Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

読むとき、なにを求めているのか

2009-10-21 12:29:18 | 日記
なにかを“読む”とき、その動機はなんなのだろうか?

面白さを求めて、気持ちのよい時間の過ごし方を求めて、“感動”を求めて、読んでもよいのである。
なにかの資格を得るため、なにかの“ハウ・トゥー”を求めて、読むこともあるだろう。

しかしここで考えたいのは、そういう目的ではない読書である。

これは、対象の“ジャンル”によるのではない。
たとえば、“哲学書”を、“生き方”のハウ・トゥーを求めて読む人もいるだろう。

そうでない読書の場合、ふたつの方向があるように思える。
A:あるテーマ(問題)を知りたいから読む
B:それを書いた人を知りたいから読む

こう書くと、ただちに、このA、Bは、分けられないということも分かる。
しかし、“方向性”のウエイトというようなことを考えている。

ぼくは、最近、あきらかにBにウエイトを置くことにした。

たとえば、“パレスチナ問題”を知るために、その問題を扱った本を集め、それを全部(日本語で書かれた本だけでも)読むだけでも、すごく時間がかかる(だろう)
だからぼくらは、そういう問題をあつかった“定評ある本”を数冊選んで読むわけだ。
そういう読書があってもよいし、ぼく自身もそういう読書を行っている。
だが“パレスチナ問題”にかんして、サイードを読むというのがBの方法である。

この場合は、そのひとが書いた文章を、“時系列で”順番に読むのがベストだと思う。
だがサイードひとりであっても(翻訳されているものだけでも)膨大である。
しかも対象は“パレスチナ-サイード”だけではないのである。
ベンヤミンも気にかかる(笑)

いやいや“気にかかる”ひとは、絞っても、10数人はいるのである。
だからカントやヘーゲルは解説書だけで誤魔化す(笑)

問題は“日本人(日本の書き手)”である。
ぼくはなかなか“絞る”ことができない。
ただひとつのぼくの方針は、定評ある書き手(丸山眞男や加藤周一)を選ばないということだ。
ぼくは現在書き続けているひとを選びたい。(注)

この場合のアプローチは、サイードやベンヤミンとはちがったものになる(だろう)
つまり“同時進行”的になるだろう。
また、ぼくの“選択”は、いつもぐらついている。

ぼくが、いま、だれを選んでいるかは、このブログを注意深く読むひとには、明瞭だと(明瞭になると)思う。


昨夜引用した大澤真幸氏の文章(『資本主義のパラドックス』あとがき)でカットした部分から引用する;

★ 一見、自分たちにとって馴染みの薄い社会や文化、生の形式を主題にする方が、現在を対象化するよりよりもずっと困難であるように思われる。確かに、そのような面もある。異なる文化、異なる生を理解する、ということには固有な困難がともなっている。しかし、現在への探究は、これとは別種の困難にどうしてもぶちあたる。



(注)たとえば大江健三郎である。




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1 コメント

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京都大学は最悪だ! (ななこ)
2009-11-28 23:03:50
京都大学の教授がまた学生を強姦して話題になっている。本当に最悪な京都大学だ。強姦が教育だとはね。こんな凶悪な大学教授が国民のカネを強盗して優雅に暮らしているのは怒りを通り越してこいつを殺したくなる!人間環境学研究科の大沢というバカ教授がいったい強姦してまで何を研究しているのかあきれはてたものだ。こんな凶悪犯罪人に国民のカネを注ぎ込むわけには絶対にいかない!今まで京大教授が横領したカネを全部返せ!
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