★ 雨が一滴も降らない長い乾季の農閑期の夜、あちこちの家の中庭の、満天の星の下で、夜ふけまで続く夜のまどい「ソアスガ」で語られるお話しの数々を聞いて、私はこの人たちの声としての言語の輝きにうたれた。(略)話したり歌ったりすることのプロでも何でもない、昼間は泥まみれになってかせいでいる、栄養不良も多いがきや娘やおばさんたちの、いったいどこからこんな素晴らしい声が、ことばが出てくるのか、私もむしろいぶかしさを抱いたくらいだ。
★ 文字を用いた学校の言語教育で画一化され規格化されることのなかった、アナーキーなことばの輝き――私はこのサバンナに生きる人たちの音声言語の美しさを、よくこういうことばで表現する。この人たちは学校で、文法書を使って「言語」を教わらなかった。文法とも辞書とも無縁に生きてきたので、この人たちにはいわゆる方言だけでなく、村語があり、家語が、自分語がある。ひとりひとりが自分で身につけたことばを、自分の発音で、それも吹きさらしのサバンナの屋外生活の多い毎日のなかで、よく通る大きな声で話すことを、幼いときからくりかえして育ってきたのだ。声が、ことばが輝いているのは当然だともいえる。
★ たしかに、村語や家語や自分語が、お上の定めた標準語で規格化されれば、ことばの通用する範囲はひろまるだろう。だがそれではことばが「通用する」とはどういうことなのか。そこで通用するのは、通用するように作られ、教えられた意味ではないのか。行政上の通達を「正しく」つまりお上が期待するように理解し、かなり広範囲の地域の人々が、規格化された意味を伝えあう――標準語を作り、それを教える初等教育を徹底することが、近代のいわゆる国民国家の形成と手をつないで進行したのは偶然ではない。
★ だがことばの「意味が伝わる」ということが実際には何層にもなっているという、考えてみればあたりまえの事実に私が「耳をひらかれた」のも、自分語で何のためらいもなくいきいきと自己表現をし、「意味の理解」ということが何層にもなった、言語内言語とでもいうべき太鼓ことばをもっているこのサバンナの人たちとのつきあいのなかでのことだ。学校で教わる標準語で方言や自分語が画一化されることで消えてしまう意味の伝達の側面が、人間の生きた声による伝えあいのなかには重要なものとしてある。
<川田順造“多言語主義とは何か”――『高校生のための現代思想エッセンス』(筑摩書房2007)>
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