あるひとが亡くなると、メディアはそのひとの言葉を引用する。
いまネットをざっと見ただけで以下のような言葉を拾うことができた;
★ 悩みごとや悲しみは最初からあるが、喜びはだれかが作らねばならないという詩です。この喜びのパン種である笑いを作り出すのが私の務めです。
★日頃からよく勉強し、よく考え、大事なときに、そういったものをすべて捨て去って自然体になる。
★起こったことを忘れてはいけない。忘れたふりは、なおいけない。
★いつまでも過去を軽んじていると、やがて私たちは未来から軽んじられることになるだろう。
★ 人間の愚かさが誰かに注意されて改まるならば、悲しみや怒りではなく、笑いによって注意を下されるべきではないだろうか。
天声人語はいう;
《▼脚本を書くうち、日本語を問題にすることになったと話していた。「日本語は主語を隠し、責任を曖昧(あいまい)にするのに都合が良い。その曖昧に紛れて多くの人が戦争責任から遁走(とんそう)した」と。日本語を様々な角度から見つめてやまない人だった▼「むずかしいことをやさしく」と言い、さらに「やさしいことをふかく」と踏み込む。故人が求めた極意に、われ至らざるの思いばかり募る。遥(はる)かなその背中を、もうしばし追わせてほしかった》(引用)
キーワードは、<笑い>だろうか、<日本語>だろうか、<責任>だろうか?
もちろん“これら”は、同じことである。
ぼく自身、先日書いたように、井上ひさし氏の作品をたくさん読んだり、その劇をマメに見てきたわけではない。
けれども彼の作品で、笑うことはできた。
ぼくが疑問に思うのは、現在、井上氏の作品で“笑えるひと”は、はたしてどれだけいるかなのだ。
たしかに、笑うことは、単純な自然性ではあるのだけれど、“なにに笑えるか?”という困難性もあるのである。
ぼくたちの<笑い>が、とても貧しくなってきているようにも思える(笑っていいとも!)
もちろん、この貧しさは、<日本語>の貧しさである。
笑いは、緊張を解くのだけれども、そのためには、ぼくたちがやはりある種の<責任>において、この世界とのある種の<緊張>を感知しなければならない。
もちろん、井上ひさし氏は、そのような野暮は言わなかっただろうが。
天声人語が書いている、《われ至らざるの思いばかり募る。遥(はる)かなその背中を、もうしばし追わせてほしかった》という言葉の、<主語>は、だれであろうか?(爆)
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