Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

カフェイン抜きのコーヒーあるいは<他者>抜きの<他者>

2009-10-21 22:33:32 | 日記

★ 現代社会は二つのベクトル――現実への逃避と極端な虚構化――へと引き裂かれているように見える。両者はどのように関連しているのか。ここまでの考察によって、推論しうることを述べておこう。偽記憶(注)についての考察が暗示しているように、究極の「現実」、現実の中の現実ということこそが、最大の虚構であって、そのような「現実」がどこかにあるという想定が、何かに対する、つまり<現実>に対する最後の隠蔽なのではないか。だが、隠蔽されている<現実>とは何なのか?とりあえずそれを「X」と置いてみよう。

★ こんなふうに考えてみたらどうであろうか。われわれは、現代社会に、一見、矛盾する二つの欲望を見たのであった。一方には危険や暴力を排除し、現実を、コーティングされた虚構のようなものに転換しようとする執拗な挑戦がある。他方には、激しく暴力的で、地獄のような「現実」への欲望が、いたるところに噴出してもいる。これら、二つは、ともにXへの対処法ではないか。両者が、互いに矛盾した方向を指し示すのは、Xが、決して、それ自体として認識したり、同定したりすることができず、それゆえ、直接に体験や行為の対象にはなりえないからではないか。Xは、大きく歪んだ形でしか、認識したり、体験したりすることができないのだ。

★ Xに間接的に関わる二つの方法が、述べてきたような二つのベクトルとして結晶するのではないだろうか。たとえば、ある条件の下では赤く見え、別の条件の下では青く見える対象があったとして、その対象の、それ自体としての色ということを言うことはできない。その対象の色に対する唯一の正しい認識は、「青くかつ赤い」という矛盾をそのまま受け入れことだろう。そうした矛盾した命題を結論する視差をそのまま肯定しなくてはならない。Xも、そのようなものである。とすれば、Xは、直接には、認識や実践に対して立ち現れることのない「不可能なもの」である。

★ したがって、虚構の時代の後に、現実を秩序づける準拠点となっているのは、この認識と実践から逃れゆく「不可能なもの」である。すなわち、現実の現実を秩序づけている反現実は、直接には見えていない「不可能性」である。「理想→虚構→不可能性」という順で、規準的な反現実の反現実性の度合いは、さらに高まっているのである。われわれが今、その入り口にいる時代は、「不可能性の時代」と呼ぶのが適切だ。


★ われわれは、今や、<不可能性>とは何か、不可能な<現実X>とは何かを、推定しうるところにきた。<不可能性>とは、<他者>のことではないか。人は、<他者>を求めている。と同時に、<他者>と関係することができず、<他者>を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの<他者>こそ、<不可能性>の本態ではないだろうか。

★ われわれは、さまざまな「××抜きの××」の例を見ておいた。カフェイン抜きのコーヒーや、ノンアルコールのビールなど。「××」の現実性を担保している、暴力的な本質を抜き去った、「××」の超虚構化の産物である。こうした、「××抜きの××」の原型は、<他者>抜きの<他者>、他者性なしの<他者>ということになるのではあるまいか。<他者>が欲しい、ただし<他者>ではない限りで、というわけである。

<大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書2008)>



*注:偽記憶

《 多重人格の病因については、定説がある。患者が幼児期に受けた虐待――典型的には娘=患者が父親から受けた性的虐待――が、原因だというのだ。患者は、この過去のトラウマ的な出来事に直面できず、その苦痛に耐えるために、人格を分解したのだと説明されてきた。(略)ところが、やがて、虐待の記憶自体が、しばしば――「常に」というわけではないにせよ――患者による捏造であることが分かってきた。無論、患者は、意図的に記憶を捏造しているわけではない。患者自身も、それを「真実」として発見するのだが、客観的には、明らかに創作であると分かるケースがあるのだ。これらは「偽記憶症候群」と呼ばれる。》(同書より)




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