なにかを“読む”とき、その動機はなんなのだろうか?
面白さを求めて、気持ちのよい時間の過ごし方を求めて、“感動”を求めて、読んでもよいのである。
なにかの資格を得るため、なにかの“ハウ・トゥー”を求めて、読むこともあるだろう。
しかしここで考えたいのは、そういう目的ではない読書である。
これは、対象の“ジャンル”によるのではない。
たとえば、“哲学書”を、“生き方”のハウ・トゥーを求めて読む人もいるだろう。
そうでない読書の場合、ふたつの方向があるように思える。
A:あるテーマ(問題)を知りたいから読む
B:それを書いた人を知りたいから読む
こう書くと、ただちに、このA、Bは、分けられないということも分かる。
しかし、“方向性”のウエイトというようなことを考えている。
ぼくは、最近、あきらかにBにウエイトを置くことにした。
たとえば、“パレスチナ問題”を知るために、その問題を扱った本を集め、それを全部(日本語で書かれた本だけでも)読むだけでも、すごく時間がかかる(だろう)
だからぼくらは、そういう問題をあつかった“定評ある本”を数冊選んで読むわけだ。
そういう読書があってもよいし、ぼく自身もそういう読書を行っている。
だが“パレスチナ問題”にかんして、サイードを読むというのがBの方法である。
この場合は、そのひとが書いた文章を、“時系列で”順番に読むのがベストだと思う。
だがサイードひとりであっても(翻訳されているものだけでも)膨大である。
しかも対象は“パレスチナ-サイード”だけではないのである。
ベンヤミンも気にかかる(笑)
いやいや“気にかかる”ひとは、絞っても、10数人はいるのである。
だからカントやヘーゲルは解説書だけで誤魔化す(笑)
問題は“日本人(日本の書き手)”である。
ぼくはなかなか“絞る”ことができない。
ただひとつのぼくの方針は、定評ある書き手(丸山眞男や加藤周一)を選ばないということだ。
ぼくは現在書き続けているひとを選びたい。(注)
この場合のアプローチは、サイードやベンヤミンとはちがったものになる(だろう)
つまり“同時進行”的になるだろう。
また、ぼくの“選択”は、いつもぐらついている。
ぼくが、いま、だれを選んでいるかは、このブログを注意深く読むひとには、明瞭だと(明瞭になると)思う。
昨夜引用した大澤真幸氏の文章(『資本主義のパラドックス』あとがき)でカットした部分から引用する;
★ 一見、自分たちにとって馴染みの薄い社会や文化、生の形式を主題にする方が、現在を対象化するよりよりもずっと困難であるように思われる。確かに、そのような面もある。異なる文化、異なる生を理解する、ということには固有な困難がともなっている。しかし、現在への探究は、これとは別種の困難にどうしてもぶちあたる。
(注)たとえば大江健三郎である。
面白さを求めて、気持ちのよい時間の過ごし方を求めて、“感動”を求めて、読んでもよいのである。
なにかの資格を得るため、なにかの“ハウ・トゥー”を求めて、読むこともあるだろう。
しかしここで考えたいのは、そういう目的ではない読書である。
これは、対象の“ジャンル”によるのではない。
たとえば、“哲学書”を、“生き方”のハウ・トゥーを求めて読む人もいるだろう。
そうでない読書の場合、ふたつの方向があるように思える。
A:あるテーマ(問題)を知りたいから読む
B:それを書いた人を知りたいから読む
こう書くと、ただちに、このA、Bは、分けられないということも分かる。
しかし、“方向性”のウエイトというようなことを考えている。
ぼくは、最近、あきらかにBにウエイトを置くことにした。
たとえば、“パレスチナ問題”を知るために、その問題を扱った本を集め、それを全部(日本語で書かれた本だけでも)読むだけでも、すごく時間がかかる(だろう)
だからぼくらは、そういう問題をあつかった“定評ある本”を数冊選んで読むわけだ。
そういう読書があってもよいし、ぼく自身もそういう読書を行っている。
だが“パレスチナ問題”にかんして、サイードを読むというのがBの方法である。
この場合は、そのひとが書いた文章を、“時系列で”順番に読むのがベストだと思う。
だがサイードひとりであっても(翻訳されているものだけでも)膨大である。
しかも対象は“パレスチナ-サイード”だけではないのである。
ベンヤミンも気にかかる(笑)
いやいや“気にかかる”ひとは、絞っても、10数人はいるのである。
だからカントやヘーゲルは解説書だけで誤魔化す(笑)
問題は“日本人(日本の書き手)”である。
ぼくはなかなか“絞る”ことができない。
ただひとつのぼくの方針は、定評ある書き手(丸山眞男や加藤周一)を選ばないということだ。
ぼくは現在書き続けているひとを選びたい。(注)
この場合のアプローチは、サイードやベンヤミンとはちがったものになる(だろう)
つまり“同時進行”的になるだろう。
また、ぼくの“選択”は、いつもぐらついている。
ぼくが、いま、だれを選んでいるかは、このブログを注意深く読むひとには、明瞭だと(明瞭になると)思う。
昨夜引用した大澤真幸氏の文章(『資本主義のパラドックス』あとがき)でカットした部分から引用する;
★ 一見、自分たちにとって馴染みの薄い社会や文化、生の形式を主題にする方が、現在を対象化するよりよりもずっと困難であるように思われる。確かに、そのような面もある。異なる文化、異なる生を理解する、ということには固有な困難がともなっている。しかし、現在への探究は、これとは別種の困難にどうしてもぶちあたる。
(注)たとえば大江健三郎である。