい。
しかし、ぼくは(そして<日本>は)、<西欧近代>としてやはり目ざめた、そこにどんな偏向と偏狭があろうと。
ル・クレジオは、インディオの“素朴さ”で、自分の属する<西欧>を呪詛したが、その後自分のルーツに向かった。
フランス人デュラスは、《シャムの森でエクリチュールに出会った》自分の出自から、ヨーロッパの人間の<恋愛>の経験を書いた、それはこの時代のひとりの女性の愛の形の狂気に接するエクリチュールの試みだった。
そして中上建次は、<日本国家>を逆照射する場所として、路地=熊野を虚構としてでっちあげ、その架空の場所から、《アジアへ》繋がることを試行するうちに倒れた。
村上春樹は、まさにこの戦後日本にはじめて現れた、偽の豊かさのうちに自分の実存を喪失する<世代>を描き、その空虚をもたらした<悪>を直感したにもかかわらず、“それ”との対決を回避し、大衆文化状況にべったりと埋没した。
おどろくべきことに(ぼくにとっては)、大江健三郎がいた。
まさに大江健三郎に対するぼくの“関係”は、両義的=多義的である。
多重に屈折している。
しかし、彼は現在、ぼくの一歩先で、自分の死に直面したところで、考えている。
ここから、またはじめられる、かもしれない。
まさに<言葉>が多義的である、<映像>が多義的であり、<音楽>はある本質(単純な真実)をぼくに提示する。
けれども、あなたが直感するように、ぼくが抱き、最後に夢見るのは、ひとりの女のうしろすがた(そこにぼくが愛したすべての女がいる)のかもしれない。