Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

たかが野球じゃないか

2009-03-25 10:04:24 | 日記
たかが野球じゃないか。

“WBC連覇 日本を元気づける世界一だ(3月25日付・読売社説見出し)”

とはなにごとであろうか。

“日本チームの活躍に元気をもらった人も多いことだろう”(読売社説)


ぼくには、どうして“日本チームが活躍すると元気をもらう”ことができるかが、不可解であるが、そういうひとがいることは、かまわない。

わからないのは、読売新聞が社説で(まで)“日本を元気づける世界一だ”などと言うこと自体なのだ。

“野球”という競技が、サッカーのように“世界的な”競技ではないという事実問題からそう言うのではなくて、“世界一”だと“元気が出る”という発想が馬鹿げている。

そういう発想でしか考えられない限り、“日本”は永遠に“世界の田舎”でしかない。
もちろん“アメリカ”という国が、“世界一”にこだわるなら、それも“世界の田舎”にすぎない。


《きょうもどこかの空の下で、「へたくそ」の声に傷つき、歯を食いしばって球拾いをする少年がいるだろう。あすの真珠たちに幸あれ》
と言っているのも読売新聞“編集手帳”である。

こういう“嘘”をいつまで堂々と書き続けるのだろうか。

“へたくそで球拾いする少年”がWBCとやらに出られる可能性はほとんどない。
あらゆる“プロ・スポーツ”が、スペシャリストとして育成されたものだけの世界になっていることを、知らないなどとはいわせない。

そういう“プロの世界”が、あるべきかどうかには、議論の余地がある。
けれども、“つまらない幻想”を振りまくのはやめてほしい。


“へたくそで球拾いする少年”が、“世界一”にならなくてもいいのである。

むしろ“世界一”になるために、“野球のことしかわからない”少年が大人になってしまうことこそネガティヴである。

たしかに“スポーツの領域”というのは、プロとアマの技量の差が露骨である世界である。

しかしこの世界は、すべてスポーツの世界としてあるのではない。
そこでは、すべてのひとが本当は“素人(しろうと)”なのである。

ぼくは“すべての素人”が協力して、互いを“レベルアップさせる”ような関係が、“よい世界”なのではないかと考える。

《▼決勝打を放ち、イチローはにこりともしなかった。こちらは仕事師の顔である。敬遠もありえた場面で投手が勝負したのは、打者が「日本代表の代表」だからだろう。シンボルをねじ伏せたいという思いは、センター前にはじき返された▼隣国と好敵手になるのは悪くない。サッカーのブラジルとアルゼンチン、ラグビーの豪州とニュージーランド。意識し合い、互いに強くなった。日韓が戦うたび、伝説と因縁が積み上がる。すべて、共有の財産である。》 (天声人語)


なぜ、すべてのひとが“勝負師”であったり、そういうひとを模範にしなければならないのだろうか(笑)
なぜ“好敵手”を、必要としなければならないのか?
いったい、ぼくたちの“共有の財産”とは、何なんであろうか?

ぼくたちが、“強くなる”ために必要なことは、“野球観戦”ではありえない。


ぼくたちは、”戦後ずっと”野球を観戦してきたのに、”強くなって”いないのである。




<追記;誤解なきように>

自分でこのブログを読み返して、“誤解”が生じるおそれがあるので追記する。
(ぼくのDoblogからの読者なら、誤解の余地はないと思うが)

ぼくが最後に“強くなる”と書いた意味は、“日米軍事同盟を強化する”とか“自力の軍備を強化する”というようなことでは、ありません。

その反対です。

“個人”のそれぞれが、“強くなる”にはどうしたらよいのか?という問題提起です。
あるいは、“強くなる”などということに、“気張らないで”すむ<社会>のことです。

しかし、そういう<社会>へ向かうためには、たしかにまだ(永久に?)“たたかい”が必要かもしれない。

しかしその“たたかい(勝負!)”は、“野球というゲームの比喩”では語りえない。

そういう“比喩”で語って(語られて)しまって、“元気づけられている”この状況自体が、ぼくたちから真の“たたかい=取り組むべき思考”を奪っているのだ。

つまり“戦争”ではない“たたかい”、この閉ざされた個の場所から、外に出ようとして、<他>と関係する思考=行為は、“試行”される。


ぼくたちにいま必要なのは、基礎的な=根底的な=ラディカルな思考なんです。
“批判的な”思考であって、“保守的な”思考ではありません。

哲学や科学は、方法のちがいはあっても、いつの時代にも“この思考”をおこなった人々の思考であり、それはそれまでの認識を“批判”しています。
そして自らの認識を提示しています。
そして、その“認識”もまた“批判”されうるのです。

批判のための批判ではないのです。
考えるならば、それは批判となるのです。
あるいは、“批判”が目的ではなく、いつも“基礎的な(基本的な)”思考-認識-想像-行為だけが必要だと思います。


もしぼくが、“たかが野球の話題”から、オーバーな論議をしていると思うなら、そうではないだろう。

たかが野球である話題から、またもや、“世論操作(”時代の空気”の押しつけ=支配)”を狙っているのは、読売、朝日などのマス・メディア自体である。


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