★ 動物個体が生きることの「目的」は遺伝子をのこすことなのだから親が子の世話を自己犠牲的に行うことも「当然」だというふうに考えられているのだろうが、それならアリやハナバチの献身も端的に「利己」行動であり(遺伝子を残すのだから!)、はじめから「利他行動」などと定義する必要はない。
★ そもそも女王といいワーカーという。(ダーウィンは「奴隷」とさえいう)それは人間の母性主義的なイデオロギーの投影である。つまりメスの幸福は子を産むことにのみあるはずだという思い込みの投影である。暗い湿った巣の底に生涯幽閉されて(若い頃の新婚旅行の他は!)、産卵労働を強いられている産卵蜂と、風の中、陽光の下で芳香を放つ花から花へと飛び交う収集蜂たちと、どちらがメスの生き方として幸福だろうか?そんなことは人間には分からない。
★ 動物の個の身体が本来はそれ自身の「ために」ではなく、そこに乗り合わせた遺伝子たちの自己複製のメディアとして形成され展開されてきたものである、という社会生物学の理論の合理的な核心自体が、(俗見と逆に)個体の「利他性」の普遍性をこそ立証している。
★ 本来は、という限定は、起源回帰論的な含意ではなく、むしろ反対に、少なくとも高等生物の行動において、(最低限、文明化された人間の個体において)この個体という上位のシステムの創発的な自律化が、みずからの創造主たる遺伝子のテレオノミーに反逆し、個体の自己目的性を獲得することがありうるという事実に論議を開くためである。エゴイズムはむしろ高等な能力である。産卵死する宿命を拒否し、大海にひとり悠然と遊ぶ紅鮭はいるか。
<真木悠介『自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学』(岩波現代文庫2008)>
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