★ 他者との電撃的遭遇によって主体の自己同一的表皮に傷がつき、穴があけられ(エロスの矢によって)、主体が対象の方へと流れ出しわたしが不分明になってゆく――わたしがあなたになる。あなたがわたしになる。かつて他者から分離してわたしがつくられた道を逆に辿るかのように、わたしは他者との距離を見失ってゆく。というよりも、他者との距離そのもののなかに迷いこんでゆくのである。
★ 破壊的所有と理想化との精妙なる混合、流出する欲望と境界画定をおこなう禁止との稜線である愛は、文学においてしか近代の敷居を超えられなかった。心情性よりも認識の上に存在をうちたてる哲学を前にして神学が退場したとき、愛する者たちの情熱と熱狂を受けとめたのはレトリックであった。(クリステヴァ「偏執的エロス、崇高なるエロス」)
★ もしわれわれに宗教が残されているなら、それは美的な宗教である。というのは、虚構的意味のつかのまの展開のなかでこそ、もっとも強固にナルシシズムが保護されるからである。(クリステヴァ『愛の歴史=物語』)
★ 宗教がとうに瓦解し、また個人間の永続的愛も神話的にしか語られない現在、自己の固有性がつくられ更新される愛の空間は芸術にしか残されていないというのが、クリステヴァの考えである。『愛の歴史=物語』の結びの章で、現代人は愛を病むET(地球外異生物)に喩えられている。心的空間を奪われ、したがって自己固有の像を失って、ただ愛を再びつくりだそうとのみ願っている、追放された者。われわれは皆ETなのだ、と彼女はいう。
★ 死の欲動は、愛の名において服従を命ずる法(ノモス)としての<父>によっては包摂されない。クリステヴァのいう<想像的父>のような、死を生へと転ずることのできる愛する<父>によって、いいかえれば、情動を意味へとつなげることのできる新たなコード化によってしか、昇華されないだろう。そして、そのようなコードを虚構的なつかのまのものとしてつくり出すことができるのは、「もはや宗教でも、政党でも、政治参加でもなく、あるいは、ほとんどなく、創造行為、言語活動といった想像的な個人的な営みでしかないだろう」というクリステヴァの発言は、我われ一人ひとりに日常的実践を問い返させるものとなっている。
<西川直子『クリステヴァ-ポリロゴス』1999>
<追記>
クリステヴァのエクリチュールは、まだつづく。
『愛の歴史=物語』を補完する『黒い太陽-抑鬱とメランコリー』に取り組む。
なぜなら、抑鬱とメランコリーは、《愛がもたらす高揚の裏面》であるから。
★ 『愛の歴史=物語』を書いてゆく途中で、愛のもうひとつ別の面が見えてきました。それなしには語る主体の誕生はけっしてもたらされないもの、つまり喪失と喪の様相を、抑鬱と憂愁に閉ざされた裏面において展開する必要を感じたのです。(インタビュー)
この本で、クリステヴァはルネサンス期の人間の“もうひとつ別のヴィジョン”を提示したハンス・ホルバインの仮借なきレアリスムについて書いている;
★ 死を免れえない人間、<死>を抱擁し、みずからの存在そのもののうちに<死>を吸収する人間、みずからの栄光の一条件としてでもなく、みずからの罪深い本性の一帰結としてでもなく、みずからの脱神話化された現実――これこそ新しい尊厳である――の最終的真髄としての<死>を組み込む人間、というヴィジョン。
<西川直子『クリステヴァ-ポリロゴス』1999>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます